第18話 重い駒
建徳二十年、秋。
岱軍が国境を越えたという報が、古城に届いた夜である。砦が落ちるより、五日ほど前のことだった。
古城は、もう荒野の廃城ではなかった。
崩れた壁には土が盛られ、突き固められている。倒れていた門は新しい材で建て直された。井戸は浚われ、草は刈られ、六千の兵の天幕が城の内外に並んでいた。
二本だけ空に向かって立っていた櫓の柱には、新しい梁が架けられている。梯子も、ふたたび人の体重に耐えられるようになっていた。
その櫓の上に、史連がいた。
*
六十を越えている。小柄で、薄くなった白髪が頭に残っている。歩くときは、少し左の膝をかばう。
いまの澗の将のなかで、もっとも年をとった男であった。
この老人が、先王の代から澗の軍に仕えてきたことを、若い者はあまり知らない。若い者が知っているのは、ここ数年の史連である。
蘇謙のあとを継ぎ、賈牧に采配を任せた、あの穏やかな老将。
虫が鳴いていた。
秋の荒野の夜は、思いのほか騒がしい。草のあいだで無数の虫が、声を限りに鳴いている。その向こう、北の闇に、岱の灯はまだ見えなかった。
「ここにおられましたか」
梯子がきしみ、賈牧が顔を出した。
「年寄りは、高いところが好きでな」
史連は、振り返らずに言った。
「それに、ここからは、よう見える」
賈牧は老人のとなりに立った。二十五になる。細い体に、紺の武官装束が、あいかわらずよく似合っている。
「岱は、国境を越えました。号して六万、実数は四万を越えぬと」
「四万と、六千か」
史連は、ふっと笑った。
「兵糧は」
「十日ぶんです」
「王も、よう、十日と申したものよ」
史連は、笑みを残したまま言った。
「あの鄭全という男が、横から口を出しおった。小さな男じゃが、小さな男は、ときとして大きな岩を動かす」
「申し訳ありません」
「何を謝る」
史連は、初めて振り返った。
「おぬしが謝るようなことではあるまい」
賈牧は答えなかった。
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しばらく、二人は闇を見ていた。
「わしは、先王に仕えた」
史連が、ふいに言った。
「あの方は、よい王であった。強い王ではなかったが、人の話を聞いた。亡くなる数日前、わしを枕もとに呼んで、申された。倅は、人がよい、と」
「人が、よい」
「人のよい王は、悪い者に使われる。それを、先王は、よう知っておられた。史連、おぬしは倅の杖になってやってくれ。そう、申された」
史連は、膝を軽く叩いた。
「杖は、いつか折れるものよ。折れたあと、王が何を杖にするか。わしは、それが気がかりでの」
賈牧は、すぐにはことばを返せなかった。
その気がかりが誰の顔をしているのか、二人ともわかっていた。わかっていて、口にはしなかった。
「おぬしは」
史連は続けた。
「王に仕えよ、とは、わしは言わぬ。澗に仕えよ。王と澗は、同じではない。だが、同じと信じる者が、ほとんどじゃ。そこが、つらいところよ」
「儂は、澗の臣です」
「うむ。それは聞いた」
史連はうなずいた。
「ただ、それが通じる相手ばかりでは、あるまいがの」
二年前、汪野の火のそばで、この老人が同じことを口にしたことがある。
賈牧はそれを思い出し、ほんの少し、口もとをゆがめた。
*
「わしに、何をさせたい」
史連が訊いた。
老人の目は、まっすぐであった。
賈牧は一度、口を開き、また閉じた。そして、ゆっくりと言った。
「古城に、総大将の旗を立てておいていただきます。最後まで」
「最後まで」
「はい」
「それだけか」
「それだけ、と申すには、重すぎることです」
史連は、しばらく何も言わなかった。
虫の声が、また耳についた。
「ひとつ、お伝えしておきます」
賈牧は、ことばを選びながら言った。
「この戦で、砦に本物の死者が出ます」
「ほう」
「負けたふりでは、敵は信じません。守り、抗い、兵を失う。そうでなければ、郭巍は砦の敗北を本物とは見ないでしょう。……儂が、その兵に、死ねと命じるのです」
史連は驚かなかった。
賈牧は、そのことに少し救われた。
「聞かせてやろう」
老人は、膝に手を置いた。
「わしが、まだ三十になったばかりのころ、国境でひとつ戦があった。そのとき、わしはひとりの小隊長に、死ねと命じた。味方を逃がすための囮じゃった。小隊長は笑って、はい、と答えた。その顔を、わしはいまも覚えている」
史連は、そこで少し黙った。
「兵を駒のように使わねばならぬ夜が、将にはある。使わねば、もっと多く死ぬ。そのことは、わかっておる。だが、わかっていても、あの顔は消えぬ」
「……はい」
「おぬしは、重いほうを選べ。重くて、潰れそうになっても、忘れるな。それだけは、年寄りから言うておく」
賈牧は、深く頭を下げた。
*
「もうひとつ、言うておくことがある」
史連は、梯子のほうへ体を向けた。
「わしが、この戦で死ねば」
「史連どの」
「聞け。年寄りの話は、最後まで聞くものよ」
老人は、少し笑った。
「わしが死ねば、王の前で、おぬしの策を弁護する者がいなくなる。それが気がかりでの。……もっとも、気がかりといっても、わしの死に場所は、わしが選ぶことじゃ。年寄りの多くは病床で死ぬ。わしは選べる。それは贅沢というものよ」
「そのようなことは、言うものではありません」
「言うものではないから、言うておる」
二年前と、同じことばであった。
賈牧は、それ以上、止めなかった。止めても、この老人は聞かぬであろう。聞かぬことを、賈牧はわかっていた。
わかっているから、胸の奥がきしんだ。
「わかりました」
かれは言った。
「旗は、最後まで立てておきます」
「それでよい」
史連は、梯子に足をかけた。
「おぬしが迷ったときは、迷わせておけ。迷って決めた策は、迷わずに決めた策より、深い」
梯子を二段ほどおりたところで、老人は足を止めた。
「明日は、何人じゃ」
賈牧は、すぐには答えなかった。
「……三百」
「三百か」
史連は、それだけ言って、ゆっくりと梯子をおりていった。
*
史連の幕には、灯がひとつだけあった。
老将は卓の前に座り、懐から小さなものを取り出した。
総大将の印である。
蘇謙が汪野で戦死したとき、この印は史連の手に渡った。それ以来、五年のあいだ、かれはそれを懐に入れて歩いてきた。
掌にのせると、冷たく、少し重かった。
史連は、しばらくそれを見ていた。
「重いのう」
老人は、ひとりごとのように言った。
重いのは、印ではなかった。
明朝、この老人は、六千の兵の前に立ち、三百の命を求めることになっている。
灯がひとつ、風に揺れた。
夜半、虫の声が、ふいにやんだ。
荒野の底から、白いものが、音もなく湧きはじめていた。




