EP 10
新しい空
大分海軍航空隊基地の上空。
抜けるような青空と、眼下に広がる白い雲海。その間を縫うように、五機の零式艦上戦闘機二一型が編隊を組んで飛行していた。
高度三千メートル。操縦桿を握るのは、黒田飛曹長をはじめとする歴戦のエースパイロットたちである。
「各機、油断するな。教官殿は旧式の九六戦(九六式艦上戦闘機)とはいえ、地上であれほどの身のこなしを見せた男だ。必ずどこかに潜んでいるぞ」
黒田が伝声管越しに僚機へ警戒を促す。
だが、彼らの胸中にあるのは「負けるはずがない」という絶対的な自信だった。
九六戦は、零戦の一世代前の機体だ。最高時速、上昇力、旋回性能、すべてにおいて零戦が圧倒的に凌駕している。さらにこちらは五機、相手は単機。おまけに「格闘戦(巴戦)は仕掛けない」というハンデまで与えられている。
もしこれで負けるようなことがあれば、空の男として腹を切らねばならないほどの屈辱だ。
「黒田小隊長! 上です! 上方より敵機(教官機)急降下してきます!」
僚機の悲鳴に近い報告に、黒田は風防から上空を見上げた。
太陽を背にして、一機の九六戦が猛烈な速度で突っ込んでくるのが見えた。高度差はおよそ一千メートル。坂上は高度四千メートルの「圧倒的な位置エネルギー(貯金)」を持った状態から、一気に「速度(現金)」へと変換して襲い掛かってきたのだ。
「来たか! 各機、散開して回避! そのまま下から突き上げて、ケツを取れ!」
黒田の指示で、五機の零戦が花開くように散開する。
彼らの意図は明確だった。急降下してきた相手を躱し、相手が引き起こし(機首上げ)で減速したところを、自慢の旋回性能で一気に背後へ回り込む。伝統的な格闘戦への誘い込みである。
だが、坂上の動きは彼らの常識の範疇にはなかった。
猛烈な風切り音を立てて急降下してきた九六戦は、散開して回避しようとした零戦の一番外側の機体(五番機)に対し、凄まじい精度で機首をピタリと合わせた。
北辰一刀流で鍛え抜かれた坂上の「異常な動体視力」と、現代のジェット戦闘機で培った「三次元的な空間把握能力」が、旧式機の挙動を完全に支配していた。
「もらった」
坂上は操縦桿のトリガーを引いた。
当然、実弾は出ない。代わりに搭載された写真銃が、標的を完全に照準器のど真ん中に捉えた瞬間を連続撮影した。実戦であれば、この一瞬の交差で五番機は空中分解している。
「なっ……速い!」
「深追いしてくるぞ! 旋回して迎え撃て!」
撃墜判定を受けた五番機以外の四機が、一斉に機体を傾けて急旋回に入る。零戦の十八番である、水平方向の鋭いターンだ。
だが、坂上はその「誘い」には一切乗らなかった。
「誰が付き合うかよ」
坂上は攻撃直後、一切の旋回を行わず、機首を真っ直ぐ上へと引き上げた。
急降下で得た時速五百キロ近い猛烈な運動エネルギーを、今度は再び高度(位置エネルギー)へと変換するための「急上昇」である。
九六戦の機体が、重力に逆らって天高く駆け上がっていく。
「逃がすかッ! 追え!」
黒田たちは機首を上げ、坂上の九六戦を追おうとした。
だが、ここで黒田たちは「絶望的な物理法則」に直面した。
急旋回で迎撃しようとした彼らの零戦は、空気抵抗によって著しく速度を失っていた。速度(現金)がない状態で、坂上と同じように高度(貯金)を稼ごうとしても、機体は重力に負けてすぐに失速してしまうのだ。
「くそっ! 届かない……!」
黒田の零戦は、坂上の九六戦の遥か下層で機首をグラつかせ、失速を防ぐために機首を下げざるを得なかった。
一方の坂上は、悠々と元の高度四千メートル付近まで駆け上がり、機体を反転させて再び下方の黒田たちを見下ろしていた。
これが、一撃離脱戦法。
エネルギー機動理論の神髄である。
「旋回」というエネルギーの無駄遣いをした時点で、黒田たちは坂上と同じ土俵(高度)に立つ権利を永遠に失ったのだ。
「さて、次はどいつだ」
坂上は再びスロットルを押し込み、急降下を開始した。
そこからは、まさに一方的な虐殺だった。
零戦隊は何度坂上を旋回戦に引きずり込もうとしても、坂上は決して水平方向の格闘戦に付き合わず、高高度から弾(写真)をばら撒いては、再び届かない高みへと逃げ去っていく。
二機、三機と、写真銃に捉えられた僚機が離脱していく。
残されたのは、黒田小隊長の乗る一機のみとなった。
「馬鹿な……。機体性能は圧倒的にこちらが上のはずだ! なぜ、ケツを取れない!? なぜ、追いつけないんだ!」
風防の中で、黒田は滝のような汗を流しながら絶叫した。
彼らが絶対と信じていた「巴戦」の無力さ。
どんなに小回りが利こうと、どんなに熟練の腕があろうと、相手が「その円の中に入ってこない」のであれば何の意味もない。教官の言っていた『エネルギーの破産』という言葉の意味を、黒田は骨の髄まで理解させられていた。
相手は無限に貯金を下ろして襲い掛かってくるのに、自分はただ地面を這いつくばって回避することしかできない。圧倒的な「戦術の差」だった。
(このままでは、ただの的だ! ならば……!)
黒田は決死の覚悟で操縦桿を握り直した。
次に坂上が上方から突っ込んでくるタイミングを見計らい、旋回で逃げるのではなく、真っ直ぐに機首を跳ね上げて「ヘッドオン(正面向かい討ち)」を仕掛けたのだ。
お互いの相対速度が時速一千キロに迫る、度胸試しのチキンレース。
相打ち覚悟の、大和魂の意地だった。
「……良い度胸だ。だが、動きが直線的すぎる」
坂上は風防越しに迫り来る黒田の零戦を見据えながら、ふっと笑った。
剣術において、相打ち(相抜け)を狙う相手の太刀筋ほど、読みやすいものはない。
坂上は衝突のコンマ数秒前、操縦桿を僅かに倒してスリップ(横滑り)を打った。黒田の照準からふっと機体をズラし、そのまま黒田の機体の真横をすり抜ける。
「なにッ!?」
黒田が驚愕して首を巡らせた時には、すでに勝負は決していた。
すり抜けた直後、坂上はスロットルを絞ってラダーを強烈に蹴り込み、九六戦の機体を信じられないような鋭角で反転させた。エネルギーを保持した状態からの、完璧なヨーヨー機動。
黒田の零戦が引き起こしで速度を失い、空中で無防備に止まったその背後に、坂上の九六戦がピタリと張り付いた。
逃げ場はない。完全にロックオンされた状態。
『……チェックメイトだ。黒田飛曹長』
坂上の声が、風に乗って聞こえたような気がした。
黒田は、操縦桿から静かに手を離し、深く、深く息を吐き出した。
完全なる敗北。手も足も出ない、完膚なきまでの敗北だった。
◆
大分基地の駐機場。
模擬空戦を終えて着陸した五機の零戦から、パイロットたちが降りてきた。
彼らの飛行服は冷や汗でぐっしょりと濡れ、まるで幽霊でも見たかのように虚ろな目をしていた。誰も言葉を発することができない。
そこへ、旧式の九六戦から降り立った坂上が、軍服の埃を払いながらゆっくりと歩いてきた。
「……全員、揃っているな」
坂上の声に、五人のエースたちは弾かれたように背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとった。
昨日までの反発や慢心は、彼らの目から完全に消え去っていた。そこにあるのは、圧倒的な強者に対する畏敬と、自らの無知を恥じる真摯な眼差しだけだった。
「教官殿……」
黒田が一歩前に出ると、深く、九十度に腰を折って頭を下げた。
「我々の完敗です。……機体の性能差など、空戦の勝敗には関係なかった。あなたの仰った通り、我々の戦い方はただの時代遅れの曲芸でした。井の中の蛙だった我々を、どうかお許しください」
「頭を上げろ、黒田」
坂上は胸ポケットからコーヒー飴を取り出すと、黒田の胸元にポンと投げ渡した。
黒田が慌ててそれを受け取る。
「勘違いするな。お前たちの操縦技術そのものは、間違いなく世界最高峰だ。俺の急降下からの射撃を紙一重で躱した反射神経、あれは素人にできる芸当じゃない。ただ……『ソフト(戦術)』が古かっただけだ」
坂上は、全員の顔をゆっくりと見回した。
「アメリカは工業力に物を言わせて、これから何千、何万という新型機を戦場に投入してくる。お前たちがどんなに優れた大和魂を持っていようと、巴戦で一機ずつ相手をしていれば、いずれ必ず物量に押し潰されて死ぬ」
坂上の脳裏に、かつてスマホで見た「特攻隊」の悲惨な映像がよぎる。
優秀なパイロットたちを消耗し尽くし、最後には素人に毛が生えた若者たちを、爆弾を抱えた機体ごと敵艦に突っ込ませる狂気の戦術。
目の前にいるこの男たちを、あんな無駄死にの道具にさせてたまるか。
「俺が教えるのは、死んで華と散るための美学じゃない。敵を圧倒的な理不尽で叩きのめし、絶対に生き残って基地に帰ってくるための『徹底的な合理主義』だ」
坂上は右手をスッと差し出した。
「今日、この瞬間から、お前たちの古い翼はへし折る。これより貴様らは、未来の空戦術を体現する帝国海軍の非公式独立部隊……『ゴースト中隊』だ。俺についてこれるか」
黒田は渡されたコーヒー飴を強く握りしめ、目を真っ赤に充血させながら、力強く敬礼した。
他のパイロットたちも、それに続く。
「はッ! 命に代えましても! 教官殿の征く空が、我々の空です!」
「よろしい。なら、明日から地獄のブートキャンプを始める。覚悟しておけ」
坂上はそう言うと、真鍮のライターを取り出し、親指で蓋を弾いた。
――カチンッ。
その小気味よい音が、新しい空の歴史が始まった合図だった。
未来のパイロットと、時代遅れのエースたち。彼らが真の意味で一つの部隊となったこの日、南方のソロモン海域では、米軍による大規模な反攻作戦の足音が、すぐそこまで迫っていた。
海軍上層部への根回し、技術の底上げ、そしてパイロットの意識改革。
坂上真一が蒔いた種は、着実に芽を吹き始めている。
だが、彼が本当に戦うべき最大の敵は、アメリカ軍ではない。精神論と玉砕を美徳とし、自国民の命をすり潰すことに何の躊躇いも持たない「日本陸軍の狂気」であった。
「……さて。ソロモン(地獄)の蓋が開く前に、もうひと仕事、片付けておくか」
坂上ははるか南方の空を見つめながら、静かに闘志を燃やした。
読んでいただきありがとうございます。
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