EP 8
時代遅れの曲芸
1942年6月下旬。大分海軍航空隊基地。
肌を刺すような強い夏の日差しが照りつける滑走路には、大日本帝国海軍が誇る主力戦闘機・零式艦上戦闘機(零戦)がズラリと並んでいた。
その基地の一角にある広大な講堂に、数十名の男たちが集められていた。
彼らは皆、真珠湾攻撃や先日のミッドウェー海戦を生き抜き、あるいはラバウルなどの最前線で激戦をくぐり抜けてきた、海軍航空隊のエースパイロットたちだった。
胸に輝く徽章、日焼けした精悍な顔つき、そして全身から発せられる「空の猛者」としての絶対的な自信とプライド。
彼らは突如としてこの大分に集められ、「連合艦隊司令長官直々の肝煎りで、新型の空戦術を教える特務教官が来る」とだけ知らされていた。
「……おい、聞いたか。今度来る教官殿は、大尉だそうだが、どこの航空隊の出身だか誰も知らねえらしいぞ」
「落下傘(天下り)の石頭じゃねえだろうな。俺たち前線の空を知らねえ机上の空論野郎なら、いくら長官の特命でもお引き取り願うぜ」
腕に覚えのある搭乗員たちが、ヒソヒソと、しかし好戦的な笑みを浮かべて囁き合う。彼らにとって、空戦とは鍛え抜かれた己の腕と、愛機である零戦の圧倒的な旋回性能で敵の背後を取り、一撃で撃ち落とす「巴戦」こそが絶対の真理だった。
大和魂と己の腕。それこそが彼らの誇りである。
バンッ!
不意に講堂の扉が開き、一人の男が入ってきた。
ざわめきがピタリと止む。
入ってきたのは、仕立て下ろしの海軍大尉の軍服を着崩した、長身の青年だった。年齢は三十手前。しかし、その足取りには軍人特有の堅苦しさが一切なく、まるでジャングルを歩く肉食獣のような、音のない滑らかな歩き方だった。
青年――坂上真一は、並み居るエースたちの突き刺さるような視線を完全に無視して教壇に上がると、黒板にチョークで大きく四つの文字を書き殴った。
『一撃離脱』
チョークを放り投げ、坂上はエースたちに向き直った。
「今日からお前たちの教官を務める、特務大尉の坂上だ」
低く、よく通る声。敬礼も挨拶もない、あまりにもフランクな自己紹介に、古参の搭乗員たちが眉をひそめる。
坂上はポケットからコーヒー飴を取り出し、包み紙を剥がして口に放り込んだ。
「単刀直入に言う。お前たちがこれまで信じてきた、零戦の旋回性能に頼った格闘戦……いわゆる『巴戦』は、今日この瞬間からすべて禁止する。あれはただの時代遅れの曲芸だ」
講堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
それは、彼らの誇り、彼らが命を懸けて磨き上げてきた技術、そして零戦という名機そのものを全否定する暴言だった。
「……教官殿。今、なんと言われましたか」
最前列に座っていた一人の男が、ドスの効いた声で立ち上がった。
黒田飛曹長。中国戦線からの古参であり、すでに十機以上の敵機を撃墜しているエース中のエースだ。その顔には、隠しきれない怒りの筋が浮かんでいる。
「曲芸、と言ったんだ」
坂上は怯むことなく、冷徹に言い放つ。
「旋回すればするほど、機体の運動エネルギー(速度)は死ぬ。お前たちの戦い方は、空中でブレーキを踏みながら、相手と刃物を突き合わせているようなものだ。……今はまだ、アメリカのパイロットが未熟だからそれで勝てているだけだ。だが、あいつらも馬鹿じゃない。いずれ、絶対に零戦と旋回戦をやめ、速度と装甲を活かした戦法に切り替えてくる」
「笑わせないでいただきたい!」
黒田が机を叩いた。
「米軍のグラマンなど、豚のように重いだけの鉄の塊です! 我が零戦の敵ではありません! 背後を取られようと、大和魂と鍛え抜いた腕で瞬時に宙返りし、敵のケツを食いちぎる。それが我々、帝国海軍航空隊の誇りです!」
「誇りで弾が弾けるのか?」
坂上の氷のような声が、講堂に響く。
「零戦には、防弾鋼板もなければ、燃料タンクの自動消火装置もない。一発でも被弾すれば、マッチ箱のように燃え上がる『紙の飛行機』だ。お前たちがいくら神業の回避を見せようと、敵が二機一組で連携し、お前たちの旋回の死角から十字砲火を浴びせきたらどうする? ……燃えて落ちるだけだ」
坂上が語っているのは、史実において米軍が編み出した対零戦戦術『サッチ・ウィーブ』のことであった。
いずれ必ず直面する、零戦の墓標となる戦術。
だが、まだそれを経験していないエースたちにとって、坂上の言葉はただの臆病者の妄言にしか聞こえなかった。
「ふざけるなッ! 貴様、どこの空を飛んできたか知らんが、俺たちを舐めるのも大概にしろ!」
「そうだ! 一撃離脱などという、逃げ腰の臆病な戦法で敵が落とせるか!」
「そもそも貴様、敵機を何機落としたことがあるんだ!」
講堂全体から、怒号と野次が爆発した。
無理もない。彼らは命を懸けて戦ってきた自負がある。どこから来たかも分からない若造に「お前たちの戦い方は間違っている」と言われて、素直に頷くような腑抜けはここにはいない。
(……まあ、そうなるわな)
坂上は口の中で飴を転がしながら、小さくため息をついた。
言葉で論破したところで、このプライドの塊のような男たちが納得するはずがない。空の男は、実力で分からせるしかないのだ。
坂上は胸ポケットに手を入れ、愛用の真鍮ライターを取り出した。
――カチンッ。
硬質な金属音が、怒号の飛び交う講堂に異様に響き渡った。
その瞬間、坂上の全身から、尋常ではない『殺気』が膨れ上がった。
北辰一刀流免許皆伝。真剣での斬り合いに等しい、研ぎ澄まされた死線の気配。
空という死地に身を置くエースパイロットたちの本能が、教壇に立つ男が発する「ただならぬ気迫」を察知し、条件反射的に黙り込んだ。
「……ピーピー喚くな。お前らがガッツのある馬鹿だということは、よく分かった」
坂上はライターをポケットに仕舞い、黒田を見据えた。
「言葉で理解できない筋肉ダルマどもには、体で教えるのが一番手っ取り早い。……おい、黒田と言ったな」
「……は、はい」
「ここは航空隊の基地だ。当然、剣術の道場くらいあるだろうな」
「剣術……?」
予想外の言葉に、黒田が戸惑う。
「ああ。空に上がる前に、まずは地上でお前らの『慢心』をへし折ってやる。全員、道場に集まれ。俺一人で、お前ら全員の相手をしてやる」
坂上は軍服の襟を少し緩めると、獰猛な、しかしどこか楽しそうな笑みを浮かべた。
それは、合理主義と現代戦術の塊である彼が、唯一持ち合わせている「時代錯誤なまでの武闘派」の一面だった。
「木刀でも、竹刀でも、何でも持ってこい。……大和魂とやらがどれほどのものか、俺に見せてみろ」
未来のトップガンと、大日本帝国海軍の誇るエースパイロットたち。
彼らの真の『対話』が、いよいよ幕を開けようとしていた。
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