第23話 琴の音
八日目の朝、風が変わった。
それまで北から南へ吹いていた風が、夜明け前にふっと止まり、やがて南から北へ、ゆるく吹き始めた。野の草が、岱の陣のほうへ一斉になびいた。
岱軍は、夜のうちから総攻めの支度を整えていた。
太鼓が陣の前に据えられている。梯子が並べられている。鍾塁は先頭の隊の前に立ち、腕を組んで古城をにらんでいた。
待たされた八日が、この男の体のなかでひとつの塊になり、いまにも弾けようとしていた。
郭巍は、本陣の後ろの高みに馬を置いた。
空は、白み始めていた。
*
古城の北門は、焼け焦げた柱を残したまま、応急の補強を施されていた。
その大門が、ゆっくりと開いた。
岱の兵が、一斉にそちらを見た。
門がきしみながら、内へ、内へと押し開かれてゆく。重い扉が地面をこする音が、野に響いた。
開ききると、門の内側の広場がのぞけた。
誰もいなかった。
槍も、旗も、人の影もない。ただ、がらんとした土の広場が朝の光のなかに広がっているだけであった。
鍾塁が、組んでいた腕をほどいた。
「……何だ」
岱兵のあいだに、ざわめきが走った。
門の上の楼に、ひとりの男が座っていた。
紺の武官装束が、かすかに見える。細い体が、楼の欄干のかげに置かれた小さな台の前で、背を伸ばして座っていた。
男の膝の上に、琴があった。
*
最初の一音が、野を渡った。
低い音であった。水の底で、石がひとつ、ころりと動いたような音だった。
音は風に乗って、南から北へ、岱の陣のほうへゆっくりと流れてきた。八日のあいだ野を満たしていた馬のいななきや、天幕の布のはためきが、その一音でにわかに遠のいた。
次の音が続いた。
少し高く、少し細い。糸をつまんだ指が、ひとつ、またひとつと音を置いてゆく。ひとつひとつが離れているのに、離れたまま、つながって聞こえた。
やがて、調べはゆるやかにうねり始めた。
高い音が低い音を追い、低い音が高い音を受け止める。それは急ぐでもなく、とどまるでもなく、ただ一定の歩幅で野の上を歩いてくるようであった。
岱兵のなかで、弓を握っていた手がひとり、またひとりとゆるんだ。
太鼓の撥を持ち上げたままの手が、動かなくなった。
音は澄んでいた。戦のさなかにはふさわしくないほど、澄んでいた。その澄み方が、かえって岱兵の背に、ひやりとしたものを走らせた。
*
「将軍」
鍾塁が馬を走らせ、本陣の後ろの高みへ駆け上がってきた。
「門が開いております。城のなかに人影がない。いまなら突き込めます」
「待て」
「なぜ」
「待てと言うておる」
郭巍は古城から目を離さなかった。
「あの空堀を忘れたか」
鍾塁は、ことばに詰まった。
初日、あの低い壁の内側には堀があった。乗り込んだ千近い兵がそこへ落ち、弓で射すくめられた。
門の内側の広場が空であるということは、そこに何も仕掛けがないということではない。
「あの広場の下に、何があるかわからぬ」
「それなら、なおのこと、様子を見るより押してみたほうが」
「押して、全軍が嵌るのか」
郭巍は初めて鍾塁のほうを向いた。声は穏やかであったが、ひとつの言い訳も許さない響きがあった。
「二度は言わぬ」
鍾塁はくちびるを噛み、うつむいた。
*
琴の音は止まなかった。
一曲が終わると、少しの間をおいて、また別の調べが始まる。ひとつとして急く音はない。こちらの動揺をあざ笑うでもなく、誘うでもなく、ただ淡々と弾き続けている。
郭巍は、その音を聞いていた。
門を開け、空の広場をさらし、ひとりで琴を弾く。それは古い書物にもある、空城の計である。伏兵を疑わせ、攻めさせない。それだけの策だ。
しかし、その策は、いま郭巍の前でひとつの意味を持っていた。
攻めさせないことで、何が得られるのか。
あと三日で、古城の兵糧は尽きる。尽きれば、そのあとは降るか、死ぬか、出てくるかしかない。それを賈牧が知らぬはずがない。
知っていて、なお、時を稼ごうとしている。
――時を稼いで、どうする。
郭巍は考えた。援軍はない。王は、これ以上の兵を出さない。それは王都の耳が確かめている。
ならば、この時間は何に使われるのか。
考えるうちに、郭巍の頭のなかで、ひとつの像が次第にはっきりしてきた。
賈牧は、この戦に勝とうとしているのではない。
勝てぬことを知っている。四万と六千では、勝てぬ。
ならば、せめて岱に深い傷を負わせること。城と砦、堀と罠、空城。ひとつずつ、岱の兵と、時と、兵糧を削り取ってゆく。
その削り取りを、できるかぎり長く続けること。
それが、あの若者の目的なのではないか。
寡兵で打てる手は、多くない。
その少ない手を、この男はひとつも惜しまず使っている。
「……惜しいことよ」
郭巍は、つぶやいた。
鍾塁が顔を上げた。
「は」
「賈牧よ。あれほどの才が、あの小さな国に収まっておる。有り余るほどの才があって、使う場所を選べぬ。惜しいことだ」
郭巍は、馬をゆっくり巡らせた。
「こちらの勘定は変わらぬ。包囲を続ける。総攻めは中止する」
伝令が走った。
梯子を持った兵たちが肩の力を抜いた。太鼓の撥が、ようやく下ろされた。
*
夕刻になっても、琴の音は止まなかった。
日は傾き、野が赤く染まっている。古城の大門は開いたままであった。その奥の空の広場も、そのままである。
岱の陣のあちこちで、兵たちが手を休め、その音に聞き入っていた。聞きたくもないのに、耳がそちらを向く。ひとたび聞いてしまうと、耳をそらすことが難しかった。
陸稜は、砦へ戻るため本陣を出て、まもなく馬を止めた。
風に乗って、調べが途切れ途切れに届いてくる。
かれは、しばらく立ち尽くしていた。
この音は、誰に聞かせているのか。
そう考えて、陸稜は首を振った。われらに決まっている。それ以外に、聞かせる者などいようはずがない。
それなのに、なぜか胸のなかの石が、かすかに重くなった。
夜になった。
それでも琴は鳴っていた。ひとつ、またひとつと星が出た。その星の下を、澄んだ音がいつまでも岱の陣へ流れ続けていた。
*
答えは、岱の陣のどこにもなかった。
古城から半日の道の、さらにむこう。灯ひとつない谷の底で、弓の弦を張りなおしている男たちがいる。その谷まで、琴の音は届かない。
届かぬことを、弾いている男は知っていた。
十日目の暁まで、あと二夜であった。




