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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第3章 壱城攻防戦

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第29話 敗者の勘定

退却の軍が国境の城に入ったのは、二日ののち、夕暮れのことである。


岱《たい》の軍は、実数にして四万、号して六万と言われた。その軍が城門をくぐるとき、二万五千ほどに減っていた。


焼け残った兵糧は、わずかであった。二日の道のあいだ、兵は半ば飢えたまま歩いた。誰もことばを発しなかった。城の門をくぐると、ようやく、あちこちで人が崩れるように座り込んだ。


郭巍《かくぎ》は馬を降りた。


背筋はまっすぐであった。顔には疲労の色があったが、取り乱したところはどこにもない。この男は、敗れるときも、算盤の珠を弾くように、ひとつずつ足もとを確かめながら敗れた。


「負傷者を手当てせよ。糧はあるだけ分けよ。まず、兵を休ませるのだ」


それだけ命じて、郭巍は城の奥へ入っていった。


   *


城の奥の一室で、郭巍はひとり、灯の前に座っていた。


報告を書かねばならない。筆を取ったが、進まなかった。


――あの老人は、なぜ、あそこまで来られたのか。


それを考えていた。


百騎で四万の本陣へ。常識では、届くはずのない道である。届いたのは、鍾塁《しょうるい》が持ち場を離れたからだ。鍾塁が離れたのは、あの旗が総大将の旗であったからである。


郭巍は筆を置いた。


鍾塁は、「将軍が危ない」と叫んだという。あの男は、旗が自分の首を狙っていると信じたのだ。


そうではない。


郭巍はさらに考えた。


あの旗は、自分の首を狙っていたのではない。鍾塁を動かすための旗であった。老人は囮だった。その背後に、本物の刃があった。澗《かん》の騎兵、千騎である。


陸稜《りくりょう》が現れなかったら、その刃は自分の旗の下に届いていた。


――狙いは、わしの首であった。


背に、冷たいものが走った。


勝つためでもなく、岱を乱すためだけでもない。自分の首を取るために、澗は総大将を囮にした。


総大将。軍の頭である。


その頭を、囮に使う。


自分に、それができただろうか。


郭巍は、答えを出せなかった。


惜しい、と思っていた。あの若者の才を、惜しいと。


惜しいどころではない。


かれは、灯を見つめた。


   *


その夜、郭巍は陸稜を呼んだ。


城の一室である。灯がひとつ、卓の上にともっていた。


陸稜は頬に布を巻いていた。范鴻《はんこう》の戟が裂いた傷である。血は止まったが、顔の半分が熱を持ち、うずいていた。


「座れ」


「は」


陸稜は郭巍の前に腰を下ろした。


郭巍はしばらく何も言わなかった。灯のほうを見たまま、指で卓の端を、とん、とん、と叩いている。


「礼を言う」


ようやく、口を開いた。


陸稜は顔を上げた。


「おぬしが兵を集め、方陣を組まなんだら、わしは本陣ごと討たれていた。総崩れになっていた」


「私は、ただ……」


陸稜はくちびるを噛んだ。


「将軍の令を偽りました。出ていない令を、出たと申して」


「令は、わしが出していた」


郭巍は静かに言った。


「ただ、届かなんだだけだ。おぬしは、それを届けた。偽りではない」


陸稜は、何も答えられなかった。


「それだけではない」


郭巍は続けた。


「本陣だけではない。わしの首も、あの老人の旗の下にあったであろう」


「将軍の、首が」


「あの旗は囮じゃ。本物は、その後ろの騎兵だった。おぬしが、あの騎兵を止めた」


陸稜は范鴻の戟を思い出した。


「それに」


郭巍は指を止めた。


「砦を落とした翌日、おぬしは言うたな。あの南の道が、よすぎると。わしは、それを聞いて退けた。退けた、そのわしが、いま、おぬしに救われた。おかしなものだ」


「いえ」


「石は、まだ重いか」


陸稜は少し考えた。


「……いえ。いまは、別の重さがございます」


「史連《しれん》か」


陸稜はうなずいた。


郭巍は、灯の影のなかで、かすかに目を細めた。


「それは、持っていろ。軽くしてはならぬ」


陸稜は頭を下げた。


「澗の騎兵と刃を交えたそうだな」


「范鴻と申す男です。勝負は、預けました」


「そうか」


郭巍は卓の上の灯に、目を戻した。


「預けたものは、いずれ取り立てることになる」


   *


三日ののち、宰相の彭延《ほうえん》が都から着いた。


彭延は輿《こし》に揺られて来た。剣を佩《は》かず、馬にも乗らず、痩せた体を、あの輿のなかに小さく畳んでいる。


広間で、査問が開かれた。


ちょうど二年前の、あの席と同じであった。居並ぶ将たちの背は、戦場にいるときよりも硬かった。


ただ、このたびの席には、公孫燁《こうそんよう》も岳崇《がくすう》もいない。代わりに、郭巍が上座の下に立っていた。


「報告を」


彭延が静かに言った。


郭巍は、よどみなく述べた。


砦を落とし、古城を囲み、兵糧で干しにかかったこと。八日目に空城の計を見て判断に迷い、包囲を続けたこと。十日目の暁に烽火が上がり、砦の兵糧が焼け、伝令が届かず、状況がわからなくなったこと。退却を命じたこと。その退却のさなかに、押さえを命じた鍾塁が持ち場を離れたこと。


述べるあいだ、郭巍はひとつの名もごまかさなかった。


鍾塁の名も、まっすぐに口にした。


広間の隅で、当の鍾塁が顔を伏せていた。大きな体を、小さく縮めている。


「鍾塁が持ち場を離れたのは、わしを守ろうとしたがゆえにございます」


郭巍は言った。


「しかし、それを許した責めは、将たるわしにございます。わしが鍾塁の気性を見抜いておらなんだ」


鍾塁が顔を上げた。目が赤くなっていた。


「責めは、将が負うものにございます」


郭巍は、そう結んだ。


広間の隅で、ひとりの若い隊長がその声を聞いていた。陸稜である。頬の布は、まだ取れていなかった。


かれは、二年前の岳崇の声を思い出していた。


   *


彭延は、すべての報告書に目を通していた。


鍾塁の離脱が退却を乱したこと。それでも陸稜が兵を集め、方陣を組み、総崩れを防いだこと。郭巍が責めを自分に引き受けたこと。


この老人は、すべてを知った上で裁きを下した。


「郭巍。南岳の位は動かさぬ」


広間がざわめいた。


「鍾塁。一年の謹慎を命じる。その間、兵権を預かりおく」


鍾塁は床に額をつけた。


「陸稜」


陸稜が前へ出た。


「このたびの働き、聞き及んでおる。千人将に取り立てる。以後、郭巍の麾下として励め」


「は」


陸稜は深く頭を下げた。


岳崇は兵権を解かれ、北辺へ転じた。自分は取り立てられる。その落差が、陸稜の胸に重くのしかかった。


彭延は、それを知っていたのであろうか。知っていて、そうしたのか。老人の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。


   *


査問のあと、彭延は郭巍をひとり、奥の部屋に呼んだ。


灯のもとで、ふたりの老いた男が向かい合った。


「話せ」


彭延が言った。


「報告書には書けぬことが、あるであろう」


郭巍は、少し黙った。


「宰相どの。この戦、賈牧《かぼく》は勝つために組み立てたのではございませぬ」


「ほう」


「わしらを持久戦の形へ誘い込んだうえで、持久戦をさせぬために、組み立てたのでございます」


彭延は卓の上で指を組んだ。


「砦と古城。あれは、わしらに持久戦をさせるための餌にございました。兵糧を砦に積ませ、古城を干しにかかる。その流れに、わしらを乗せる。そこへ十日目に、すべてをひっくり返す。……そのために、十日ぶんの兵糧しか持たぬ城を、あの者は、わざとそのまま受けたのでございます」


「十日か」


「十日。長くも短くもない、ぎりぎりの数にございます。わしが待つと決めるに足る長さ。そして、あの者が持ちこたえるに足る長さ」


郭巍は、息をひとつ詰めた。


「あの者は、わしが一流であることに賭けたのでございます。わしが勘定で動く男であることに。罠だと疑っても、勘定を曲げぬ男であることに。……そうでなければ、この策は成り立ちませぬ」


「賭け、か」


「賭けにございます。外れる余地はいくらでもございました。わしが八日目に総攻めをかけておったら。わしが鍾塁を押さえに残さなんだら。あの者は、それも承知であったはずにございます。それでも、わしを選んだのでございます」


蝋燭の影が揺れた。


「宰相どの。あの者は、持久戦を封じたうえで、なお、わしの首を狙うておりました」


「首、とな」


「総大将を囮にして。鍾塁を動かし、騎兵の刃をわしの旗に届かせようと。陸稜がおらなんだら、わしは、いまこの席におりませぬ」


彭延の指が、卓の上で少し開いた。


「総大将を、囮にか」


「は。己の側の駒を惜しまぬ男にございます。……惜しまぬ、というより、惜しみながら使う男かと」


彭延は低く言った。


「惜しみながら使う者は、使い道を見誤らぬ」


彭延は、しばらく何も言わなかった。


やがて、ゆっくりと口を開いた。


「わしの二年前の一言も」


老人の声は低かった。


「兵糧と拠点で締める。あの言葉まで、読んでおったと申すか」


「おそらくは」


彭延は目を閉じた。


この老人は、頭脳で四十年、岱の政を動かしてきた。その頭脳が、二十五の若者の掌の上で、二年のあいだ踊らされていたのかもしれない。


その思いは、たしかに彭延の胸をかすかに焼いた。


しかし老人は、すぐにその思いを抑えた。


岱は、澗だけを見ていればよい国ではない。東に恒《こう》がある。西に崑《こん》がある。北の備えも、中の守りもある。そのすべての釣り合いを保たねばならないのが、宰相という職である。


南岳で、持久戦が一度敗れた。


いま、同じ手を澗に繰り返せば、東と西に、岱の顔が揺らいで見えるであろう。


「持久戦の策は、保留とする」


彭延は言った。


「しばらく、澗には手を出さぬ」


「は」


「ただし」


老人は目を開いた。


「忘れるな。あの若者は、いずれまた、わしらの前に立つ」


郭巍は頭を下げた。


「賈牧、か」


彭延は、ひとりごとのように、その名を口にした。


灯が、ひとつ揺れた。


   *


その名の主は、五日まえの夜、勝った城の城壁の上に、ひとりで立っていた。


城の内からは、兵たちの歌が聞こえていた。かれは、それを背に、北の闇を見ていた。 

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