EP 2
神様の土下座と、作戦権の強奪
ラバウル航空基地、陸軍合同司令部。
そこは、張り詰めた殺気と、隠しようのない敗北の臭いに満ちていた。
一木支隊の壊滅的敗退。九百名の突撃部隊のうち、生還したのはわずか百名足らず。海岸を埋め尽くした彼らの遺体は、まさに辻政信が説いた「皇軍の必勝信念」が無残に打ち砕かれた物理的証拠だった。
司令室の長机には、一木支隊の生存者が持っていた軍籍札が山のように積み上げられている。泥と血で汚れたそれらは、持ち主の人生の重みを語るかのように、鈍い光を放っていた。
「……これが、お前の言う『神の如き作戦』の成果か、辻中佐」
静かな、だが怒気を内包した坂上真一の声が、部屋の空気を振動させた。
坂上は、ゴースト中隊の飛行服のまま、泥のついた軍靴で司令室へと踏み入った。彼の後ろには、空戦を終えたばかりの黒田飛曹長をはじめとする中隊のパイロットたちが、獲物を狙う猛禽類のような目で陸軍の将校たちを威圧している。
辻政信は、机の上のドッグタグの山から目を逸らし、ひきつった笑みを浮かべた。
「……戦には犠牲がつきものだ。彼らは帝国の礎として、潔く散った。貴様らのような腰抜けには理解できまい。我々は、次なる突撃隊を編成し、再びイル河口を攻略する。今度は、もっと多くの兵を投入すれば……」
「まだやる気か」
坂上は、辻の言葉を遮った。
彼は懐から真鍮のライターを取り出し、親指で弾く。
――カチンッ。
その硬質な音が、司令室にいた全員の心臓を跳ねさせた。
坂上は辻の正面まで歩み寄ると、山のように積まれたドッグタグを鷲掴みにし、その中の一つを辻の顔面に叩きつけた。
「これは、イル河口で死んだ兵士のドッグタグだ。こいつらはな、お前が地図の上で動かした『駒』じゃねえ。家族がいて、故郷があって、飯を食って笑う人間だったんだよ」
坂上の声は怒鳴り声ではない。氷のように冷たく、低い声だ。
「精神論で腹が膨れるか? 大和魂で敵の機関銃が止まるか? 答えは『ノー』だ。昨夜、俺たちが救った兵士たちの口から聞いたぞ。奴らは突撃直前まで、腹を空かせ、喉を乾かし、そして『なぜ自分たちが死ななきゃいけないのか』を自問していたとよ!」
「貴様ッ! 海軍風情が陸軍の作戦に口を挟むな! この作戦は、大本営の決定だ!」
辻が軍刀の柄に手をかけた。周囲の陸軍将校たちも、坂上たちを排除しようと一斉に武器へと手を伸ばす。
一触即発。司令室内の湿度が、極限まで上昇する。
だが、坂上は一切動じない。
彼は軍刀を抜こうとする辻の手首を、目にも留まらぬ速さで掴み上げ、反対の手で辻の頸動脈を圧迫した。
「ぐ、がッ……!?」
辻の顔色が、瞬時に紫色へと変わる。坂上の体術は、相手の反撃を完全に封じ込める北辰一刀流の極意に基づいていた。辻が抵抗すればするほど、呼吸は困難になり、意識が遠のいていく。
「あんたの『神様』という肩書きは、海軍の前ではただのゴミだ」
坂上は、ポケットから一枚の書類を取り出した。
山本五十六長官の署名と、連合艦隊司令長官の極印が押された『全権委任状』だ。
「これより、ガダルカナル戦域における陸海軍の作戦指揮権は、全てこの俺が掌握する。貴様ら陸軍の指揮官たちは、前線の指揮から解任だ。大人しく内地へ帰るか、それとも俺の部下の機銃の標的になりたいか、好きな方を選べ」
辻は必死の形相で首を横に振った。死の恐怖が、彼の傲慢なプライドを根底から打ち砕いていた。
坂上は、弱りきった辻を床に突き飛ばした。
司令室の床に転がった辻は、かつての傲慢さを微塵も残さず、必死に呼吸を整えていた。
「おい、黒田」
「はッ!」
黒田が、腰に吊るした軍刀に手をかけ、一歩前に出る。
その威圧的な姿に、陸軍の将校たちは震え上がり、誰一人として反論する者はいなかった。
「この『作戦の神様』を、至急、兵站基地へと連行しろ。二度と前線に顔を出さないよう、憲兵に引き渡して徹底的に監視させろ。……少しばかり、精神をリハビリさせる必要があるだろうからな」
「了解! 連れて行け!」
水兵たちが辻を乱暴に引き立てていく。
かつて「作戦の神様」と恐れられた男が、ゴミのように引きずられていく光景を、司令室の全員が呆然と見送った。
◆
辻が排除された司令室には、静寂だけが残った。
坂上は荒れた机の上の地図を整理し、改めて全員を見回した。
「いいか。陸海軍の縄張り争いは、今日で終わりだ。明日からガダルカナルは、アメリカ海兵隊を孤立させ、飢えさせ、戦意を喪失させる『監獄』になる」
坂上は、海図の上のガダルカナル島を指差した。
「ゴースト中隊が、空からの補給をすべて叩き落とす。陸軍の無能な突撃は禁止する。これより、我々は島を完全に包囲し、米軍を干上がるまで待つ。……これが、俺の考えた『合理』だ」
陸軍の参謀の一人が、恐る恐る口を開いた。
「し、しかし……食料も弾薬も尽きた米軍が降伏するまで、どれほどの時間が……」
「せいぜい、一ヶ月だ」
坂上は短く言い切った。
「アメリカ兵は、日本兵と違って『生き残る権利』を知っている。勝てないと悟り、補給が断たれたと理解すれば、喜んで白旗を揚げるだろうよ。……あんたらの大和魂みたいな呪いは、奴らにはないからな」
その言葉は、陸軍の参謀たちにとって、これまでの信念を否定されるような衝撃だった。
だが、彼らは、目の前の特務大尉が「現実として」米軍を撃破し、一木支隊の兵士たちを救った事実を否定できない。
「大尉殿……」
最後に残った陸軍の現場指揮官が、坂上の前に進み出た。彼は、軍刀を捧げ持つようにして頭を下げた。
「……我々の作戦は、愚かでした。辻参謀に従ったばかりに、九百名もの命を無駄にしました。我々の指揮権は、あなたに預けます。兵士たちの命を救えるのなら、なんでも従いましょう」
その言葉を聞き、坂上はふっと表情を緩めた。
彼らもまた、辻政信という狂った指導者に振り回された被害者なのだ。
「……分かればいい」
坂上は、机の上にあるドッグタグの山を手に取り、丁寧に袋へと収めた。
「彼らの命を無駄にするな。明日の戦いは、昨日とは違う。敵を殺すための突撃じゃない。敵を追い詰め、生かしたまま降伏させるための『包囲戦』だ。準備をしろ」
司令室を去る坂上の背中に、陸軍の将校たちが敬礼を送る。
軍という巨大なシステムの中で、狂気を排除し、合理的な正気を取り戻していく。
だが、ガダルカナルの戦いは、まだ始まったばかりである。
史実では地獄の果てであった『餓島』が、坂上の介入によって、今度はアメリカ軍にとっての『地獄の蓋』へと反転していく。
「さて……第二の『作戦の神様』、牟田口が来る前に、戦況を完全に固めておかないとな」
坂上は、沈み行くラバウルの夕日を見つめながら、口の中でコーヒー飴を砕いた。
ソロモンの海と空で、日本軍は着実に進化し、アメリカ軍を絶望の淵へと追い詰めていく。
無能な上層部という最大の敵を排除した彼らに、もはや敵は存在しなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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