EP 4
沈黙と預言
空母『赤城』の艦内、第一航空艦隊の作戦室は、重苦しい沈黙と不快な湿気に包まれていた。
南洋の刺すような日差しに熱された鉄の箱の中は、蒸し風呂のように暑い。周囲を取り囲む海軍将校たちの額には玉の汗が浮かんでいたが、それは単なる気温のせいだけではなかった。
部屋の中央に置かれた長机。その片側に、南雲忠一長官と源田実航空参謀をはじめとする第一航空艦隊の幕僚たちが並んでいる。
彼らの視線の先、対面の席にただ一人腰を下ろしているのは、数十分前に漆黒の超音速機(F-35B)から降り立った青年――坂上真一だった。
彼は銃を構えた数名の陸戦隊員に背後を囲まれながらも、微塵の緊張も見せていない。それどころか、漆黒のGスーツのポケットから無造作に『コーヒー飴』を取り出すと、包み紙を剥がして口に放り込んだ。コロコロと飴を転がす音が、静まり返った作戦室に異様に響く。
「……尋問を始めるぞ、大尉」
張り詰めた空気を切り裂くように、源田実が低く鋭い声を発した。
「貴様は先ほど、甲板で『我々の暗号は米軍に筒抜けだ』と言い放った。あれはどういう意味だ。我が大日本帝国海軍の暗号(海軍暗号書D、通称JN-25)は、数学的に解読不可能な絶対の機密だ。それを筒抜けなどと……適当なハッタリを抜かすなよ」
「ハッタリじゃない。事実だ」
坂上は背もたれに深く寄りかかり、手の中にある真鍮のオイルライターを弄りながら答えた。嘘をつくのが絶望的に下手な坂上にとって、事実を淡々と述べることこそが最大の防御であり、攻撃だった。
「あんたらの暗号は、とうの昔にハワイの米海軍情報局(暗号解読班)に丸裸にされている。今回のミッドウェー攻略作戦も、艦隊の編成から出撃のタイミングまで、すべて向こうのデスクの上で把握されていたんだ」
「馬鹿なッ! でたらめを言うな!」
血の気の多い幕僚の一人が机を叩いて立ち上がった。
「我々の作戦目標であるミッドウェーは、暗号電文上では『AF』と秘匿されている! 米軍がそれを知る由もない!」
「だから、その『AF』がミッドウェー島だということも、とうにバレていると言っているんだ」
坂上の静かな、だが断言する声に、幕僚が言葉を詰まらせる。
「一ヶ月前、米軍はわざと平文(暗号化しない通信)で罠を仕掛けた。『ミッドウェー基地の造水施設が故障し、真水が不足している』とな。それを傍受したあんたらの通信所は、ご丁寧にこう報告してやったはずだ。『AF、真水不足』と」
その瞬間、作戦室の空気が完全に凍りついた。
南雲と源田の顔色から、一瞬にして血の気が引く。それは、ごく一部の司令部中枢しか知り得ない極秘情報であり、坂上の言う通り、確かにその通りの電文のやり取りが存在したからだ。
「……そ、それは……」
「これで米軍は、『AF=ミッドウェー』であると完全に確信した。だからこそ、本来ならこの海域にいるはずのない米空母三隻が、あんたらの到着を待ち伏せしていたんだよ。俺があの爆撃機の群れを散らさなければ、今頃あんたらは海の底だ」
ぐうの音も出ない正論。歴史の事実という絶対的な暴力。
古き良き精神論と大和魂を重んじる海軍将校たちにとって、自らの足元が根底から崩れ去るような宣告だった。
しかし、それでも長年エリートとして生きてきた彼らのプライドが、目の前の奇妙な青年の言葉を完全に受け入れることを拒絶していた。
「……信じられん。仮に暗号の件が事実だったとして、貴様のような正体不明の男を信用できるか。どこかの特務機関だか知らんが、貴様が米国の間諜であり、我々を混乱させるために巧妙な嘘をついている可能性もある」
「まだ疑うか」
坂上は小さくため息をつき、左手首にはめられた漆黒のスマートウォッチに視線を落とした。
GPSはロストしているが、内部のローカルデータには、事前にダウンロードしてあった太平洋戦争の詳細な戦史データと時刻表が克明に記録されている。
「10時35分……。これ以上、無駄話に付き合っている暇はないぞ」
坂上は、親指で真鍮ライターの蓋を弾いた。
――カチンッ。
その硬質な音が鳴った瞬間、坂上の瞳の温度が急激に下がった。北辰一刀流の免許皆伝が放つ、抜き身の日本刀のような冷徹な殺気。作戦室の空気が物理的に重くなり、立っていた幕僚たちが思わず息を呑んで後ずさる。
「預言をしてやる。いや、俺が持つ『情報網』が弾き出した確固たる事実だ」
坂上は南雲の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「俺が先ほど甲板を潰したのは、米空母エンタープライズとヨークタウンの二隻だ。だが、米軍にはまだ無傷の空母『ホーネット』が残っている。加えて、この海域には米潜水艦がうろついている」
「なっ……」
「今からちょうど五分後。10時40分。方位〇〇、距離〇〇の海域に、米軍の潜水艦『ノーチラス』が潜望鏡を上げる。さらに、ミッドウェー基地から飛び立った生き残りの米軍攻撃機部隊が、高度三千から、右舷方向に向けて接近してくるはずだ」
あまりにも具体的すぎる宣告。
明日の天気どころか、数分後の敵の正確な位置と戦力を断言する坂上に対し、源田は眉間を深く寄せて唸った。
「……それが外れたら、どうするつもりだ。間諜として即座に銃殺だぞ」
「外れるわけがない。もし当たっていたら、俺の指示通りに艦隊を動かせ。さもなければ、今度こそこの艦隊は全滅する」
坂上は飴をガリッと噛み砕き、腕を組んだ。
それからの五分間は、作戦室にいる全員にとって永遠にも等しい時間だった。誰も口を開かず、ただ柱時計の秒針が進む音だけが室内に響き渡る。
南雲は祈るように目を閉じ、源田は険しい表情で何度も時計と坂上の顔を交互に睨みつけた。
そして、運命の10時40分。
作戦室の扉が、バンッ!と乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、顔面を蒼白にさせた通信参謀だった。
「ほ、報告します! 見張員より入電! 方位〇〇、距離〇〇にて、敵潜水艦の潜望鏡を発見! 我が艦隊に向けて魚雷発射の兆候あり! さらに、右舷方向上空、高度三千より、敵機接近中! 数は十数機!」
作戦室の空気が、完全に静まり返った。
報告に上がった数字、方角、敵の正体。そのすべてが、たった今、目の前に座る青年が口にした言葉と『一寸の狂いもなく』一致していたのだ。
幕僚たちの顔から、今度こそ完全に血の気が引いた。彼らは恐怖すら入り混じった目で、坂上を凝視する。これは情報戦などというチャチなレベルではない。まるで未来を見てきたかのような、神のごとき全知全能の力。
「……長官」
静寂を破ったのは、他でもない坂上だった。
彼はゆっくりと立ち上がり、包囲する陸戦隊員の銃を意にも介さず、南雲の前に歩み寄った。
「預言通りだ。俺は味方だと言ったはずだぜ。……迎撃の指示を出せ。あんたらの誇る零戦隊なら、場所さえ分かっていれば落とせる相手だろうが」
南雲忠一は、震える唇を噛み締め、深く、深く頷いた。
大日本帝国海軍が、正体不明の「幽霊」に完全に屈服し、その知略に命を預けた瞬間だった。
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