第19話 三百の名
その翌朝、古城には霧が出た。
砦が落ちるまで、あと四日ほどのころである。
城内の空き地に、六千の兵が並んでいた。霧のなかで、人の影だけが黒く、びっしりと続いている。誰も、咳ひとつしなかった。
崩れた石段の上に、史連が立った。
老将は、膝をかばいながら、ゆっくりと全軍を見渡した。
「聞け」
声は大きくなかった。しかし霧のなかで、六千の耳に、ひとつ残らず届いた。
「これから、三百人を選ぶ」
ざわめきが、霧のなかをかすかに走った。
「何をするかは言えぬ。どこへ行くかも言えぬ。生きて帰れる者がどれほどいるか、それもわからぬ」
史連は、そこで一度ことばを切った。
「ただ、この戦の勝ち負けは、その三百人にかかっている。行く者は、一歩前へ出よ」
*
しばらく、誰も動かなかった。
風が霧を揺らした。遠くで、馬が鼻を鳴らした。
最初に出たのは、六人であった。
いずれも五十に近い古参の兵である。史連がまだ壮年のころから、国境の戦をともに歩いてきた男たちだった。
かれらは何も言わず、ただすっと前へ出て、石段の下に横一列に並んだ。
史連の顔が、かすかにゆがんだ。
老人は、その古い顔ぶれを見て、目を伏せた。伏せたのは、一瞬であった。
次に、ひとり。またひとり。
やがて、波が立つように、列が前へ動き始めた。
千を越えた。
賈牧は、石段の少し脇に立って、それを見ていた。
*
選ぶのは、賈牧の仕事であった。
条件は四つある。弓が射てるか。足が速いか。夜目が利くか。口が堅いか。
それにもうひとつ、賈牧は口に出さぬ条件を持っていた。
家の者が、少ないこと。
帰れぬ者が出るとわかっている任務に、妻子のある者を選ぶことは、賈牧にはできなかった。できなかったが、それはまた、独り身の者を先に死なせることでもあった。
そのことを、かれは自分でもよく知っていた。
聖人のすることではない。
列の端のほうで、まだ十七、八の若い兵が顔を赤くして立っていた。
賈牧は、その前で足を止めた。
「名は」
「は、葉定と申します」
「おまえは、残れ」
「なぜでございますか。足なら、誰にも負けませぬ」
「足は、わかっている」
賈牧は、少しことばを選んだ。
「生きて、麦を刈る者がいる。それは、おまえのような者であってほしい」
若者はくちびるを噛んだ。何か言いたそうであったが、頭を下げて列を離れた。
賈牧は、その背を見送らなかった。見送れば、また迷うからである。
*
弓を持つ者は、四十人ほど集まった。
賈牧は、そのなかからひとりを選びたかった。
「范鴻」
呼ばれて、騎兵の将が馬を引いてきた。
賈牧は、百歩ほど先に細い竿を立てさせた。竿の先には、小さな赤い旗がついている。
「あの旗を、背に差してくれ」
范鴻は黙ってうなずいた。背に竿を差し、馬に乗った。
「全速で走れ。あの端から、こちらへ。馬は、いつものように」
范鴻は、またうなずいた。
「弓を持つ者は、走る旗を射よ。人でも、馬でもない。旗だけを」
四十人の弓手がざわついた。
走る馬の背にある、小さな旗である。矢を放てば、馬か人に当たる。当たらなければ、空を切る。
范鴻の馬が駆け出した。
土煙が立った。ひとり、ふたりと矢が放たれたが、いずれも馬の尻をかすめ、むなしく地に落ちた。
そのなかで、ひとりだけ、弓を構えたまま動かない男がいた。
杜遠である。
三十になる。痩せて背が高く、目が普段から遠くを見る癖のある男だった。西の山地の猟師の子である。口数が少なく、言いたいことは弓に言わせた。
范鴻の馬が、ちょうどかれの正面を駆け抜けようとしたとき、杜遠の矢が放たれた。
矢は風を切って、まっすぐに飛んだ。
赤い旗が、竿ごと、ふっと范鴻の背から消えた。
范鴻は馬を止めた。振り返ると、地面に竿が、矢に貫かれて突き立っている。
范鴻は、しばらくそれを見ていた。
それから杜遠のほうを見て、ひとこと言った。
「……悪くない」
杜遠は頭を下げた。それだけで、何も言わなかった。
*
夕刻、三百人が集まった。
古参の六人がいる。杜遠がいる。そのほか、名も顔も、賈牧はひとつ残らず確かめた。
「どこへ」
杜遠が賈牧に訊いた。
「言えぬ」
「そうですか」
杜遠は、それ以上訊かなかった。
「ただ、しばらくのあいだ、誰にも見られぬ場所に潜んでいてもらう。その先は、のちに伝える」
「承知」
杜遠は、少し考えるような顔をした。
「ひとつだけ。おれが帰れなんだら、この弓は誰にやればいい」
賈牧は、答えるまでに少し間があった。
「それは、帰ってきてから決めよ」
杜遠はうなずいた。表情は変わらなかった。
*
夜明け前に、三百人は古城を出た。
闇のなかである。松明はひとつもない。足音を殺し、荒野の草のなかへ、ひとり、またひとりと吸い込まれていった。
城門のそばに、史連と賈牧が立っていた。
「行け」
史連が低く言った。誰にともなく、そうつぶやいた。
最後のひとりが、闇の向こうへ消えた。
賈牧は、しばらく動かなかった。
かれのくちびるが、わずかに動いていた。
三百の名を、ひとりずつ、胸のなかで数えているのであった。
重いほうを選べ、と老人は言った。
賈牧は、選んだ。
東の空が、ほんのりと白み始めていた。荒野の果てに、三百の影は、もう見えなかった。
賈牧は、北を向いた。
明けかけた空の下に、荒野が、ただ灰色に広がっている。その先、半日の道のむこうに、砦がある。ここからは見えない。
そこにも、千の兵がいる。
三百の名を数え終えるより早く、賈牧は、あの柵の内へ、もうひとつの「死ね」を告げに行かねばならなかった。




