EP 3
神様の土下座と、作戦権の強奪
ニューブリテン島、ラバウル基地。
大本営から派遣された陸軍参謀たちが占拠する作戦司令室は、重苦しい沈黙と、信じがたい報告に対する混乱の坩堝と化していた。
「……馬鹿な。何かの間違いだ! もう一度、前線に通信を繋げッ!」
作戦図が広げられた長机の奥で、辻政信中佐が血走った目で怒鳴り声を上げていた。
彼の手に握られているのは、ガダルカナル島から命からがら打電された緊急の暗号電報である。
そこには、辻自身が強行させた一木支隊九百名による夜襲が完全に頓挫し、米海兵隊の十字砲火を浴びて部隊が『壊滅状態』にあるという、無慈悲な事実が記されていた。
「我が無敵の皇軍が、米軍の陣地一つ抜けずに全滅だと!? 一木支隊長は何をしている! 大和魂を持った兵士が銃剣突撃をかければ、ヤンキーどもなど恐慌をきたして逃げ出すはずなのだ! これは前線の士気不足だ!」
「中佐殿、落ち着いてください。先ほど、海軍の戦闘機隊からの報告で、海岸には無数の味方の死体が……」
「黙れッ! これは海軍が事前に十分な艦砲射撃を行わなかったせいだ! 海軍の非協力的態度が、我が陸軍の精鋭を死に追いやったのだ!」
自らの非論理的な作戦を棚に上げ、前線の兵士の「気合い不足」と「海軍の責任」へと転嫁し始める辻。
その醜悪な責任逃れの言葉が司令室に響き渡った、まさにその時だった。
――バンッ!!
司令室の分厚い扉が、蹴り破られるような勢いで開かれた。
「誰だ!」と振り返った陸軍将校たちが、一様に息を呑んで硬直する。
そこに立っていたのは、出撃時の飛行服(Gスーツ)を身に纏い、硝煙と油、そして微かに『血の匂い』を漂わせた海軍特務大尉――坂上真一だった。
「……海軍の若造が。人の作戦室に無断で押し入るとは、どういう――」
辻が不快感を露わにして立ち上がろうとした瞬間。
坂上は無言のまま大股で机へと歩み寄り、手に握っていた『ジャラジャラと音の鳴る塊』を、作戦図のど真ん中に叩きつけた。
ガチャンッ!
散らばったのは、数十枚の真鍮製の小さな金属板だった。
一つ一つに、兵士の所属と名前が刻まれている。陸軍の『認識票』。
そして、その金属板のほとんどは、赤黒く乾いた血と、ガダルカナルの泥で汚れていた。
「な……これは……」
「俺たちが上空から援護し、なんとか生き残った歩兵たちから預かってきた。……お前が昨日、『精神力で機関銃を突破できる』と抜かして送り出した兵士たちの命の欠片だ」
坂上の声は、怒りという感情すら通り越した、絶対零度の冷たさを帯びていた。
彼は血に染まった認識票を指差し、辻を真っ直ぐに見据えた。
「海岸は死体の山だった。お前が線を引いた地図の通りに突撃し、鉄条網に引っ掛かり、米軍の37ミリ砲でミンチにされた肉片の山だ。……答えろ、『作戦の神様』。大和魂で機関銃の弾は防げたか?」
「き、貴様ァ……ッ!」
「お前の薄っぺらい精神論のせいで、何百人という人間が無駄死にした。あの海岸で死んだ兵士たちに向かって、もう一度『気合いが足りなかったから死んだ』と言ってみろ」
事実と証拠による、徹底的な断罪。
エリート参謀としてのプライドを完膚なきまでにへし折られ、周囲の将校たちの前で面目を潰された辻政信の顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まった。
自己保身と狂信に凝り固まった男が、自らの過ちを認めるはずがない。彼が選んだ行動は、逆ギレによる暴力だった。
「帝国陸軍の作戦を愚弄し、上官を侮辱した罪、万死に値するッ! 貴様のような国賊は、この辻政信が天誅を下してくれるわ!」
辻は狂ったように叫びながら、腰に提げていた軍刀の柄に手をかけ、鯉口を切った。
チャキッ、と鋼の刃が司令室の照明を反射する。
その瞬間だった。
――カチンッ。
坂上が胸ポケットで、真鍮のライターの蓋を弾いた。
硬質な音が鳴った直後、坂上の姿が陸軍将校たちの視界から『消えた』。
「なッ――」
辻が軍刀を抜き放つよりも早く、北辰一刀流・縮地法によって踏み込んだ坂上が、辻の懐に完全に潜り込んでいた。
坂上の左手が、軍刀を抜こうとする辻の右手首を万力のような力で掴み、強烈に捻り上げる。
「ぐ、ぎッ!?」
「軍刀は飾りか? 抜くのが遅すぎる」
手首の関節を極められた辻は、耐えきれずに軍刀を取り落とした。
坂上はその手首を離すことなく、自らの体を反転させ、辻の腕を肩に担ぎ上げるようにして『一本背負い』の要領で投げ飛ばした。
ドガァァァァンッ!!
作戦図が広げられていた長机の中央に、辻の体が猛烈な勢いで叩きつけられた。
机が真っ二つにへし折れ、インク瓶と書類、そして血まみれの認識票が宙を舞う。
肺から空気を完全に吐き出し、「カハッ……!」と白目を剥いて痙攣する辻の胸ぐらを、坂上はさらに掴み上げ、今度は床のコンクリートに叩き伏せた。
そして、その首筋に、冷たく重い軍靴の踵を乗せる。
「う、動くな! 貴様、陸軍に対する反逆だぞ!」
周囲の陸軍将校たちが慌てて拳銃に手をかけるが、坂上は首筋を踏みつけたまま、彼らを一瞥した。
その目に宿る、数十人の特高警察を無傷で制圧した『本物の暴力』の気配に、誰もが一歩も動けなくなる。
「反逆しているのは、前線の現実を見ずに兵を殺し続けるお前らの方だ」
坂上は、軍服の内ポケットから一枚の書類を取り出し、床に叩きつけた。
山本五十六の署名と、海軍の極秘印が押された『特務指令書』である。
「俺は連合艦隊司令長官の全権名代として、ここに宣言する」
坂上のよく通る声が、静まり返った司令室に響き渡った。
「今日この瞬間から、ソロモン海域におけるすべての作戦指揮――特に『補給(兵站)』と『輸送』の決定権は、我々海軍が事実上預かる。お前ら陸軍が今後、ガダルカナルへ一兵卒でも送り込みたいのなら、俺の許可をとれ」
「な、何を馬鹿な……! 陸軍の作戦権を海軍が奪うなど、統帥権の干犯だ!」
「干犯だろうが何だろうが構わん。文句があるなら大本営で山本長官とやり合え。……だが、俺の許可なく勝手に突撃を命じた部隊には、海軍からの輸送船も、上空からの護衛(制空権)も、一切回さない。腹を空かせてジャングルで勝手に死ね」
それは、日本軍の根本的な悪習である「陸海軍のセクショナリズム(派閥争い)」を、山本五十六の権力と坂上の暴力を使って強制的に破壊する、クーデターにも等しい宣言だった。
「お前らが神様気取りで精神論を喚く時代は、昨日で終わったんだよ」
坂上は、足元の辻政信を見下ろした。
作戦の神様と呼ばれた男は、恐怖と屈辱で顔を歪め、床の上で無様に這いつくばっている。
「次からは、俺がこの海域の作戦を『合理』で支配する。米軍を相手にバンザイ突撃はもうさせない。……奴らの圧倒的な物量を、こちらから干上がらせてやる。俺たちのやり方に従え。さもなければ、この場で切腹しろ」
坂上が靴の踵の力を少し強めると、辻は「ひぃっ」と情けない悲鳴を上げて床を掻き毟った。
陸軍の幕僚たちは、誰一人として坂上に反論することができなかった。
最新鋭のレーダー網と、無敵の空戦戦術を持つゴースト中隊。彼らの協力なしに、ガダルカナルの米軍を打ち破ることなど不可能だと、頭の隅では理解していたからだ。
「……分かったら、さっさとこの部屋から出て行け。作戦の練り直しだ」
坂上が足を退けると、辻は転がるようにして立ち上がり、軍刀を拾うと、怨念に満ちた目で坂上を睨みつけた。
「き、貴様……この屈辱、絶対に忘れんぞ……! 大本営に報告し、必ずや陸軍の総意をもって貴様を……!」
「好きにしろ。ただし、次に俺の部下の前でくだらない精神論を吐いたら、お前の頭の上に二五〇キロ爆弾を落としてやる」
逃げるように司令室を去っていく陸軍の将校たち。
嵐の過ぎ去った部屋で、坂上は折れた机の上に散らばった血まみれの認識票を、一つ一つ丁寧に拾い集めた。
(……これで、指揮権の強奪は完了した)
坂上は、拾い集めた認識票をハンカチに包みながら、静かに息を吐き出した。
史実のガダルカナルは、日本軍が補給線を絶たれ、飢えと病で死んでいく『餓島』だった。
だが、坂上が指揮権を握った今、その構図は完全に反転することになる。
彼が次に仕掛けるのは、ゴースト中隊の完全な制空権と、レーダー網を活用した「アメリカ軍への兵糧攻め」。
「……ヤンキーども。お前らに、本物の『餓島』の地獄を味わわせてやる」
未来のトップガンが描く、冷酷で合理的な反撃のシナリオ。
しかし、権力を奪われた陸軍が、このまま黙って引き下がるはずもない。彼らはさらなる狂気――「インパール作戦」の元凶となる男を、ソロモンへと送り込もうとしていた。
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