第24話 旗の下
九日目の昼、杜遠は涸れ谷の底で、弓の弦を改めていた。
砦から西へ四里。山地の裾が荒野に溶けるあたりに、水の涸れた谷がある。両側の岩が高く、底には一日じゅう日が差さない。その岩かげに、決死隊の半数が身をひそめていた。
古城を出て、半月近くになる。
火は一度も焚いていない。干し飯と革袋の水だけで、ここまで来た。岱の斥候が毎朝、砦の東西の森を洗う。その範囲は三里。四里先のこの谷までは、ついに誰も来なかった。
杜遠は、弦を指ではじいた。
低く乾いた音が、岩のあいだで短く響いた。
*
「張りは、どうだ」
岩かげから、丁六が声をかけた。
五十をひとつ、ふたつ越えた古参の兵で、鼻が昔の傷で少し曲がっている。古城で史連の前に最初に出た六人のひとりである。口が悪く、よく笑う男だった。
「悪くない」
「半月も湿った谷にいて、弦が悪くならなんだなら、たいしたもんだ」
「油を塗っている」
「そうかい」
丁六は、岩に背をもたせて座り込んだ。
「で、今夜だな」
「ああ」
「日が暮れたら森に入る。斥候が洗ったあとの森に、な」
それが、賈牧の指令であった。
毎朝、斥候は森を洗う。洗い終われば、森は空になる。その空になった森へ、日没のあとで入り、夜をそこで越す。次の朝の斥候が出る前、暁のうちに事を始める。
その合図は、古城の櫓の烽火である。
前夜、范鴻の騎兵のひとりが闇のなかをこの谷まで走ってきた。口伝えの指令をそのまま置き、すぐに駆け去っていった。
去りぎわに、その騎兵は、もうひとつだけ言い置いていった。
――軍師は、おぬしらが森にいるあいだ、門の上で琴を弾きつづける。
指令ではなかった。何のための言伝なのか、騎兵自身にも、よくわかっていないようであった。
*
三百人は、東西ふたつに分かれていた。杜遠のいる西の谷には、百五十人がいる。
さらに、その百五十人が三つに分かれる。
五十人は、砦の南門の外へ向かう。兵糧の山に火をかける。
五十人は森の各所を走り、枯れ草や木に火を放つ。煙をあちこちに立てるためである。
残る五十人は、砦と岱の本陣をつなぐ道の脇に伏せる。
杜遠は、その五十人の弓頭であった。
*
日が暮れた。
谷の底から、闇のなかへ、人がひとりずつ這い上ってゆく。足音は布で包んである。弓は背に負い、矢筒には布が巻かれていた。
荒野を四里。草のあいだで身をかがめて歩く。
森にたどり着いたとき、月はまだ出ていなかった。
木々が黒い壁のように立っている。落ち葉が足もとで深く沈んだ。杜遠たちは立ち止まり、耳を澄ませた。
斥候の足跡が、森の小道に残っている。靴の跡がいくつも重なり、いまは乾いていた。昼のうちに、この森は何度も洗われたのであろう。
その洗われたあとの森に、三百の影が忍び込んだ。
*
森のはずれから、砦が見えた。
木の柵の向こうに、いくつもの灯がともっている。南門の外には、黒々とした大きな山がいくつも並んでいた。俵の山である。筵と油紙が、その上にかぶせられている。
「あれが、野積みか」
丁六が、杜遠の耳もとでささやいた。
「大きいな」
「ああ」
「見張りは」
「倍にしてある」
杜遠は、巡回の兵の動きを目で追った。南門の外を、二人一組の兵がゆっくり歩いている。ときおり、足を止めて水桶をのぞき込んでいた。
「欠伸をしとる」
丁六が、くつくつと笑った。
「十日も何も起きなんだら、そうなるわな」
杜遠は、何も言わなかった。
*
杜遠の持ち場は、砦と本陣をつなぐ道の脇にある、小さな林であった。
五十人の弓が、そこに伏せた。
道は闇のなかに白く伸びている。あの、澗が作った南の道ではない。岱が砦と本陣のあいだを往き来するために踏み固めた道である。そこを、夜も昼も伝令の騎が駆けてゆく。
丁六が、杜遠のとなりに這い寄ってきた。
「ひとつ、伝えておくことがある」
「何だ」
「賈牧どのから、おぬしに」
丁六は、声を低くした。
「撤退の令は、伝令の騎で各陣へ走る。その騎は背に令の旗を差す。目印のためだ。その旗を目当てに射よ、とのことだ」
杜遠は息を止めた。
「旗を」
「そうだ」
「……旗の下には、人がいる」
「おお」
丁六は、少しのあいだ黙っていた。
「おぬし、古城で走る馬の背の旗を射たろう。賈牧どのは、あのとき、人でも馬でもなく、旗だけを射よと言った。覚えているか」
「覚えている」
「あのとき、旗の下にも人がいた。范鴻どのが、いた」
杜遠は、また何も言わなかった。
「あれは試しだった。今夜は、試しじゃない。それだけの違いだ」
丁六の声は、いつもより少し柔らかかった。
「おぬしがやりたくないのなら、おれが代わりに弓を引いてもいい。だが、おぬしほど当てられる男は、この隊にはおらん」
杜遠は、弓を膝の上に置いた。
山の猟師の子である。獣を射て、生きてきた。獣は射ても、胸が痛まなかった。人を射たことは、まだない。
「……やる」
かれは答えた。
「そうか」
丁六は、それだけ言って、また元の場所へ這い戻っていった。
*
夜が更けた。
月がようやく上った。細い月である。木々のあいだから淡い光がまだらに差し込んだ。
南から北へ、ゆるい風が吹いていた。古城のほうから吹いてくる風である。
森のなかのあちこちで、伏せている決死隊の兵が、ひとり、またひとりと、南の闇へ顔を向けていた。誰も、口には出さなかった。
丁六が、杜遠のとなりで、耳を澄ませるような顔をした。
「……聞こえんな」
「ああ」
風は、草の音しか運んでこなかった。古城は、半日の道のむこうにある。
「聞こえんでも、弾いとるんだろう。あの軍師は」
「ああ」
「おれたちが、ここにいるあいだ、ずっと」
丁六は、小さく笑った。
「それなら、おれたちは、ひとりじゃない、ってことだな」
杜遠はうなずいた。
闇のなかで、人の息が、ほんの少しゆるむのがわかった。
*
東の空は、まだ白まない。
杜遠は弓に矢をつがえた。矢じりは布で包んである。まだ布は外さない。
かれは、古城のほうの闇をにらんでいた。
あの櫓の上に、ほんのりと赤い光がともらないか。烽火が上がらないか。瞬きもせずに見つめていた。
風が、またかすかに動いた。
夜は、まだ明けない。
同じ月が、古城の楼も照らしていた。
琴の音は、ここまでは届かない。だが杜遠には、それが鳴っていることがわかっていた。八日目の朝から、一度も止まっていないはずであった。




