第27話 倒れた旗
古城の大門の内側に、兵が満ちていた。
秋の暁は冷える。五千を越える兵の吐く息が白くこもり、広場の上に薄い霧のように溜まっていた。その霧の上を、櫓の烽火の煙が、ゆっくりと北へ流れてゆく。
閉じた門の扉のすきまから、朝の光が一本、細く差しこんでいた。光の筋のなかで、土ぼこりが金色に舞っている。その筋が、並んだ槍の穂先を一本ずつなぞり、ちかり、ちかりと光らせていった。
誰も、口をきかなかった。
馬が鼻を鳴らす。それを、馬の口に手を当てて押し殺す音が、そこかしこで聞こえた。鎧の札がこすれる、かすかな音。誰かが唾をのむ音。
六千の兵が、息をひそめていた。
*
賈牧は、門の楼からおりてきた。
琴は、楼の上に置いてきた。右手の指の腹に、布を巻いている。弦で切れた傷であった。指が、まだ弦の感触を覚えている。
門のそばに、史連が馬を引いて立っていた。
栗毛の馬である。背には、総大将の旗を差している。旗はまだ巻かれたまま、竿の先で、朝の風にわずかに揺れていた。
その後ろに、百騎ばかりがそろっていた。
どの顔にも、深い皺が刻まれている。白いものの混じった髭。古い刀傷。手綱を握る手の甲に浮いた、太い筋。古参の兵ばかりであった。誰も、賈牧を見なかった。見る必要がない、という顔をしていた。
「史連どの」
「何も言うな」
老人は、顔を向けずに言った。
賈牧は口をつぐんだ。
昨夜の問いのことは、どちらも口にしなかった。口にせずともよいということを、ふたりとも知っていた。
「おぬしの絵、見せてもろうた」
史連は、馬のたてがみを、軽くなでた。皺の深い指が、栗毛の毛並みに沿って、ゆっくりと動いた。
「ようできておる」
賈牧は、深く頭を下げた。
「旗は最後まで立てる。約束じゃ」
史連は鐙に足をかけた。
膝が、少しきしんだ。老人は鞍の前輪をつかみ、ひと息ついてから、体を引き上げた。鞍に腰が落ちる。馬が、主の重みを受けて、小さく足を踏みかえた。
それでも、鞍の上の背筋だけは、まっすぐであった。
史連は、旗の紐を解いた。
竿の先で、布がほどけた。風をはらみ、ばさり、と広がる。澗の総大将の旗であった。
老人は、初めて賈牧を振り返った。
「では、行くか」
笑っていた。
「おぬしの絵を、完成させよ」
それだけ言って、前を向いた。
門番の兵が、閂に手をかけた。太い木が、ごとり、と外れる。扉が、きしみながら、外へ押し開かれてゆく。
細かった光の筋が、太くなった。
扉のすきまから、朝の光が、どっとなだれこんできた。広場の白い息の霧が、光に照らされて、一瞬、燃えるように明るくなった。
その光のなかへ、栗毛の馬が、ゆっくりと歩み出た。
百騎が、そのあとに続いた。
賈牧は、門の内側で、その背を見送った。
百の背が、光のなかで黒い影になってゆく。そのいちばん先の小さな背に、旗がひるがえっていた。
賈牧は、楼の階へ足を向けた。
一段ずつ、のぼった。見届けるのは、自分の役目であった。
*
岱の陣は、退き始めていた。
郭巍の令は、すでに各陣へ行き渡っていた。砦へ向かう道だけは、なお一騎も通らない。それでも、本陣のまわりの軍は、よく訓練されていた。
梯子が、野に捨てられてゆく。太鼓が、据えたまま置き去りにされる。荷車が、轅を地に落としたまま残される。兵は隊列を組み直し、北へ向かって、静かに動き始めた。
何万という人の背が、いっせいに北を向く。土煙が、低く、長く、地を這った。
鍾塁の隊だけが、古城の北門の前にとどまっていた。
押さえである。退く軍の背を守るのが、鍾塁の役目であった。
鍾塁は、馬上で腕を組んでいた。顔は赤く、目が血走っている。退くことが、この男には腹立たしかった。腹立たしいが、将軍の命である。かれは、歯を食いしばって、古城の門をにらんでいた。
郭巍は、本陣の高みから、その全体を見下ろしていた。
煙が、四方に立っている。砦の方角の空は、まだ赤い。森のあちこちからも、細い煙が何本も空へ伸びていた。
この退却が、いかに難しいものか。郭巍には、わかっていた。わかっていて、これが最善だと思い定めていた。
そのときであった。
古城の大門から、土煙が上がった。
*
鍾塁の隊の、最前列にいた若い兵が、それを見た。
門の暗がりから、ひとつ、点が出てきた。
点は、すぐに馬の形になった。馬の上に人がいる。人の背に、旗がある。そのうしろから、また馬。また馬。
――百騎ほどか。
若い兵は、槍を握りなおした。
来る。こちらへ来る。
先頭の男の顔が、見えてきた。
白髪であった。兜の下から、白いものが風にあおられて、なびいている。皺の深い顔が、まっすぐ前を向いていた。
そして、その背の旗。
若い兵は、その旗の模様を知らなかった。だが、隣の古参が、うめくように言った。
「……総大将旗だ」
百騎は、速度を落とさなかった。
鍾塁の隊の前を、斜めにかすめてゆく。槍の届く距離ではない。だが、蹄の音が、腹の底にまで響いた。土塊が、こちらの顔にまで飛んできた。
若い兵は、槍を構えることも忘れて、それを見送った。
あまりに堂々と、あまりにまっすぐに、百騎が駆け抜けていったからである。
百騎の行く手に、岱の本陣があった。
高みの上に、郭巍の旗が立っていた。
*
「……本陣を狙っている」
幕僚のひとりが叫んだ。
郭巍は、馬上で動かなかった。
はるか向こうから、土煙を曳いて、小さな塊が近づいてくる。その先頭の白い頭が、遠くからでも、はっきりと見えた。
「史連か」
郭巍は、つぶやいた。
小柄な老将だと聞いていた。膝を悪くした、穏やかな将であると。
その老人がいま、百騎を率いて、四万の軍の真ん中へ、まっしぐらに突っこんでくる。
勝つためではあるまい、と郭巍は思った。
退く軍を乱すためである。乱れた軍を、あとから来る者に討たせるためである。
「親衛を前へ」
静かな声であった。
本陣の前に、親衛の槍が、ざっと並んだ。
*
鍾塁は、押さえの位置で、そのさまを見ていた。
史連の百騎が、自分の鼻先を駆け抜けてゆく。そのまま、将軍の本陣へ。
迷うべきではなかった。
郭巍は、はっきりと命じた。ここを動くな、と。
だが、鍾塁は、郭巍を慕っていた。
算盤を置いた商人のような顔をした、この将軍を、攻城の名将としてではなく、人として慕っていた。声を荒らげず、人の話を最後まで聞く。鍾塁のような、攻めることしか知らぬ男の話でさえ、最後まで聞く。
その将軍の旗に、白髪の老人が、一直線に向かってゆく。
鍾塁の腕が、ほどけた。
「将軍が、危ない」
声が、勝手に出た。
「追え。あの老いぼれを、斬れ」
副将が、馬を寄せてきた。
「しかし、将軍のご下知は、ここに」
「うるさい」
鍾塁は、馬の腹を蹴った。
押さえの隊が、どっと動いた。古城の北門の前から、人の塊がはがれ、史連の百騎のあとを追って、土煙を上げて駆け出した。
本陣の高みで、郭巍は、それを見た。
息を、のんだ。
「鍾塁」
声が出た。
「戻れ。持ち場を離れるな」
届かなかった。
鍾塁の耳には、風の音と蹄の音しか入っていなかった。
この十日のあいだ、一度も乱れなかった郭巍の顔に、初めて、深い影が差した。
*
古城の門の楼で、賈牧は、それを見ていた。
北門の前にあった鍾塁の旗が、動いた。
持ち場を離れ、史連の百騎を追ってゆく。北門の前の野が、ぽっかりと空いた。
賭けは、当たった。
郭巍の旗は、まだ本陣の高みにあった。四万が北へ退いてゆくなかで、その旗だけが動いていない。
――やはり、先には退かなんだ。
その旗と古城のあいだから、押さえが消えていた。
賈牧は、右手を上げた。布を巻いた指が、朝の光のなかにあった。
楼の上の旗手が、大旗を振り下ろした。
古城の大門から、地鳴りが起こった。
最初は、足の裏に響いた。それから、腹に響いた。やがて、耳を圧した。
澗の全軍が、いっせいに押し出したのである。
槍の波が、門からあふれた。
開いた門の口から、人と槍と旗が、堰を切った水のように吐き出されてゆく。歩兵の列が旗をなびかせ、前へ、前へと伸びた。列は野に出たところで左右に開き、扇のように広がっていった。
その左の端から、范鴻の騎兵が飛び出した。
千騎である。砂ぼこりを巻き上げ、斜めに野を切ってゆく。先頭の男の手に、古びた戟が光っていた。
狙いは、ひとつであった。
郭巍の旗。
退却の最中の岱軍が、背後から、横から襲われた。北を向いていた何万という背に、澗の槍が突き立った。
隊列が、ねじれた。
ねじれたところから、ほどけ始めた。
北門の前を離れた鍾塁の隊は、横合いから澗の歩兵の列に食いつかれた。槍の壁に行く手をふさがれ、鍾塁は馬上で吼えた。史連の百騎の背は、もう、土煙の向こうに遠かった。
*
そのころ、陸稜は荒野を駆けていた。
夜明け前、砦と本陣をつなぐ道のそばで、かれは異変に気づいていた。
砦の方角に、火が上がった。そして、古城の烽火。続けて、伝令の騎が、一頭も来ない。砦からも、本陣からも。
――道が、押さえられている。
そう悟った。
伝令の道を束ねるのが、かれの役である。その道が断たれた。何も知らずに騎を走らせれば、射られるだけであろう。
陸稜は、道を外れた。
手勢の二百騎を、荒野の草のなかへ導いた。枯れた草が、馬の胸を打つ。露が、鎧を濡らす。ひたすら本陣へ。草を踏みしだいて、駆けた。
胸のなかの石が、ひとつ、ごとりと落ちた。
あの南のよすぎる道。乾いた橋の板。油紙の赤。
あの石の正体が、わかった。
賈牧は、はじめから、ここを見ていたのである。
*
行く手に、岱の兵が、ばらばらと現れ始めた。
退くはずの軍が、澗に背を突かれ、列を失っていた。
旗を捨てた者がいる。槍を捨てた者がいる。兜を落としたまま、顔を引きつらせて走る者がいる。隊長を見失い、ただ北へ、北へと走る者たち。
号令は、どこからも聞こえなかった。恐怖だけが、波になって、野の上を広がってゆく。
このまま走らせれば、総崩れになる。
陸稜は、馬の足をゆるめた。
「止まれ」
声を張った。
「退け、ではない。本陣に集まれ」
走る兵の何人かが、振り返った。
「郭巍将軍の令だ。本陣のまわりに方陣を組め。将軍の旗を見失うな」
そのような令は、出ていなかった。
だが、軍にとって、令がないことほど怖いものはない。陸稜は、自分がその令の代わりになると決めた。
道ばたに、岱の旗が一本、泥にまみれて捨てられていた。
陸稜は、馬上から身をかがめ、それをつかんだ。泥が、ぼたりと落ちた。高く、掲げた。
「旗の下に集まれ。隊を組み直せ」
ひとり、ふたりと、兵が足を止めた。
古参の百人長が、血だらけの顔で前へ出てきた。
「陸稜どの。われらは、どうすれば」
「あの高みの本陣を目指す。道すがら、散った兵を集めよ。隊の旗がなくとも構わぬ。ともかく、人の塊をつくれ」
「承知」
百人長が、声をかぎりに叫んだ。
その声に、また兵が応じた。
二百の手勢は、駆けながら四百になった。四百は千になった。千は、やがて三千を越える人の流れになった。
北へ逃げていた流れが、陸稜の掲げた泥の旗のもとで、ゆっくりと、その向きを変えはじめた。
やがて、前方の高みに、郭巍の旗が見えてきた。
その旗の下へ、一団の騎兵が突っこもうとしている。
先頭に、白髪の老人。
背に、澗の総大将旗。
陸稜は、集めた兵を、古参の百人長に預けた。
「本陣のまわりに方陣を組め。将軍をお守りしろ」
そして、手勢の二百騎とともに、馬の腹を蹴った。
*
史連の百騎が、本陣の親衛にぶつかった。
槍と槍が絡んだ。馬と馬が首をぶつけあい、悲鳴のようにいなないた。
古参の兵たちは、一歩も退かなかった。
ひとりが、槍を三本、胸に受けて、なお馬上で剣を振った。ひとりが、落馬しながら、親衛の兵の足にしがみついた。倒れた者の後ろから、別の者が前へ出た。皺だらけの顔が、次々に、親衛の槍の壁にぶつかっていった。
その真ん中を、史連が駆けた。
旗が、揺れた。
郭巍の旗まで、あと三十歩。
親衛の兵が、立ちふさがった。
老人は剣を抜き、斬りつけた。ひとり、斬った。返す刀で、もうひとり。
三人目に振り上げた腕が、重かった。
息が、上がっていた。白髪が、汗で額に張りついている。剣先が、わずかに下がった。
それでも、栗毛の馬は前へ出た。
あと二十歩。
そのとき、横から一騎が突っこんできた。
若い男であった。
日に焼けた顔。堅く結んだ口もと。泥のついた鎧。手にした槍が、朝の光を受けて、ひとすじ、鋭く光った。
陸稜であった。
史連は、剣を振り上げた。
若者の槍と、ぶつかった。
かん、と高い音がした。
剣が、はじかれた。
老人の手が、しびれた。剣が、指から離れ、宙で一度回って、草の上に落ちた。
陸稜は、馬を寄せた。
槍を、突き出した。
その一瞬が、ひどく長かった。
穂先が、朝の光のなかを進んでゆく。老人の目が、それを見ていた。逃げなかった。旗を握る左手だけが、竿を、ぎゅっと握りしめた。
槍の穂先は、史連の胸を、まっすぐに貫いた。
*
音が、消えた。
少なくとも、陸稜には、そう思えた。
まわりで、まだ槍は打ち合っている。馬はいなないている。人は叫んでいる。それなのに、何も聞こえなかった。
史連の体が、鞍から、ゆっくりとずれた。
栗毛の馬が、足を止めた。
老人の体は、草の上に落ちた。重い音ではなかった。思いのほか、軽い音であった。
旗竿が、老人の手から離れた。
陸稜は、馬から降りた。
なぜ降りたのか、自分でもわからなかった。老人のそばに、ひざまずいていた。
史連は、仰向けに、草の上に横たわっていた。白髪が、風に揺れていた。胸から、血があふれていた。草の葉の上を、赤いものが、細く伝ってゆく。
「……若いの」
史連が、かすれた声で言った。
「名は」
「陸稜と、申します」
「そうか」
老人の目が、ほんの少し、ゆるんだ。
「よい槍じゃった。……よい目を、しておる」
陸稜は、ことばが出なかった。
この老人の名は、知っている。澗の総大将。二年前、汪野で、自分たちを退けた軍の将。
敵である。
それなのに、なぜ、こんなに胸が痛むのか。
――責めは、将が負うものよ。
岳崇の声が、耳の底によみがえった。
あの廊下の隅で、自分に背を向けて歩み去った人の声である。
「陸稜」
史連が、笑った。
「覚えておこう。……旗は、立てたぞ」
老人は、そこで息を止めた。
目は、空を見上げたままであった。秋の朝の、高い空であった。
白髪が、風に、さらさらと揺れた。
*
そのあいだにも、戦場は崩れ続けていた。
郭巍の目の前で、何万という軍が、ひとつの生き物のように揺らぎ、乱れ、ほどけてゆく。
北へ向かうはずの列が、横に裂ける。裂けたところへ、澗の槍が入る。入ったところから、また裂ける。旗が一本倒れると、そのまわりの旗が、次々に倒れていった。
郭巍には、すぐにわかった。もう、止められない。
三十年、間違えないことを仕事にしてきた。その積み上げが、鍾塁が持ち場を離れた、あの一瞬から、ほころび始めていた。
本陣のまわりに、陸稜の集めた兵が、方陣を組みはじめていた。盾が並び、槍が外へ向く。
それだけが、崩れてゆく野のなかで、まだ形を保っていた。
*
古城の門の楼で、賈牧は、その光景を見ていた。
遠い。本陣の高みは、指でつまめるほどに小さい。それでも、賈牧の目は、その一点だけを見ていた。
人と馬と土煙のなかに、澗の総大将旗が、立っていた。
旗が、揺れた。
ゆっくりと、傾いた。
傾いたまま、しばらく、止まっていた。誰かが、まだ竿を支えているのかもしれなかった。
それから、旗は、倒れた。
土煙のなかに、見えなくなった。
賈牧は、楼の欄干を握りしめた。
指に巻いた布の下で、弦に切られた傷が、また開いた。布に、赤いものが、じわりとにじんだ。
賈牧は、何も言わなかった。
ただ、旗が倒れた場所を、じっと見つめていた。
*
戦場の真ん中で、范鴻は、それを見た。
千騎の先頭で、戟を振るっていた。崩れた岱兵の波が、馬の足にからみつく。斬っても斬っても、前に人がいた。郭巍の旗は、まだ遠かった。
そのはるか前方で、ひとつの旗が、ゆっくりと傾いてゆくのが見えた。
澗の総大将旗である。
旗が、倒れた。
――旗が倒れたら。
楼の上で、自分の口から出たことばが、よみがえった。
――持ち帰ります。
范鴻の手綱が、ぴたりと止まった。




