第三章 ソロモンの悪夢と『作戦の神様』
イル河口の悲劇と空からの鉄槌(CAS)
1942年8月21日、払暁。
ソロモン諸島・ガダルカナル島、イル河口(通称テナル河)。
そこは、凄惨な血の匂いと硝煙に包まれた、文字通りの地獄と化していた。
「衛生兵! 衛生兵はいないかッ!」
「くそっ、撃ってくるぞ! 頭を下げるな、突撃だ! 天皇陛下万歳ァァァッ!」
ドドドドドドドッ!!
ジャングルの暗闇から、無数の火線が放たれた。
アメリカ海兵隊が構築した強固な鉄条網の奥から、M1917水冷式重機関銃と37ミリ対戦車砲の十字砲火が、日本陸軍・一木支隊の歩兵たちを容赦なく薙ぎ払っていく。
大本営から派遣された『作戦の神様』辻政信の指導の下、重火器も持たずに強行上陸した九百名の軽歩兵部隊。彼らは「夜襲をかければ米軍は逃げ散る」という狂信的な精神論に従い、開けた砂州を一直線に突撃したのだ。
結果は、一方的な虐殺だった。
大和魂と銃剣の煌めきは、近代的な火線網の前に紙屑のように引き裂かれた。
夜が明け、太陽が昇り始めた砂州には、数百もの日本兵の死体が累々と横たわっていた。
生き残ったわずかな兵士たちは、波打ち際の僅かな窪地に身を潜め、絶望的な包囲網の中で死を待つことしかできなかった。
「……これまでか。弾もねえ」
泥と血に塗れた若い歩兵が、空の小銃を抱きしめながら空を見上げた。
米軍の迫撃砲の着弾が、徐々に彼らの潜む窪地へと近づいてくる。完全な包囲。あと数分で、アメリカの海兵隊が掃討戦のために押し寄せてくるだろう。
誰もが死を覚悟した、その時だった。
――キュイィィィィンッ!!
突如、上空から空気を切り裂くような、甲高いエンジンの咆哮が響き渡った。
歩兵が反射的に目を細めて見上げると、南の空から、太陽を背にして急降下してくる無数の機影があった。
黒く塗られた、二十機の零式艦上戦闘機。
坂上真一率いる『ゴースト中隊』である。
◆
「……ひでえ有様だ。言わんこっちゃない」
高度二千メートル。零戦の風防越しに眼下のイル河口を見下ろした坂上は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
海岸を埋め尽くす無数のカーキ色の死体。
昨日、ラバウルの司令室で辻政信に警告した通りの、最悪の光景がそこにあった。
「ゴースト1より各機。……下で陸軍の生き残りが、米軍の重砲陣地に包囲されている。これより、近接航空支援(CAS)を開始する」
坂上がクリアな無線で指示を飛ばす。
『CAS……ですか!? しかし教官殿、我々は戦闘機です! 対地攻撃など、本来の任務では……!』
僚機の黒田が戸惑いの声を上げた。
当時の日本軍において、戦闘機はあくまで「空の敵」と戦うためのものであり、地上の歩兵を支援するための精密な対地攻撃(近接航空支援)という概念は、ほとんど存在していなかった。陸軍と海軍の縄張り争いもあり、海軍の戦闘機が陸軍の歩兵を助けるために泥臭い対地攻撃を行うなど、常識外れもいいところだった。
「縄張りだの任務だの、くだらない事を言っている場合か。下で死にかけているのは、同じ国の人間だぞ」
坂上はスロットルを押し込み、機体を急角度で降下させた。
「俺が米軍の機関銃座と対戦車砲の真上に二五〇キロ爆弾を落とす。お前たちはツーマンセルを維持し、俺の爆撃の後に続いて、ジャングルの境界線に二〇ミリ機銃を掃射しろ。味方との距離が近い(デンジャー・クロース)。誤爆だけは絶対に避けるんだ」
『……了解! 教官殿に続けッ!』
黒田たちも即座に覚悟を決め、坂上の機体に続いて猛烈な急降下を開始した。
風切り音が轟音へと変わり、眼下のジャングルが急速に拡大していく。
坂上は、HMDがないアナログな照準器越しでも、未来の戦闘機乗りとしての狂気的な空間把握能力を全開にしていた。
「そこだ……!」
米軍の重機関銃が火を吹いているトーチカ。
坂上は高度五百メートルという、対空砲火の的になりかねない超低空まで突っ込み、機体下部に懸架していた二五〇キロ爆弾の投下レバーを引いた。
身軽になった零戦の機首を強引に引き起こす。
直後、米軍のトーチカに直撃した爆弾が、凄まじい爆炎と土砂を噴き上げた。
ドッガァァァァンッ!!
「な、なんだ!? ジャップのゼロ戦が爆撃してきたぞ!?」
「対空砲火を撃て! 奴らを追い払え!」
突如として頭上から降ってきた鉄槌に、アメリカ海兵隊の陣地は大混乱に陥った。
パニックに陥り、空に向けて機銃を乱射しようとする米軍。しかし、そこに続くように降下してきたゴースト中隊の零戦たちが、容赦のない二〇ミリ機銃の雨を降らせた。
ダダダダダダダダッ!!
ジャングルの木々が薙ぎ倒され、米軍の機関銃座が次々と沈黙していく。
本来、空中戦に特化した零戦の機銃掃射を、これほど統率された連携で、しかも歩兵の鼻先数十メートルの距離で正確に叩き込まれるなど、米軍にとっては予想外の悪夢だった。
ツーマンセルの強みは、対地攻撃においても発揮される。長機が地上を掃射して引き起こした直後、対空機銃がそこを狙おうとすると、すぐ後方から降下してきた僚機が、その対空機銃を正確に潰していくのだ。
「よし、反復攻撃だ。弾を撃ち尽くすまで、海岸線の敵陣地を徹底的に耕せ」
坂上の冷徹な指示に従い、黒い零戦の群れは、まるで死神の輪舞曲のようにイル河口の上空を旋回し、次々と米軍陣地に痛撃を与えていった。
圧倒的な物量と火力を誇っていた米海兵隊も、空からの正確無比な爆撃と銃撃には耐えられず、たまらずジャングルの奥深くへと後退を開始した。
◆
「……助かったのか……?」
波打ち際で頭を抱えていた一木支隊の生存者たちは、信じられない思いで空を見上げていた。
自分たちを包囲し、なぶり殺しにしようとしていた憎き米軍の陣地が、海軍の戦闘機によってズタズタに粉砕されていた。
炎上するジャングル。後退していく米兵たちの背中。
そして上空を、翼を左右に振って(合図を送って)飛び去っていく、黒い零戦の編隊。
「海軍さんだ……海軍の戦闘機が、俺たちを助けてくれたんだ……!」
泥だらけの歩兵たちは、涙で顔をグシャグシャにしながら、遠ざかっていく機影に向かって千切れんばかりに手を振り、小銃を空高く掲げた。
陸軍と海軍の確執など、現場で血を流す兵士たちにとっては関係なかった。彼らはただ、空から舞い降りた絶対の救い(ゴースト)に、心の底から感謝していた。
◆
高度三千メートルまで上昇し、ラバウルへの帰途についたゴースト中隊。
坂上は、操縦桿を握りながら、静かに息を吐き出した。
地上への機銃掃射で弾薬はスッカラカンだ。だが、全機無事に生き残っている。そして、海岸で孤立していた陸軍の兵士たちを、全滅の淵から救い出すことには成功した。
『教官殿。……やりましたね。敵の陣地は完全に沈黙しました。味方の歩兵たちも、退却の時間を稼げたはずです』
無線から聞こえる黒田の声には、空の敵を落とした時とは違う、命を救ったことへの静かな誇りが滲んでいた。
「ああ。よくやった、お前たち。……だが、根本的な問題は何も解決していない」
坂上は風防を少しだけ開け、冷たい上空の風を顔に浴びた。
胸ポケットから真鍮のライターを取り出し、親指で蓋を弾く。
――カチンッ。
金属音が、プロペラの爆音に混じって響いた。
その瞬間、坂上の目に宿ったのは、米軍に対して向けたものよりも遥かに深く、どす黒い『殺意』だった。
「俺たちが救えたのは、ほんの一握りだ。海岸には、無数の日本兵の死体が転がっていた。……あいつらを殺したのは、アメリカの機関銃じゃない。安全な司令部で地図に線を引いていた、味方の『無能』だ」
大和魂で飯が食えると本気で信じている、狂った参謀たち。
彼らから作戦指揮権を完全に強奪しなければ、ガダルカナルは史実通りの『餓島』となり、何万人もの兵士が無駄死にすることになる。
「全機、ラバウルへ帰投する」
坂上は、口の中にコーヒー飴を放り込み、ガリッと噛み砕いた。
「帰ったら、ひと仕事ある。……『神様』の首に、縄を掛けに行くぞ」
陸軍の生存者を救い出した未来のトップガンは、血に塗れたガダルカナルの空を後にした。
次なる標的は、ラバウルの司令室で踏ん反り返る「精神論の権化」辻政信。
日本の命運を分ける、陸軍と特務大尉の『完全決着』の時が、目前に迫っていた。
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