第25話 惜しむな
九日目の夜が更けて、月が中天を過ぎた。
古城の大門の上にある楼で、賈牧は琴を弾いていた。
八日目の朝から、短い休みを入れながら、弾き続けている。指の腹は弦にこすれて、少し赤く腫れていた。それでも手を止めなかった。
岱の陣へ流れてゆく調べが途切れたとき、あちらの将が何を考え始めるか。賈牧は、それを恐れていた。
一曲が終わった。
次の曲へ移るまでの、短い間である。夜風が楼の梁をなで、琴の余韻をゆっくりと野へ運んでいった。
階がきしんだ。
「そのまま弾いておけ」
顔を出した史連が言った。
「やめるな。あちらは耳を澄ましておる。年寄りが来たくらいで、途切れさせてはならぬ」
賈牧はうなずき、指を弦へ戻した。低い音がひとつ落ちた。
*
史連は楼の隅に腰を下ろした。膝をかばいながら、ゆっくりと。
しばらく、琴だけが鳴っていた。
「あすの朝か」
史連が訊いた。
「はい」
賈牧は、それだけ答えた。
何が「あすの朝」なのか、老人は訊かなかった。烽火のこと、砦のこと、森の三百のこと。すべて、この老人の耳に入れてある。賈牧が史連に隠していることは、ひとつもなかった。
「退く軍の押さえは、誰になろうの」
「鍾塁でしょう」
「であろうな」
史連は膝を撫でた。
「あの男は、郭巍を慕うておる。攻城の将としてではない。人として、な。軍議の様子は、おぬしの耳がよう拾ってきた。わしも聞いた」
「はい」
「慕う男は、主の危うきを見れば、持ち場を忘れる」
賈牧の指が、弦の上でほんの一瞬止まった。
すぐに動き出した。
「……儂も、そう考えておりました」
「であろう。そこが、おぬしの絵の、いちばん大きな賭けじゃ」
老人は少し笑った。
「押さえの鍾塁が持ち場を離れれば、本陣の脇が空く。そこへ范鴻の千騎を叩き込む。郭巍の旗に届く。……おぬしは先ほどから、その絵を琴のかげで描いておったのであろう」
賈牧は答えなかった。
それは、賈牧の絵のなかで、もっとも欲の深い一筆であった。
砦の兵糧を焼く。岱を退かせる。それだけで、この戦は澗の勝ちである。
だが、退く軍の本陣には、郭巍の首がある。
――あの男は、先には退かぬ。
この十日、郭巍の陣の動かし方を見てきた。間違えないことを仕事にしてきた将である。そういう将は、退くときこそ、退く軍のいちばん後ろの高みに旗を立て、四万が退ききるのを見届けようとする。
その旗と古城のあいだに残るのは、押さえの一隊だけになる。
――その一隊さえ動かせば、届く。
討てば、岱の南は数年、動けなくなる。
ただし、その一筆には、足りぬものがあった。
「鍾塁は、並の囮では動きません」
賈牧は、弾きながら言った。
「ただの騎兵が来ても、鍾塁は将軍の命を守ります。動かすには、鍾塁が将軍の危うさを疑いなく信じるものが要る。たとえば……」
賈牧は、そこで口をつぐんだ。
「たとえば、総大将の旗」
史連が、あとを続けた。
夜風が、ふたりのあいだを通った。
*
「わしの命を使ったら、どうなる」
老人は、世間話のように言った。
琴の音が、ひとつ乱れた。
「そのようなこと……」
「仮に、と考えればよい」
史連の声は穏やかであった。
「仮に、わしが総大将の旗を掲げて、本陣へ突っ込む。百騎でよい。古参の者ばかりを選ぶ。鍾塁は、きっと動く。その隙に范鴻が郭巍の旗へ届く」
史連は、賈牧を見た。
「……郭巍を討ち取れるか」
賈牧は弾き続けた。
指が勝手に動いていた。弦の上を滑ってゆく。曲は乱れなかった。だが、頭のなかは白かった。
答えられなかった。
討てる、と考えていた。考えてはいたが、それは自分ひとりの胸のなかにある欲であった。人に問われれば、口に出せぬ類の欲である。
まして、その欲に、この老人の命を載せるなど。
「迷うか」
史連が言った。
「迷うがよい。迷わせておこう」
かれは膝に手をついて立ち上がった。
「答えは、あすの朝でよい。それまで迷え。迷って決めた策は、迷わず決めた策より深い。……櫓の上で、そう申したであろう」
「史連どの」
「何も言うな」
老人は階に足をかけた。
「わしは、おぬしの手の内の駒じゃ。使うか、使わぬか。使うなら、惜しむな。惜しむ使い方は、駒にとって、かえって失礼じゃ」
それだけ言って、階を下りていった。
*
史連の足音が、下の闇へ消えていった。
琴は鳴り続けていた。
一曲が終わり、また一曲が始まった。月が、楼の梁の影を、少しずつ床の上で動かしていった。
賈牧は、弾きながら迷っていた。
史連を出せば、鍾塁は動く。動かねば、范鴻は郭巍の旗に届かない。届かねば、この戦は砦の兵糧を焼いて終わる。それで十分なはずであった。
十分なはずのものに、老人の命を積み増す。その一筆の重さが、指先にかかっていた。
三曲目の半ばで、指の腹が、ついに少し切れた。
血が弦に薄くにじんだ。
賈牧は、手を止めなかった。
止めずに、弾き続けた。その指の痛みのなかで、かれは決めた。
*
しばらくして、階が、ふたたびきしんだ。
上がってきたのは、范鴻であった。手に、古びた戟を提げている。刃を布で巻いてあった。
賈牧は、琴から目を上げなかった。
「明日の朝、総大将の旗が動く」
范鴻は、楼の入口に立ったまま、しばらく黙っていた。
「……史連どのが」
「ああ」
「戻らぬ旗ですか」
琴の音が、ひとつ、ふたつ、置かれた。
「戻るつもりで出る」
「戻らぬかもしれぬ」
「……そうだ」
范鴻は、戟の刃に巻いた布を、指で確かめた。
「その旗が、郭巍の本陣へ向かう」
「鍾塁が動く」
「動いたら、入れ」
「どこまで」
「郭巍の旗まで」
范鴻は、そこで初めて賈牧の顔を見た。
「届かなければ」
「戻れ」
「届いたら」
賈牧は答えなかった。
琴の音だけが、答えのかわりに、野へ流れていった。答えなくても、范鴻にはわかった。
「わかりました」
「范鴻」
「はい」
「史連どののことを、考えるな」
「考えます」
賈牧の指が、弦の上でわずかに止まり、また動いた。
「考えたまま、行きます」
風が、楼の梁を渡った。
「軍師」
「何だ」
「旗が倒れたら」
范鴻は、短く言った。
「持ち帰ります」
賈牧は、范鴻を見た。
「……頼む」
范鴻は頭を下げ、階を下りていった。
琴は鳴り続けていた。
月が傾いた。
楼の下の暗がりで、古参の兵が、ひとり、またひとりと、黙って馬に鞍を置きはじめていた。数えれば、百に足りるほどであった。
櫓の上の薪の山のそばへ、火種の壺を抱いた兵が、ひとり、上がっていった。
東の空が白むまでには、まだいくらかの間があった。




