第20話 残る者
砦が落ちる日の夜明けは、よく晴れていた。
楊烈は、土塁の上に立って、北の道を見ていた。
四十をいくつか越えている。肩が張り、顎が角ばり、笑うことの少ない男である。第一次汪野のとき、賈牧の別動隊で副将を務めた。以来、歩兵の将として、この若い軍師のもとで黙々と戦ってきた。
砦には、千の兵がいた。古城の六千から、賈牧が分けたものである。
急ごしらえの砦に、千。
多すぎれば、岱は何かを疑う。少なすぎれば、守る気がないと見られる。
千は、その中間だった。
*
前夜、賈牧が砦に来た。
土塁の陰に、二人で座った。
「明日、岱の先鋒が来ます。鍾塁という将が、五千ほどを率いて」
「聞いている」
「日が傾いて、北西の柵が破られたら、退いてください。それまでは守ってください。本気で」
「本気で」
「手を抜けば、郭巍は見抜きます」
「わかっている」
賈牧は、少しことばを切った。
「死者が出ます。申し訳ありません」
楊烈は、顔をしかめた。
「謝るな」
賈牧が顔を上げた。
「命じる者が謝るのは、聞いていて気持ちのよいものではない。兵は、おぬしの駒ではない。それは、わかっている。駒として使うのは、おぬしだ。ならば使え。使うなら、堂々と使え」
楊烈は、それだけ言って立ち上がった。
「わしらは、死ぬために来たのではない。勝たせるために来た。そのために死ぬのなら、構わぬ」
賈牧は黙って、頭を下げた。
*
朝霧が晴れた。
北の地平に土煙が立った。やがて、太鼓の音が大地を震わせて近づいてくる。
五千である。
先頭に、ひときわ大きな旗が見えた。鍾塁の旗である。鍾塁は馬上で、大きな口を開けて笑っていた。笑いながら、手を上げた。
太鼓が、一斉に鳴った。
岱兵が、わっと砦へ殺到した。
梯子がかかる。柵に鉤がかかる。丸太が組まれ、石が落ち、矢が空を覆った。急ごしらえの砦は、きしみながら、それをこらえた。
楊烈は、土塁の上を走った。
弓をまとめて射させた。梯子を丸太で押し返させた。落ちた者の上に、また次の者がのしかかった。声と声が混じり、何を叫んでいるのか、もうわからなかった。
一度、岱兵が退いた。
その間に楊烈は、柵の破れを直させ、倒れた兵を後ろへ運ばせた。顔には土と血がこびりついていた。
昼すぎ、ふたたび太鼓が鳴った。
今度は、先ほどより強かった。鍾塁自身が先頭に立ち、柵に取りついた。
「破れ。破れ。一日で落とせ」
声が聞こえた。
本気である。
こちらも本気で守った。手を抜いて勝てる相手ではない。手を抜いて、負けるふりが通じる相手では、なおさらなかった。
*
北西の柵を守っていたのは、呉石であった。
五十に近い。古参の伍長で、白髪混じりの頭に赤茶けた鉢巻をしている。第一次汪野のときも、楊烈の下にいた。
口のきき方に遠慮のない男で、楊烈より年長であるぶん、ときに将より将らしい顔をした。
その北西の柵が、傾いた。
日は、西へ傾き始めていた。
「楊烈どの」
呉石が、血のついた顔で駆けてきた。
「柵が、もちません」
「わかった」
楊烈はうなずいた。
銅鑼を打たせた。退け、の合図である。
千の兵が一斉に南門のほうへ動き始めた。乱れはなかった。あらかじめ、そのように調練してあった。
そのとき、呉石が言った。
「殿は、儂らが」
「なに」
「古参だけで残ります。五十人ばかり」
楊烈は呉石の顔を見た。
「おぬしらだけでは」
「若い者に死なれるのは、どうも寝覚めが悪い」
呉石は笑った。
「年寄りから順に死ぬ。それが筋というものです」
楊烈は、しばらく黙っていた。
殿を残せば、退却は見事に見える。見事に見えれば、郭巍はそれを「精鋭の退却」と読む。罠がどこにあるかを読ませるための、それもひとつの手であった。
そのことを、楊烈は頭ではわかっていた。
わかっていて、口が動かなかった。
「……頼む」
ようやく、それだけ言った。
呉石は、軽く手を上げた。それが、別れの挨拶だった。
*
南門を抜けて、楊烈は道に出た。
あの、よすぎる道である。草が刈られ、石がのぞかれ、小川には橋が架かっている。八百ほどの兵が、整然とその道を南へ向かっていた。
楊烈は振り返った。
砦の北西で、土煙が上がっている。そのなかで、赤茶けた鉢巻が一瞬だけ、ちらりと見えた。
岱兵が柵を破り、なだれ込んでゆく。それを、五十人ほどの小さな塊が受け止めていた。
ひとりも通さない。通さぬまま、じりじりと、ひとり、またひとりと倒れてゆく。
鍾塁の兵は、すぐに南へ回り込もうとした。だが、呉石の隊がその前に立ちはだかった。
時が、ほんの少し引き延ばされた。
その、ほんの少しのあいだに、楊烈の八百は、道を遠くへ退いていった。
夕日が赤かった。
楊烈は、もう振り返らなかった。
岱は、追ってこなかった。
*
古城に着いたのは、夜であった。
門のところで、賈牧が待っていた。灯をひとつ、手にしている。
「千のうち、戻らなかった者、二百十一」
楊烈は報告した。
「そのなかに、呉石以下、古参の五十二人が含まれる」
賈牧は何も言わなかった。
楊烈は懐から、一枚の紙を取り出した。墨で、名がずらりと書かれている。道すがら、楊烈が覚えているかぎりの名を、ひとり、ひとり書きつけたものである。
「ひとつだけ、言うておく」
楊烈は紙を賈牧に渡した。
「呉石は、笑って残った。それだけ、伝える」
賈牧は紙を受け取った。灯の下で開いた。
ひとつ、ひとつ、名を読んでいった。
長い時間であった。
読み終わって顔を上げると、北の空に、いくつもの灯がともり始めていた。ひとつ、またひとつと、闇のなかに増えてゆく。
砦に、岱の灯がともったのであった。
あの灯の下で、南岳の将が、呉石たちの亡骸の前に立ち、何を読んだか。楊烈は知らない。
呉石が笑って残ったことだけが、楊烈の知るすべてであった。
灯は、それから三日のあいだ、夜ごとに増えた。
四日目の朝、霧が晴れると、その灯の主たちが、古城をぐるりと取り巻いていた。




