第28話 旗を返す
手綱が止まっていたのは、ひと呼吸のあいだであった。
そのひと呼吸のあいだにも、まわりの戦は止まらなかった。
崩れた岱の列に、澗の歩兵がなだれこむ。騎兵が、その隙間を縦横に切りひらいてゆく。旗が倒れ、人が倒れ、乗り手を失った馬が、鞍を揺らしながら、あてもなく駆けまわっていた。土煙と砦の煙がひとつになり、朝の光を鈍く濁らせている。
その濁った光のなかで、范鴻の目だけが、一点を見ていた。
はるか前方の高みの下。旗が倒れて消えた、その場所である。
*
史連が、あの旗の下にいることは、知っていた。
百騎が本陣へ突っこむ。その旗が郭巍のすぐ前まで届いたとき、押さえの鍾塁が動く。動けば、本陣の脇が空く。そこへ千騎を叩きこみ、郭巍の旗に届く。
それが、范鴻の役であった。
史連は、そのための囮である。生きて帰る者が少ないであろうことも、わかっていた。
わかっていたが、その旗が実際に倒れるのを見るのは、別のことであった。
あの老人は、范鴻を一度も「亡命者の子」とは呼ばなかった。
調練場の、あの冷たい視線のなかで、史連だけは、范鴻の馬をまっすぐに見ていた。汪野の戦のあと、「あの若いのは、ようやった」と言ったことも、范鴻は人づてに聞いていた。
あの人が、あの旗の下にいる。
范鴻は、手綱を握り直した。
千騎は、崩れた岱兵の波に呑まれ、足を取られていた。逃げる者、立ち止まる者、槍を捨てて這う者。斬っても斬っても、馬の前に人がいる。本陣までいま届くのは、五百騎ほどであろう。
かたわらに、古参の騎兵将校が馬を寄せてきた。
韓倹である。かつて調練場で、范鴻の馬術を「曲芸」とそしった男であった。
「范鴻」
韓倹が、声をかけた。
「行け」
范鴻は、振り返った。
「ここは、おれたちが受ける」
韓倹の顔は、土と血で汚れていた。皺が深い。この男は、二年のあいだ、范鴻の後ろを黙ってついてきた。荒野の古い城で、梯子の脚を押さえた手も、この男の手であった。
范鴻は、うなずいた。
それだけで十分であった。
かれは馬首を巡らせた。残る騎兵を韓倹に預け、二百騎ばかりを連れて、高みへ向かって駆け出した。
背後で、韓倹の怒鳴る声が聞こえた。千の騎が、范鴻の背を守るように、崩れた岱兵の波へ、横ざまに割って入っていった。
*
陸稜は、史連の遺骸のそばに立っていた。
老人は、草の上に仰向けに横たわっている。白髪が風に乱れていた。目は、まだ空を見上げたままであった。
倒れた旗が、そのかたわらに横たわっていた。布が泥に汚れ、竿の先が草のなかに埋もれている。
陸稜は、かがんだ。
老人の目を、手でそっと閉じた。まぶたは、まだ温かかった。
それから、旗を拾い上げた。
泥のついた布を、軽く払った。竿を老人の脇に沿わせ、布を広げて、その胸の上に載せた。
旗の下で、老人の顔が、眠っているように見えた。
背後で、親衛の兵が叫んだ。
「陸稜どの。澗の騎兵が」
陸稜は、振り返った。
土煙の向こうから、一団の騎兵が、こちらへ一直線に駆けてくる。
二百騎ほどであろうか。崩れた岱兵のあいだを、縫うようにして抜けてくる。いや、縫うのではない。前を遮る者がいれば、その手前で、ふっと横へずれ、また元の線に戻る。土煙の帯が、一本の糸のように、まっすぐこちらへ伸びてきた。
先頭の男が、見えた。
若い。自分と、あまり歳の違わぬ男である。手に、古びた戟を持っていた。
その馬の駆け方が、普通の騎兵とは違っていた。手綱を引いている様子がない。馬が、自分で道を選んでいるように見えた。
汪野で、あの背を見た。
陸稜は、思い出した。二年前、崩れてゆく岱軍のなかで、混乱の核をまっすぐに突き崩していった、あの騎兵の背である。あのとき自分は、隊の形を保って退くことしかできなかった。
陸稜は、馬に飛び乗った。
「親衛と方陣は、将軍をお守りしろ」
槍を構えた。
「あの騎兵は、私が受ける」
*
二騎の距離が、縮まっていった。
百歩。
まわりの戦の音が、遠のいた。范鴻の耳には、自分の馬の蹄の音だけが聞こえていた。陸稜の耳にも、そうであったかもしれない。
五十歩。
范鴻の後ろの二百騎が、左右に開いた。陸稜の後ろの手勢も、左右に開いた。誰が命じたわけでもない。二人のあいだに、まっすぐな一本の道が空いた。
二十歩。
陸稜の槍の穂先が、朝の光を受けた。范鴻の戟の刃が、それを照り返した。
二つの馬が、真正面からぶつかった。
范鴻の戟が、うなった。
戟の横に張り出した小枝が、陸稜の槍の柄に食いつく。そのまま、ひねり上げようとした。汪野で、雷驍の大刀を軌道からそらし、その胴を開かせた、あの技である。
ところが、陸稜は、槍をひねった。
小枝に噛まれた柄を、逆へ回した。
柄が、戟の小枝から、するりとほどけた。
ほどけた勢いのまま、穂先が跳ね上がった。すれ違いざま、范鴻の肩をかすめる。肩当ての紐が切れ、鉄の板が、くるくると宙を舞って、草の上に落ちた。
范鴻は、目を見ひらいた。
この技は、いままで一度も破られたことがなかった。
馬がすれ違い、離れた。
蹄が土を掻く。二人は、それぞれ二十歩ほど駆け抜けてから、馬首を巡らせた。
向かい合った。
土煙が、二人のあいだを、ゆっくりと横に流れていった。
「……やるな」
范鴻が、初めて声に出した。
「そちらも」
陸稜は、短く答えた。
*
二度目は、范鴻から仕掛けた。
馬が駆け出した。真正面から、まっすぐに。
陸稜の槍が、突き出されるのが見えた。
范鴻は、手綱をわずかにゆるめた。
それだけであった。手綱を引いたのではない。ゆるめただけである。
馬が、駆けたまま、ふいに向きを変えた。
前脚が地を打ち、後ろ脚が回りこみ、馬体がくるりと半身をひねる。走る方角が、その一瞬で入れ替わった。汪野の野で、追ってきた敵将の目の前から、范鴻が忽然と消えてみせた、あの動きである。
陸稜は、それを見ていた。
汪野で、その動きを見た。見たからこそ、読んでいた。
この男の馬は、向きを変えるとき、一瞬だけ、足の拍子がずれる。前脚が地を打ってから後ろ脚が回りこむまでの、まばたきひとつほどの間。
陸稜は、その一瞬に槍を突いた。
穂先が、范鴻の脇腹をかすめた。鎧の札が三枚、まとめて裂けた。血が、少しにじんだ。
范鴻の戟が、同時に、横から走った。
刃が、陸稜の頬を、斜めに裂いた。
熱いものが、頬を流れた。顎の先から、ぽたり、と鞍の上に落ちた。
二人は、また離れた。
馬の息が荒かった。鼻から白い湯気が噴き出している。人の息も荒かった。
それでも、互いの目だけは、離れなかった。
「名は」
范鴻が訊いた。
陸稜は、頬の血を、手の甲でぬぐった。ぬぐった跡が、赤く一本、頬に残った。
「陸稜」
「范鴻」
それが、すべてであった。
*
陸稜の肩越しに、方陣が見えた。
いつのまにか、本陣のまわりに盾の壁ができていた。三千はいるであろう。逃げ散っていたはずの兵が、盾を連ね、槍を外へ向け、ひとつの塊になって立っている。泥にまみれた旗が一本、その真ん中に立っていた。
その壁の向こうに、郭巍の旗があった。
三十歩、あるいは、それ以下。わずかな距離であった。
しかし、その三十歩が、いまは千里にも見えた。
――届かぬ。
范鴻は、悟った。
この若者ひとりがそこに立ちはだかったがゆえに、賈牧の絵は、一筆、欠けたのである。
*
三度目に、二つの馬がぶつかろうとしたとき。
戦場に、ふたつの声が響いた。
ひとつは、岱の本陣から。
「陸稜。退け」
郭巍の声であった。大きな声ではなかった。それなのに、盾の壁を越えて、はっきりと届いた。
もうひとつは、声ではなかった。
澗の陣のはるか後方、古城の門の楼の上で、赤い旗が、二度、大きく振られた。
退け、の合図である。
范鴻は、手綱を引いた。
陸稜も、槍を引いた。
二人は、馬を止めたまま、にらみ合った。
どちらも、少しの傷を負っていた。どちらも、まだ倒れていなかった。
勝負は、ついていなかった。
「……預けよう」
陸稜が言った。
范鴻は、答えなかった。
代わりに、馬首を、ゆっくりと史連の遺骸のほうへ向けた。
陸稜は、そのさまを見ていた。槍の穂先は、下げなかった。だが、突きもしなかった。
范鴻は、馬を降りた。
戦場の真ん中で、敵の槍の前で、馬を降りたのである。陸稜の手勢のなかで、誰かが息をのむ音がした。
范鴻は、老人のそばに膝をついた。
胸の上の旗を、見た。
それから、顔を上げて、陸稜を見た。
陸稜は、何も言わなかった。
范鴻は、旗を、そっと取り上げた。泥のついた布を、ていねいにたたんだ。たたんだ旗を、自分の鞍に結んだ。
それから、老人の体を、両腕で抱え上げた。
小さな体であった。
思いのほか、軽かった。
あの城壁の上で、四万の軍を前に旗を広げた人の体とは思えなかった。
范鴻は、老人を馬の背に載せた。白髪が、栗毛ではない、范鴻の馬のたてがみに、さらりと触れた。
陸稜は、止めなかった。
止める気に、なれなかった。
范鴻は、手綱を取り、馬を引いて歩き出した。乗らなかった。老人を載せた馬を、自分の足で引いて、ゆっくりと、南へ向かった。
その背が土煙のなかに遠ざかるまで、陸稜は、槍を下げずに見送っていた。
*
岱の軍は、乱れながらも、北へ向かって退いていった。
総崩れには、ならなかった。
陸稜が集めた三千の兵が、本陣のまわりに方陣を組んでいた。追いすがる澗の騎兵の突撃を、まず方陣が受け止める。盾が鳴り、槍がきしむ。受け止めているあいだに、郭巍の本隊は隊列を整え直した。
方陣は、そのあと、ゆっくりと後衛になって退いていった。
進むときは、一歩ずつ。退くときは、盾を後ろへ向けたまま。一歩、退く。止まる。また一歩、退く。盾の壁は、退きながらも、一度も背を見せなかった。
陸稜は、頬の血をぬぐいもせず、その最後尾に馬を立てていた。
郭巍が、かれの横に馬を寄せた。
「陸稜」
「は」
「おぬしの石は、重かったようだな」
陸稜は、ことばがなかった。
「礼は、のちに言う。いまは、退くのが先だ」
郭巍の本隊は、全滅を免れた。
ただ、その背後には、おびただしい兵の屍が、野を埋めていた。
*
方陣が組まれたのを見たとき、賈牧は、もう届かぬことを悟っていた。
古城の門の楼から、賈牧は、赤い旗を二度振らせた。深追いは、しない。そう決めていた。
退く岱軍の背に、澗の兵は、それ以上の槍を入れなかった。
楼をおりて、門の前に立った。
野の向こうから、一頭の馬が、ゆっくりと近づいてきた。
乗り手は、いなかった。
男がひとり、手綱を引いて、歩いていた。馬の背に、小さな体が載っている。鞍に、たたんだ旗が結びつけてあった。
城壁の上の兵たちが、それに気づいた。
誰かが、歓声を上げかけた。
勝ったのである。四万を退けたのである。
だが、その声は、すぐに途切れた。
誰もが、馬の背の、小さな体を見ていた。白髪が、風に揺れていた。
城壁の上が、しんと静まった。
范鴻は、門の前で足を止めた。
賈牧の前である。
范鴻は、鞍に結んだ旗の紐を解いた。たたんだ旗を、両手で、賈牧の前に差し出した。
何も言わなかった。
賈牧は、旗を受け取った。
布は、泥と、乾きかけた血で、重かった。
――旗は、最後まで、立てておきます。
荒野の櫓の上で、この老人に言ったことばであった。
賈牧は、旗を広げた。
竿を、門のそばの土に、突き立てた。
一度では、入らなかった。二度目に、両手で体重をかけて、深く押しこんだ。布を巻いた指の傷が、また開いた。かまわなかった。
手を離した。
旗は、立っていた。
風が吹いた。泥に汚れた布が、ゆっくりとほどけ、ひるがえった。
倒れたはずの旗は、古城の門のそばで、ふたたび立っていた。
その旗の向こうの空を、雁が渡っていった。
群れで、南へ向かう雁であった。そのなかに一羽だけ、群れから少し遅れて飛ぶ雁がいた。
范鴻は、それを目で追った。
遅れた一羽は、やがて群れに追いつき、そのなかにまぎれて、見えなくなった。
*
そのころ、北へ退く岱の列のなかで、郭巍は、一度だけ振り返った。
古城は、もう遠かった。煙の向こうに、小さく沈んでいた。
郭巍は、前を向いた。
馬の背に揺られながら、かれは、勘定をはじめていた。
失ったものの勘定である。




