第21話 残り七日
四日目の朝、霧が晴れた。
古城の城壁に立った兵たちは、誰も口をきかなかった。
夜のうちに動いた四万が、荒野を埋めていた。旗がびっしりと並び、土煙が空の半分を覆っている。地面そのものが、城を取り巻いているようであった。
郭巍の布陣は、北に鍾塁。東と西に、それぞれ別の将。本陣は、砦と古城のあいだの、少し高い野に置かれた。旗の波が、城壁の下までひたひたと押し寄せていた。
城の櫓の上には、薪と狼煙の材がうず高く積まれている。援軍を呼ぶための烽火の台だと、誰の目にも見えた。
*
初日。
鍾塁は、砦を一日で落とした勢いのまま、古城の北壁に兵を集めた。
北壁には、補修の間に合わなかったところがある。城壁の西寄りに、土の色が新しく、ほかより少し低い箇所があった。
岱の兵は、それを見逃さなかった。
「あそこだ。あそこへ行け」
鍾塁の声が響いた。
岱兵が低い壁へ殺到した。梯子がいくつもかかる。壁を乗り越え、数百の兵が城内へなだれ込んだ。
そのなかには、空堀があった。
壁のすぐ内側に、深さ一丈の堀がぐるりと掘ってある。乗り越えた兵が、次々とその堀へ落ちた。落ちたところへ、三方の高みから弓が降った。
岱兵は、千近く倒れた。
鍾塁は歯ぎしりをして、兵を退かせた。
賈牧は、城壁の上からそれを見ていた。
「あの低い壁は」
かたわらの史連に訊いた。
「わざと残した」
史連は、顔の汗を拭った。
「古い手じゃ。低くしておけば、敵は必ずそこを狙う。狙うとわかっている場所に罠を置く。兵法の、いちばん初めじゃ」
「儂が思いつかなかったわけではありません」
「わかっておる」
老人は笑った。
「おぬしの頭のなかには、もっと大きな絵があろう。小さな絵は、年寄りに描かせよ」
*
二日目。
夜になって、鍾塁が北門に火をかけた。
岱兵が油をまき、火矢を射込んだ。北門が赤く燃え上がる。門の閂がきしみ、外から丸太が、ゴウン、ゴウンと叩きつけられた。
城内の兵に動揺が走った。
浮き足だった兵が後ろへ下がり始める。あの門が破れれば、あとは四万がなだれ込む。誰もが、それをわかっていた。
そのとき、史連が北門の上の城壁に現れた。
六十を越えた老人が、膝をかばいながら、石段を一段、一段とのぼってくる。手には、総大将の旗を持っていた。
史連は城壁の最前に立った。
旗を、ばさりと夜風に広げた。
矢が飛んできた。兜をかすめ、白髪がばらばらと散った。
「史連どの」
賈牧が叫んだ。
「下がってください」
「下がらぬ」
史連は、まっすぐ前を見ていた。
「澗の総大将、史連は、ここにおる」
声は大きくなかった。
それでも、近くにいた者から、ひとり、またひとりと顔を上げた。
「わしの首が欲しい者は、取りに来い。取れるものなら、取ってみよ」
老人が笑った。
古参の兵たちが、その顔を見上げた。
ひとり、ふたりと足が止まった。下がりかけていた兵が、顔を上げた。
「総大将を、死なせるな」
誰かが叫んだ。
それが波になった。
兵が、わっと北門に殺到した。水をかけ、砂をまき、丸太で門を支える。燃える門が、持ちこたえた。
鍾塁は夜半まで攻めたが、ついに門は破れなかった。
*
三日目。
夜が明けると、岱軍の陣から巨大な櫓がゆっくりと押し出されてきた。
攻城櫓である。車輪のついた高い櫓が城壁の高さを越えて迫ってくる。あれが壁に取りつけば、数百の兵が一度に城壁の上へ駆け上がることになる。
「范鴻」
賈牧は静かに呼んだ。
范鴻は、西門の内に騎兵を集めていた。
「二百騎。行ってこい」
「は」
騎兵が西門を出た。
范鴻を先頭に、二百騎が平原を駆ける。目指すは、攻城塔の側面。
岱軍の兵が気づいたのは、騎兵が塔に迫る直前だった。
「騎兵だ」
塔を押していた兵たちが手を離し、振り返る。周囲を固めていた歩兵が、盾を並べて道を塞いだ。後列から槍が突き出される。
正面からぶつかれば、馬が傷つく。
范鴻は手綱を引かず、わずかに進路を変えた。先頭の騎兵が盾の列の端をかすめる。槍の穂先が馬の胸先を横切った。
その一瞬、列の速度が落ちた。
だが、後続は止まらない。
「右へ寄せろ」
范鴻の声に、二百騎がひとつの塊のまま向きを変える。盾の列を正面から破るのではない。敵が陣形を整えきる前に、その脇を抜ける。
岱兵が槍を振り向けたときには、騎兵はもう塔の側面に達していた。
范鴻の戟が、塔を支える脚を薙いだ。
後続の騎兵も、次々に脚へ刃を叩き込む。木が裂け、縄が張り詰める。塔の上で兵が叫んだ。
押していた兵たちが逃げようとした。だが、巨大な塔は、彼らの頭上へ傾きはじめていた。
轟音とともに、塔が倒れた。
兵も、梯子も、積み上げた木材も、まとめて地面に叩きつけられる。
范鴻は振り返らなかった。
「戻れ」
騎兵は塔の残骸を回り込み、敵の槍が再び揃う前に駆け抜けた。背後から矢が追いすがり、二騎の馬が首を振った。だが、列は崩れない。
西門が開く。
二百騎は、ひとりも欠けることなく城内へ戻った。
岱の太鼓が乱れた。
その日の夕刻、鍾塁はついに兵を退いた。
*
夜になって、岱の陣から攻めの太鼓が聞こえなくなった。
三日のあいだ、あれほど城壁を揺るがしていた音が、ふっつりと止んだ。静けさのほうが、かえって耳に重かった。
城内の兵たちは息をついた。何人かが「勝った」と叫びかけ、あわてて口をつぐんだ。
「喜ぶな」
史連が、城壁の上で言った。
「これからが、本番じゃ」
賈牧は老人のとなりに立った。
北の闇に、岱の灯が広がっている。それは古城を、ぐるりと取り囲んでいた。ひとつひとつの灯が、星のようであった。
「郭巍は、攻めを止めた。干すつもりじゃ」
史連が言った。
「こちらの兵糧が、十日ぶんしかないことを知っておる」
「はい」
「三日、過ぎた。残り、七日」
老人は、膝を軽く叩いた。
「七日のあいだに、おぬしの絵を描け」
賈牧は答えなかった。
その目は、北の灯ではなく、東と西の闇に向いていた。
城を取り巻く灯の輪の、さらに外。東にも西にも、黒い森の影が沈んでいる。そこには、灯がひとつもなかった。
櫓の上に、薪の山が夜風に揺れていた。その影が城壁の上に、黒く、長く伸びていた。




