↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賈牧伝  作者: fukabatohfu
第3章 壱城攻防戦

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/28

第25話 惜しむな

九日目の夜が更けて、月が中天を過ぎた。


古城の大門の上にある楼で、賈牧《かぼく》は琴を弾いていた。


八日目の朝から、短い休みを入れながら、弾き続けている。指の腹は弦にこすれて、少し赤く腫れていた。それでも手を止めなかった。


岱《たい》の陣へ流れてゆく調べが途切れたとき、あちらの将が何を考え始めるか。賈牧は、それを恐れていた。


一曲が終わった。


次の曲へ移るまでの、短い間である。夜風が楼の梁をなで、琴の余韻をゆっくりと野へ運んでいった。


階がきしんだ。


「そのまま弾いておけ」


顔を出した史連《しれん》が言った。


「やめるな。あちらは耳を澄ましておる。年寄りが来たくらいで、途切れさせてはならぬ」


賈牧はうなずき、指を弦へ戻した。低い音がひとつ落ちた。


   *


史連は楼の隅に腰を下ろした。膝をかばいながら、ゆっくりと。


しばらく、琴だけが鳴っていた。


「あすの朝か」


史連が訊いた。


「はい」


賈牧は、それだけ答えた。


何が「あすの朝」なのか、老人は訊かなかった。烽火のこと、砦のこと、森の三百のこと。すべて、この老人の耳に入れてある。賈牧が史連に隠していることは、ひとつもなかった。


「退く軍の押さえは、誰になろうの」


「鍾塁《しょうるい》でしょう」


「であろうな」


史連は膝を撫でた。


「あの男は、郭巍《かくぎ》を慕うておる。攻城の将としてではない。人として、な。軍議の様子は、おぬしの耳がよう拾ってきた。わしも聞いた」


「はい」


「慕う男は、主の危うきを見れば、持ち場を忘れる」


賈牧の指が、弦の上でほんの一瞬止まった。


すぐに動き出した。


「……儂も、そう考えておりました」


「であろう。そこが、おぬしの絵の、いちばん大きな賭けじゃ」


老人は少し笑った。


「押さえの鍾塁が持ち場を離れれば、本陣の脇が空く。そこへ范鴻《はんこう》の千騎を叩き込む。郭巍の旗に届く。……おぬしは先ほどから、その絵を琴のかげで描いておったのであろう」


賈牧は答えなかった。


それは、賈牧の絵のなかで、もっとも欲の深い一筆であった。


砦の兵糧を焼く。岱を退かせる。それだけで、この戦は澗《かん》の勝ちである。


だが、退く軍の本陣には、郭巍の首がある。


――あの男は、先には退かぬ。


この十日、郭巍の陣の動かし方を見てきた。間違えないことを仕事にしてきた将である。そういう将は、退くときこそ、退く軍のいちばん後ろの高みに旗を立て、四万が退ききるのを見届けようとする。


その旗と古城のあいだに残るのは、押さえの一隊だけになる。


――その一隊さえ動かせば、届く。


討てば、岱の南は数年、動けなくなる。


ただし、その一筆には、足りぬものがあった。


「鍾塁は、並の囮では動きません」


賈牧は、弾きながら言った。


「ただの騎兵が来ても、鍾塁は将軍の命を守ります。動かすには、鍾塁が将軍の危うさを疑いなく信じるものが要る。たとえば……」


賈牧は、そこで口をつぐんだ。


「たとえば、総大将の旗」


史連が、あとを続けた。


夜風が、ふたりのあいだを通った。


   *


「わしの命を使ったら、どうなる」


老人は、世間話のように言った。


琴の音が、ひとつ乱れた。


「そのようなこと……」


「仮に、と考えればよい」


史連の声は穏やかであった。


「仮に、わしが総大将の旗を掲げて、本陣へ突っ込む。百騎でよい。古参の者ばかりを選ぶ。鍾塁は、きっと動く。その隙に范鴻が郭巍の旗へ届く」


史連は、賈牧を見た。


「……郭巍を討ち取れるか」


賈牧は弾き続けた。


指が勝手に動いていた。弦の上を滑ってゆく。曲は乱れなかった。だが、頭のなかは白かった。


答えられなかった。


討てる、と考えていた。考えてはいたが、それは自分ひとりの胸のなかにある欲であった。人に問われれば、口に出せぬ類の欲である。


まして、その欲に、この老人の命を載せるなど。


「迷うか」


史連が言った。


「迷うがよい。迷わせておこう」


かれは膝に手をついて立ち上がった。


「答えは、あすの朝でよい。それまで迷え。迷って決めた策は、迷わず決めた策より深い。……櫓の上で、そう申したであろう」


「史連どの」


「何も言うな」


老人は階に足をかけた。


「わしは、おぬしの手の内の駒じゃ。使うか、使わぬか。使うなら、惜しむな。惜しむ使い方は、駒にとって、かえって失礼じゃ」


それだけ言って、階を下りていった。


   *


史連の足音が、下の闇へ消えていった。


琴は鳴り続けていた。


一曲が終わり、また一曲が始まった。月が、楼の梁の影を、少しずつ床の上で動かしていった。


賈牧は、弾きながら迷っていた。


史連を出せば、鍾塁は動く。動かねば、范鴻は郭巍の旗に届かない。届かねば、この戦は砦の兵糧を焼いて終わる。それで十分なはずであった。


十分なはずのものに、老人の命を積み増す。その一筆の重さが、指先にかかっていた。


三曲目の半ばで、指の腹が、ついに少し切れた。


血が弦に薄くにじんだ。


賈牧は、手を止めなかった。


止めずに、弾き続けた。その指の痛みのなかで、かれは決めた。


   *


しばらくして、階が、ふたたびきしんだ。


上がってきたのは、范鴻であった。手に、古びた戟を提げている。刃を布で巻いてあった。


賈牧は、琴から目を上げなかった。


「明日の朝、総大将の旗が動く」


范鴻は、楼の入口に立ったまま、しばらく黙っていた。


「……史連どのが」


「ああ」


「戻らぬ旗ですか」


琴の音が、ひとつ、ふたつ、置かれた。


「戻るつもりで出る」


「戻らぬかもしれぬ」


「……そうだ」


范鴻は、戟の刃に巻いた布を、指で確かめた。


「その旗が、郭巍の本陣へ向かう」


「鍾塁が動く」


「動いたら、入れ」


「どこまで」


「郭巍の旗まで」


范鴻は、そこで初めて賈牧の顔を見た。


「届かなければ」


「戻れ」


「届いたら」


賈牧は答えなかった。


琴の音だけが、答えのかわりに、野へ流れていった。答えなくても、范鴻にはわかった。


「わかりました」


「范鴻」


「はい」


「史連どののことを、考えるな」


「考えます」


賈牧の指が、弦の上でわずかに止まり、また動いた。


「考えたまま、行きます」


風が、楼の梁を渡った。


「軍師」


「何だ」


「旗が倒れたら」


范鴻は、短く言った。


「持ち帰ります」


賈牧は、范鴻を見た。


「……頼む」


范鴻は頭を下げ、階を下りていった。


琴は鳴り続けていた。


月が傾いた。


楼の下の暗がりで、古参の兵が、ひとり、またひとりと、黙って馬に鞍を置きはじめていた。数えれば、百に足りるほどであった。


櫓の上の薪の山のそばへ、火種の壺を抱いた兵が、ひとり、上がっていった。


東の空が白むまでには、まだいくらかの間があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。