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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第3章 壱城攻防戦

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第26話 伝令の道

十日目の暁、古城の櫓の上に、ひとつの火がともった。


夜と朝のあいだ、いちばん暗い時刻である。星はまだ出ていたが、東の地平はほんのりと灰色に透け始めていた。その薄闇のなかで、櫓の上の薪の山が、ぽっと赤く燃え上がった。


火はふくらみ、立ちのぼった。


太い煙の柱が、まっすぐ空へ伸びていった。


岱《たい》の本陣の高みで、郭巍《かくぎ》はそれを見ていた。


「援軍を呼ぶ烽火であろう」


かたわらの者に、そう言った。


「気にするな」


十日のあいだ、そう言い続けてきた。そのことばのとおり、何の動揺もなく、そう言った。


   *


砦の東の森の闇の奥で、決死隊の五十人は、その烽火を見た。


誰かが息をのんだ。誰かが短くうなずいた。


それだけで十分であった。


かれらは森のはずれまで、音もなく這い出した。砦の南門が、すぐ目の前にある。その外には、俵の山が黒々といくつも盛り上がっていた。筵《むしろ》と油紙が、薄明のなかで鈍く光っている。


巡回の兵が二人、門の前をゆっくり歩いていた。


ひとりが、あくびをした。


そのあくびの途中で、闇から伸びた腕が口をふさいだ。もうひとりが振り向くより早く、喉に冷たいものが当たった。


音は、なかった。


五十人は俵の山のまわりに散った。懐から油を詰めた小さな壺を取り出す。栓を抜き、筵の上へざっとぶちまけた。油紙の上へ、俵の隙間へ、積み上げた山の裾へ。


火打ち石が、ひとつ、かちりと鳴った。


次の瞬間、南門の外が赤く燃え上がった。


   *


火は速かった。


油紙が、ぱっと炎を上げた。筵が、そのあとを追った。俵の山は一度火を受けると、内側からぶすぶすと燃え広がった。


五千六百石の米が、闇のなかで巨大な松明になった。


門の前には、水桶が並べてあった。


兵がわめきながら駆けつけ、桶の水を火にぶちまける。ところが油を含んだ火は、水をかけても消えなかった。むしろ、水の上をさらに広がっていった。


砦の兵が起きた。


四千の兵が天幕から跳ね起きた。鎧もつけぬまま、桶を手に手に下げて、南門へ走る。


そこへ、東西の森から火矢が飛んだ。


別の五十人が森のあちこちで、枯れ草や枝に油をまき、火を放っていた。暁の闇のなかに、赤い炎があちらにも、こちらにも、ぽつぽつと立ち上がる。煙が、もくもくと上った。


砦の兵はわめいた。


敵はどこだ。何人いる。森のなかか。どちらからだ。


誰にも、わからなかった。


蔡斛《さいこく》が天幕から、裸足で飛び出してきた。


痩せた体に寝間着のまま、懐の算盤を握りしめている。目の前で、五千六百石が、見る間に灰になってゆく。


「あ……」


声が出なかった。


算盤の珠が、指のあいだから、ばらばらとこぼれ落ちた。


   *


杜遠《とえん》は、道ばたの林の闇のなかで砦の火を見ていた。


赤い光が空の一角を焦がしている。煙が東へ、北へ広がってゆく。


その火の下で、いま何千の兵があわてふためいているのか。杜遠は、かれらの顔を想像しなかった。


かれの目は、道の上にあった。


砦と本陣をつなぐ白い道が、薄明のなかに伸びている。


「来るぞ」


丁六《ていろく》がささやいた。


蹄の音が遠くから、かすかに聞こえた。


一頭。


砦のほうから、こちらへ駆けてくる。


杜遠は弓に矢をつがえた。布は、もう外してある。矢じりが闇のなかで、わずかに光った。


蹄の音が近づいた。


やがて薄明のなかに、馬の影が浮かんだ。駆ける馬の背に人がいる。その背に、白い小さな旗がひらひらとはためいていた。令の旗である。


距離は百五十歩。


杜遠は弓を引いた。


弦がきしった。


猟のときと変わらない、と杜遠は思おうとした。山で、獣の背を走る足に合わせて狙う。あのときと同じだ。呼吸を止め、馬の足の運びに自分の息を重ねる。


馬の足が、ぱっ、ぱっと地を蹴る。旗が右へ、左へ揺れる。


その旗の下に、人の背がある。


杜遠の指が、ほんの少し震えた。


その震えた指を、かれは無理に止めた。


あと五十歩。


あと三十歩。


杜遠は矢を放った。


弦が、ひとつ鳴った。


矢は風を裂いて、まっすぐに飛んだ。


旗が、ふっと消えた。


同時に、馬上の人がのけぞった。矢は旗の竿を貫き、その下の背に深々と届いていた。


人が鞍から滑り落ちた。


馬だけが、そのまま駆け抜けていった。蹄の音が闇の向こうへ遠ざかってゆく。


道に、ひとつ黒い塊が転がっていた。


杜遠は弓を下ろした。


掌が汗で濡れていた。


丁六の手が、かれの肩に置かれた。


「次が来る」


低い声であった。


「やれるか」


「……やれる」


杜遠は、そう答えた。


答えて、また弓を構えた。


   *


その後、道の上を二度、三度と蹄の音が通った。


砦から本陣へ。本陣から砦へ。ひとつとして道の途中を越えられなかった。


杜遠の矢は、ひとつ、またひとつと、令の旗を貫いた。


はじめの一射のあと、かれはもう迷わなかった。迷わなかったのではなく、迷うことをやめた。


それが、決死隊というものであった。


   *


岱の本陣では、郭巍が馬上で砦のほうを見ていた。


赤い光が空を焦がしている。


その光の下から、何の報せも来ない。


「砦に、伝令を出せ」


郭巍は命じた。


騎が一頭、走り出した。


数えるほどの時が過ぎた。


その騎は戻らなかった。


もう一頭、走り出した。戻らなかった。


「将軍」


幕僚のひとりが前へ出た。


「私が見てまいります」


「ならぬ」


郭巍は顔を向けずに言った。


「これ以上、人を出しても同じであろう」


砦の向こうに、煙がひとすじ、またひとすじと立ち上ってゆく。東の森にも、西の森にも。あちこちに煙が上がっていた。


――何か所で、燃えている。


郭巍は、頭のなかで数えた。砦の火はひとつではない。森の火もひとつではない。同時にこれだけの数の火を放つことは、小部隊にはできない。


では、何者が。


そのとき、幕僚のひとりが、あっと声を上げた。


「将軍。あれを」


郭巍は、古城を見た。


城の大門が開いている。琴の音は、いつのまにか止んでいた。


その、がらんとしていたはずの広場に人がいた。


びっしりと、人がいた。


甲冑の波が広場を埋め尽くしている。旗がひしめき、槍の穂先が朝の光にきらきらと光った。


門の内側から、澗《かん》兵がいまにもあふれ出そうとしていた。


郭巍は、ことばを失った。


空であったはずの広場に、いま兵が満ちている。いつ集まったのか。ずっと城の内にいたのだ。琴の音の後ろで、息をひそめて。


「……澗の兵糧は」


郭巍の声が、かすれた。


「尽きたのではなかったのか」


尽きかけた城に、これほどの兵が出てくるはずがない。ならば、まだ余力があるのか。


いや、それを問うている暇はなかった。


「援軍か」


郭巍は、つぶやいた。


「援軍を待っていたのか。それで、時を稼いでおったのか」


十日のあいだ、「澗に援軍はない」と言い続けたのは自分である。あの烽火も、「気にするな」と言ったのは自分である。


やられた、と郭巍は思った。


だが、そう思ってから、ただちに考えを切り替えた。


砦が燃えた。兵糧が焼けた。各地に煙が立ち、正確な状況が来ない。このままここにとどまれば、どこから何が来るかわからない。援軍が東と西から森を抜け、挟撃してくるかもしれない。


「全軍に告げよ」


郭巍は静かな声で言った。


「退却する」


幕僚たちが息をのんだ。


「整然と退く。乱してはならぬ。挟撃される前に退くのだ」


「鍾塁《しょうるい》は」


「鍾塁には、押さえに残れと伝えよ」


伝令の騎が、走り出した。


郭巍は馬首を巡らせ、北を見た。


国境の城まで、二日の道。その道は、燃える砦のすぐそばを通っている。


――間に合うか。


かれは、そう思った。


間に合わせねばならぬ。


そう、思い直した。


   *


北の陣で、鍾塁はその令を受けた。


押さえに残れ。将軍が退くあいだ、ここを動くな。


鍾塁は、歯を食いしばってうなずいた。


このとき、古城の大門から、澗の旗がひとつ、ふたつとあふれ始めていた。


あふれ出る旗の、いちばん先に、ひときわ大きな旗があった。


総大将の旗である。その下に、白髪の老人がいた。 

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