EP 9
叩き折られた慢心と、絶対の法則
大分海軍航空隊基地、剣術道場。
本来ならば静寂と威儀を重んじるはずのその場所は、今や阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「ぐはあっ!」
「うおぉぉッ、そこだァッ!」
「……遅い。大振りすぎる」
パーンッ!という乾いた打突音と共に、また一人、血の気の多いエースパイロットが板張りの床に沈んだ。
数十名の搭乗員たちを取り囲むように倒れ伏している中、道場の中央で木刀をだらりと下げて立っているのは、特務大尉の坂上真一ただ一人である。
彼の呼吸は全く乱れておらず、軍服に汗の染み一つない。
「どうした。もう終わりか? 大和魂があれば、気合いで立ち上がれるんじゃないのか」
坂上の冷徹な声が道場に響く。
彼に挑みかかった搭乗員たちは、いずれも剣術の心得がある猛者たちだった。しかし、坂上の剣――北辰一刀流免許皆伝の太刀筋は、彼らの常識を遥かに超えていた。
力任せに振り下ろされる竹刀を最小限の動きでいなし、相手の体勢が崩れた瞬間に、手首や胴へ正確無比な一撃を叩き込む。相手の殺気と動きを完全に先読みする『明鏡止水』の境地。
「クソッ……バケモノかよ、この人……」
床に這いつくばりながら、古参の黒田飛曹長が呻いた。
自分たちの動きが、まるで子供のお遊戯のように見透かされている。圧倒的な実力差。空の男としてのプライド以前に、一人の闘争者として完全に心を折られかけていた。
「お前たちの剣は、気合いと力だけで振り回している。だから体力を無駄に消耗し、隙だらけになるんだ」
坂上は木刀を肩に担ぎ、倒れている搭乗員たちを見下ろした。
「空でも同じだ。お前たちが絶対だと信じている『巴戦』――敵の背後を取るために旋回を繰り返す行為は、己のエネルギーをドブに捨てているのと同じなんだよ」
「エネルギー、だと……?」
「そうだ。よく聞け」
坂上は道場の壁に立てかけられていた黒板の前に立ち、チョークを手にした。未来の空軍(空自)において、パイロットが最初に叩き込まれる『エネルギー機動理論』の基礎だ。
「空戦における絶対の法則。それは『高度』と『速度』だ。高度は位置エネルギーであり、貯金のようなものだ。そして速度は運動エネルギーであり、手持ちの現金だ」
坂上はチョークで簡単な図式を書く。
「急降下すれば、高度(貯金)を速度(現金)に変換できる。逆に上昇すれば、速度を高度に変換して貯金できる。……では、お前たちが得意とする『旋回』はどうだ? 旋回とは、空気抵抗という強烈なブレーキを己の機体にかける行為だ。高度も速度も手に入らない。ただ一方的にエネルギー(資金)を消費するだけの、最悪の無駄遣いだ」
道場は静まり返っていた。
坂上の言葉には、精神論が入り込む余地のない、冷酷な物理法則(真理)があった。
「お前たちが巴戦に持ち込み、旋回を繰り返して速度を失った状態。それは空戦において『破産』を意味する。もしそこに、高度と速度を保ったままの一撃離脱戦法を仕掛けてくる敵の二番機がいたらどうなる? 速度を失ったお前たちは回避もできず、ただの固定標的として撃ち落とされる」
チョークを置き、坂上は黒田たちを見据えた。
「米軍はもうすぐ、お前たちの旋回性能に付き合うのをやめる。装甲の厚い新型機を繰り出し、高度の優位から一撃で弾をばら撒いて、そのまま速度を活かして逃げ去る戦法に切り替えてくる。……そうなった時、大和魂と巴戦でどうやって勝つ? 気合いで敵の弾を弾き返すのか?」
「……ッ」
黒田はギリッと奥歯を噛み締めた。
痛いところを突かれた。彼ら自身、ミッドウェーや前線での戦いの中で「米軍機が旋回戦を避けて降下してくると、追いつけない」という不気味な感触を覚え始めていたのだ。
「……教官殿の理屈は、分かりました」
黒田が、ふらつく足で立ち上がった。その目には、まだ空の男としての意地が燃え残っている。
「地上での剣術では、あなたの圧勝です。それに、その『エネルギー』とやらの理屈も理解はできる。……ですが! 我々は空で生きてきた人間だ。理屈だけで、命より大事な愛機(ゼロ戦)の戦い方を否定されて、ハイそうですかと引き下がるわけにはいきません!」
「その通りだ! 空の事は、空で決着をつけるべきだ!」
他のエースたちも次々と立ち上がり、坂上を睨みつける。
坂上は、ふっと口角を上げた。
「いいだろう。お前らのそういう往生際の悪さ、嫌いじゃないぜ」
坂上は木刀を床に放り投げた。
「明日の朝マルハチマルマル(午前8時)。模擬空戦をやる。お前らの中から、腕自慢を五人選べ。俺一人で、まとめて相手をしてやる」
「五対一だと!? 舐めるな! 我々の乗る零戦二一型は、世界最強の戦闘機だぞ!」
「ああ。だからハンデをくれてやる」
坂上は、信じられないことを口にした。
「俺は、格納庫の隅で埃を被っている『九六式艦上戦闘機(九六戦)』に乗る。おまけに、俺からは絶対に格闘戦を仕掛けない。……もしお前ら五機のうち、一機でも俺の背後を取れたら、俺の負けだ。教官を辞めて、大人しくお前らの部下になってやる」
九六戦。零戦の一世代前の主力機であり、すでに第一線を退いた旧式の戦闘機だ。最高速度も、旋回性能も、上昇力も、すべてにおいて零戦に劣る。
そんな旧式機で、最新鋭の零戦五機を相手に、格闘戦をせずに勝つなど、狂人の戯言でしかない。
「……言いましたね、教官殿。その言葉、絶対に後悔させてやりますよ」
「せいぜい足掻け。現代の空の厳しさを、その体に刻み込んでやる」
◆
翌朝。抜けるような青空が広がる大分基地の上空。
坂上真一は、開放型のコックピットである九六戦の操縦席に座り、風防越しに眼下の雲を見下ろしていた。
F-35Bの密閉されたグラスコックピットとは大違いの、オイルの匂いと風切り音が直接吹き込んでくるアナログな空間。しかし、坂上の操縦技術は機体を選ばない。
高度四千メートル。
眼下の一千メートル下方に、黒田たち五機編隊の零戦が、獲物を探してウロウロと旋回しているのが見えた。
「さて……」
坂上は、分厚い飛行眼鏡の奥で目を細め、スロットルレバーを握り込んだ。
「貯金(高度)は十分だ。狩りの時間と行こうか」
旧式機に乗った未来のゴーストが、大日本帝国海軍の誇るエースたちを『絶望』へと叩き落とすための急降下を開始した。
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