↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賈牧伝  作者: fukabatohfu
第3章 壱城攻防戦

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/32

第19話 三百の名

その翌朝、古城には霧が出た。


砦が落ちるまで、あと四日ほどのころである。


城内の空き地に、六千の兵が並んでいた。霧のなかで、人の影だけが黒く、びっしりと続いている。誰も、咳ひとつしなかった。


崩れた石段の上に、史連《しれん》が立った。


老将は、膝をかばいながら、ゆっくりと全軍を見渡した。


「聞け」


声は大きくなかった。しかし霧のなかで、六千の耳に、ひとつ残らず届いた。


「これから、三百人を選ぶ」


ざわめきが、霧のなかをかすかに走った。


「何をするかは言えぬ。どこへ行くかも言えぬ。生きて帰れる者がどれほどいるか、それもわからぬ」


史連は、そこで一度ことばを切った。


「ただ、この戦の勝ち負けは、その三百人にかかっている。行く者は、一歩前へ出よ」


   *


しばらく、誰も動かなかった。


風が霧を揺らした。遠くで、馬が鼻を鳴らした。


最初に出たのは、六人であった。


いずれも五十に近い古参の兵である。史連がまだ壮年のころから、国境の戦をともに歩いてきた男たちだった。


かれらは何も言わず、ただすっと前へ出て、石段の下に横一列に並んだ。


史連の顔が、かすかにゆがんだ。


老人は、その古い顔ぶれを見て、目を伏せた。伏せたのは、一瞬であった。


次に、ひとり。またひとり。


やがて、波が立つように、列が前へ動き始めた。


千を越えた。


賈牧《かぼく》は、石段の少し脇に立って、それを見ていた。


   *


選ぶのは、賈牧の仕事であった。


条件は四つある。弓が射てるか。足が速いか。夜目が利くか。口が堅いか。


それにもうひとつ、賈牧は口に出さぬ条件を持っていた。


家の者が、少ないこと。


帰れぬ者が出るとわかっている任務に、妻子のある者を選ぶことは、賈牧にはできなかった。できなかったが、それはまた、独り身の者を先に死なせることでもあった。


そのことを、かれは自分でもよく知っていた。


聖人のすることではない。


列の端のほうで、まだ十七、八の若い兵が顔を赤くして立っていた。


賈牧は、その前で足を止めた。


「名は」


「は、葉定《ようてい》と申します」


「おまえは、残れ」


「なぜでございますか。足なら、誰にも負けませぬ」


「足は、わかっている」


賈牧は、少しことばを選んだ。


「生きて、麦を刈る者がいる。それは、おまえのような者であってほしい」


若者はくちびるを噛んだ。何か言いたそうであったが、頭を下げて列を離れた。


賈牧は、その背を見送らなかった。見送れば、また迷うからである。


   *


弓を持つ者は、四十人ほど集まった。


賈牧は、そのなかからひとりを選びたかった。


「范鴻《はんこう》」


呼ばれて、騎兵の将が馬を引いてきた。


賈牧は、百歩ほど先に細い竿を立てさせた。竿の先には、小さな赤い旗がついている。


「あの旗を、背に差してくれ」


范鴻は黙ってうなずいた。背に竿を差し、馬に乗った。


「全速で走れ。あの端から、こちらへ。馬は、いつものように」


范鴻は、またうなずいた。


「弓を持つ者は、走る旗を射よ。人でも、馬でもない。旗だけを」


四十人の弓手がざわついた。


走る馬の背にある、小さな旗である。矢を放てば、馬か人に当たる。当たらなければ、空を切る。


范鴻の馬が駆け出した。


土煙が立った。ひとり、ふたりと矢が放たれたが、いずれも馬の尻をかすめ、むなしく地に落ちた。


そのなかで、ひとりだけ、弓を構えたまま動かない男がいた。


杜遠《とえん》である。


三十になる。痩せて背が高く、目が普段から遠くを見る癖のある男だった。西の山地の猟師の子である。口数が少なく、言いたいことは弓に言わせた。


范鴻の馬が、ちょうどかれの正面を駆け抜けようとしたとき、杜遠の矢が放たれた。


矢は風を切って、まっすぐに飛んだ。


赤い旗が、竿ごと、ふっと范鴻の背から消えた。


范鴻は馬を止めた。振り返ると、地面に竿が、矢に貫かれて突き立っている。


范鴻は、しばらくそれを見ていた。


それから杜遠のほうを見て、ひとこと言った。


「……悪くない」


杜遠は頭を下げた。それだけで、何も言わなかった。


   *


夕刻、三百人が集まった。


古参の六人がいる。杜遠がいる。そのほか、名も顔も、賈牧はひとつ残らず確かめた。


「どこへ」


杜遠が賈牧に訊いた。


「言えぬ」


「そうですか」


杜遠は、それ以上訊かなかった。


「ただ、しばらくのあいだ、誰にも見られぬ場所に潜んでいてもらう。その先は、のちに伝える」


「承知」


杜遠は、少し考えるような顔をした。


「ひとつだけ。おれが帰れなんだら、この弓は誰にやればいい」


賈牧は、答えるまでに少し間があった。


「それは、帰ってきてから決めよ」


杜遠はうなずいた。表情は変わらなかった。


   *


夜明け前に、三百人は古城を出た。


闇のなかである。松明はひとつもない。足音を殺し、荒野の草のなかへ、ひとり、またひとりと吸い込まれていった。


城門のそばに、史連と賈牧が立っていた。


「行け」


史連が低く言った。誰にともなく、そうつぶやいた。


最後のひとりが、闇の向こうへ消えた。


賈牧は、しばらく動かなかった。


かれのくちびるが、わずかに動いていた。


三百の名を、ひとりずつ、胸のなかで数えているのであった。


重いほうを選べ、と老人は言った。


賈牧は、選んだ。


東の空が、ほんのりと白み始めていた。荒野の果てに、三百の影は、もう見えなかった。


賈牧は、北を向いた。


明けかけた空の下に、荒野が、ただ灰色に広がっている。その先、半日の道のむこうに、砦がある。ここからは見えない。


そこにも、千の兵がいる。


三百の名を数え終えるより早く、賈牧は、あの柵の内へ、もうひとつの「死ね」を告げに行かねばならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。