第29話 敗者の勘定
退却の軍が国境の城に入ったのは、二日ののち、夕暮れのことである。
岱の軍は、実数にして四万、号して六万と言われた。その軍が城門をくぐるとき、二万五千ほどに減っていた。
焼け残った兵糧は、わずかであった。二日の道のあいだ、兵は半ば飢えたまま歩いた。誰もことばを発しなかった。城の門をくぐると、ようやく、あちこちで人が崩れるように座り込んだ。
郭巍は馬を降りた。
背筋はまっすぐであった。顔には疲労の色があったが、取り乱したところはどこにもない。この男は、敗れるときも、算盤の珠を弾くように、ひとつずつ足もとを確かめながら敗れた。
「負傷者を手当てせよ。糧はあるだけ分けよ。まず、兵を休ませるのだ」
それだけ命じて、郭巍は城の奥へ入っていった。
*
城の奥の一室で、郭巍はひとり、灯の前に座っていた。
報告を書かねばならない。筆を取ったが、進まなかった。
――あの老人は、なぜ、あそこまで来られたのか。
それを考えていた。
百騎で四万の本陣へ。常識では、届くはずのない道である。届いたのは、鍾塁が持ち場を離れたからだ。鍾塁が離れたのは、あの旗が総大将の旗であったからである。
郭巍は筆を置いた。
鍾塁は、「将軍が危ない」と叫んだという。あの男は、旗が自分の首を狙っていると信じたのだ。
そうではない。
郭巍はさらに考えた。
あの旗は、自分の首を狙っていたのではない。鍾塁を動かすための旗であった。老人は囮だった。その背後に、本物の刃があった。澗の騎兵、千騎である。
陸稜が現れなかったら、その刃は自分の旗の下に届いていた。
――狙いは、わしの首であった。
背に、冷たいものが走った。
勝つためでもなく、岱を乱すためだけでもない。自分の首を取るために、澗は総大将を囮にした。
総大将。軍の頭である。
その頭を、囮に使う。
自分に、それができただろうか。
郭巍は、答えを出せなかった。
惜しい、と思っていた。あの若者の才を、惜しいと。
惜しいどころではない。
かれは、灯を見つめた。
*
その夜、郭巍は陸稜を呼んだ。
城の一室である。灯がひとつ、卓の上にともっていた。
陸稜は頬に布を巻いていた。范鴻の戟が裂いた傷である。血は止まったが、顔の半分が熱を持ち、うずいていた。
「座れ」
「は」
陸稜は郭巍の前に腰を下ろした。
郭巍はしばらく何も言わなかった。灯のほうを見たまま、指で卓の端を、とん、とん、と叩いている。
「礼を言う」
ようやく、口を開いた。
陸稜は顔を上げた。
「おぬしが兵を集め、方陣を組まなんだら、わしは本陣ごと討たれていた。総崩れになっていた」
「私は、ただ……」
陸稜はくちびるを噛んだ。
「将軍の令を偽りました。出ていない令を、出たと申して」
「令は、わしが出していた」
郭巍は静かに言った。
「ただ、届かなんだだけだ。おぬしは、それを届けた。偽りではない」
陸稜は、何も答えられなかった。
「それだけではない」
郭巍は続けた。
「本陣だけではない。わしの首も、あの老人の旗の下にあったであろう」
「将軍の、首が」
「あの旗は囮じゃ。本物は、その後ろの騎兵だった。おぬしが、あの騎兵を止めた」
陸稜は范鴻の戟を思い出した。
「それに」
郭巍は指を止めた。
「砦を落とした翌日、おぬしは言うたな。あの南の道が、よすぎると。わしは、それを聞いて退けた。退けた、そのわしが、いま、おぬしに救われた。おかしなものだ」
「いえ」
「石は、まだ重いか」
陸稜は少し考えた。
「……いえ。いまは、別の重さがございます」
「史連か」
陸稜はうなずいた。
郭巍は、灯の影のなかで、かすかに目を細めた。
「それは、持っていろ。軽くしてはならぬ」
陸稜は頭を下げた。
「澗の騎兵と刃を交えたそうだな」
「范鴻と申す男です。勝負は、預けました」
「そうか」
郭巍は卓の上の灯に、目を戻した。
「預けたものは、いずれ取り立てることになる」
*
三日ののち、宰相の彭延が都から着いた。
彭延は輿に揺られて来た。剣を佩かず、馬にも乗らず、痩せた体を、あの輿のなかに小さく畳んでいる。
広間で、査問が開かれた。
ちょうど二年前の、あの席と同じであった。居並ぶ将たちの背は、戦場にいるときよりも硬かった。
ただ、このたびの席には、公孫燁も岳崇もいない。代わりに、郭巍が上座の下に立っていた。
「報告を」
彭延が静かに言った。
郭巍は、よどみなく述べた。
砦を落とし、古城を囲み、兵糧で干しにかかったこと。八日目に空城の計を見て判断に迷い、包囲を続けたこと。十日目の暁に烽火が上がり、砦の兵糧が焼け、伝令が届かず、状況がわからなくなったこと。退却を命じたこと。その退却のさなかに、押さえを命じた鍾塁が持ち場を離れたこと。
述べるあいだ、郭巍はひとつの名もごまかさなかった。
鍾塁の名も、まっすぐに口にした。
広間の隅で、当の鍾塁が顔を伏せていた。大きな体を、小さく縮めている。
「鍾塁が持ち場を離れたのは、わしを守ろうとしたがゆえにございます」
郭巍は言った。
「しかし、それを許した責めは、将たるわしにございます。わしが鍾塁の気性を見抜いておらなんだ」
鍾塁が顔を上げた。目が赤くなっていた。
「責めは、将が負うものにございます」
郭巍は、そう結んだ。
広間の隅で、ひとりの若い隊長がその声を聞いていた。陸稜である。頬の布は、まだ取れていなかった。
かれは、二年前の岳崇の声を思い出していた。
*
彭延は、すべての報告書に目を通していた。
鍾塁の離脱が退却を乱したこと。それでも陸稜が兵を集め、方陣を組み、総崩れを防いだこと。郭巍が責めを自分に引き受けたこと。
この老人は、すべてを知った上で裁きを下した。
「郭巍。南岳の位は動かさぬ」
広間がざわめいた。
「鍾塁。一年の謹慎を命じる。その間、兵権を預かりおく」
鍾塁は床に額をつけた。
「陸稜」
陸稜が前へ出た。
「このたびの働き、聞き及んでおる。千人将に取り立てる。以後、郭巍の麾下として励め」
「は」
陸稜は深く頭を下げた。
岳崇は兵権を解かれ、北辺へ転じた。自分は取り立てられる。その落差が、陸稜の胸に重くのしかかった。
彭延は、それを知っていたのであろうか。知っていて、そうしたのか。老人の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
*
査問のあと、彭延は郭巍をひとり、奥の部屋に呼んだ。
灯のもとで、ふたりの老いた男が向かい合った。
「話せ」
彭延が言った。
「報告書には書けぬことが、あるであろう」
郭巍は、少し黙った。
「宰相どの。この戦、賈牧は勝つために組み立てたのではございませぬ」
「ほう」
「わしらを持久戦の形へ誘い込んだうえで、持久戦をさせぬために、組み立てたのでございます」
彭延は卓の上で指を組んだ。
「砦と古城。あれは、わしらに持久戦をさせるための餌にございました。兵糧を砦に積ませ、古城を干しにかかる。その流れに、わしらを乗せる。そこへ十日目に、すべてをひっくり返す。……そのために、十日ぶんの兵糧しか持たぬ城を、あの者は、わざとそのまま受けたのでございます」
「十日か」
「十日。長くも短くもない、ぎりぎりの数にございます。わしが待つと決めるに足る長さ。そして、あの者が持ちこたえるに足る長さ」
郭巍は、息をひとつ詰めた。
「あの者は、わしが一流であることに賭けたのでございます。わしが勘定で動く男であることに。罠だと疑っても、勘定を曲げぬ男であることに。……そうでなければ、この策は成り立ちませぬ」
「賭け、か」
「賭けにございます。外れる余地はいくらでもございました。わしが八日目に総攻めをかけておったら。わしが鍾塁を押さえに残さなんだら。あの者は、それも承知であったはずにございます。それでも、わしを選んだのでございます」
蝋燭の影が揺れた。
「宰相どの。あの者は、持久戦を封じたうえで、なお、わしの首を狙うておりました」
「首、とな」
「総大将を囮にして。鍾塁を動かし、騎兵の刃をわしの旗に届かせようと。陸稜がおらなんだら、わしは、いまこの席におりませぬ」
彭延の指が、卓の上で少し開いた。
「総大将を、囮にか」
「は。己の側の駒を惜しまぬ男にございます。……惜しまぬ、というより、惜しみながら使う男かと」
彭延は低く言った。
「惜しみながら使う者は、使い道を見誤らぬ」
彭延は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「わしの二年前の一言も」
老人の声は低かった。
「兵糧と拠点で締める。あの言葉まで、読んでおったと申すか」
「おそらくは」
彭延は目を閉じた。
この老人は、頭脳で四十年、岱の政を動かしてきた。その頭脳が、二十五の若者の掌の上で、二年のあいだ踊らされていたのかもしれない。
その思いは、たしかに彭延の胸をかすかに焼いた。
しかし老人は、すぐにその思いを抑えた。
岱は、澗だけを見ていればよい国ではない。東に恒がある。西に崑がある。北の備えも、中の守りもある。そのすべての釣り合いを保たねばならないのが、宰相という職である。
南岳で、持久戦が一度敗れた。
いま、同じ手を澗に繰り返せば、東と西に、岱の顔が揺らいで見えるであろう。
「持久戦の策は、保留とする」
彭延は言った。
「しばらく、澗には手を出さぬ」
「は」
「ただし」
老人は目を開いた。
「忘れるな。あの若者は、いずれまた、わしらの前に立つ」
郭巍は頭を下げた。
「賈牧、か」
彭延は、ひとりごとのように、その名を口にした。
灯が、ひとつ揺れた。
*
その名の主は、五日まえの夜、勝った城の城壁の上に、ひとりで立っていた。
城の内からは、兵たちの歌が聞こえていた。かれは、それを背に、北の闇を見ていた。




