EP 9
狩りの時間――死角からの幽霊たち
高度四千メートル。南太平洋に広がる抜けるような青空の下を、アメリカ海軍および海兵隊の航空部隊が西へと向かっていた。
F4Fワイルドキャット戦闘機十数機に護衛された、SBDドーントレス急降下爆撃機の編隊。彼らの目標は、日本軍の一大拠点であるラバウル航空基地への奇襲攻撃である。
「……ジャップのレーダーはポンコツだ。こんな真っ昼間でも、俺たちが真上に着くまで気がつきゃしねえよ」
ワイルドキャットの操縦桿を握る米軍パイロットの口元には、余裕の笑みが浮かんでいた。
これまでの戦闘経験から、彼らは日本軍の弱点を正確に把握していた。「日本軍は索敵を目視に頼っているため、高高度からの奇襲に極端に弱い」ということだ。
しかも、今回は雲も少なく、太陽を背にして接近できる絶好のポジションである。ラバウル基地の滑走路に並んだ日本の爆撃機どもを、空から七面鳥のように撃ち落としてやる。パイロットたちの誰もが、そう確信していた。
だが、彼らは知る由もなかった。
自分たちの動きが、すでに百四十キロも手前から、未来の『目』によって完全に捕捉されていたということを。
そして、その頭上のさらに二千メートル上空――高度六千メートルの『死角』で、黒い塗装を施された二十機の零戦が、息を潜めて待ち構えていることを。
◆
ラバウル基地、山頂のCIC(戦闘指揮所)。
薄暗いトーチカの中で、坂上真一はブラウン管の画面(PPIスコープ)に映る二つの光点群を冷徹に見つめていた。
南から接近する米軍機の光点に、上空で待機する『ゴースト中隊』の光点が、完全に重なり合おうとしている。
「……敵編隊、直下を通過中。高度は四千」
坂上は新型無線のマイクを握り、低く、はっきりとした声で指示を出した。
「ゴースト中隊。敵は完全にお前たちの足元だ。高度差二千(エネルギーの圧倒的優位)。一撃離脱の基本通り、太陽を背にして急降下を仕掛けろ。……狩りの時間だ。落としてこい」
『――了解。ゴースト1より各機へ。これより突入する!』
ノイズの一切ないクリアな通信から、黒田飛曹長の鋭い気合いが響く。
◆
「ッ!? なんだ、上から来るぞ!?」
米軍パイロットの一人が絶叫した時、すでに勝負は決していた。
太陽の強烈な光の中から、耳をつんざくような風切り音と共に、二十機の零戦が猛禽類のように降下してきたのだ。
時速六百キロ近い、機体の空中分解すら危ぶまれる猛烈な急降下。
「ば、馬鹿な! ジャップがなぜ我々を待ち伏せている!? レーダーの反応なんて無かったはずだぞ!」
米軍の編隊長がパニックに陥りながら叫ぶが、遅すぎた。
圧倒的な『高度(位置エネルギー)』を『速度(運動エネルギー)』に変換して突っ込んできたゴースト中隊は、米軍の編隊を縦に切り裂くように突入した。
黒田の乗る零戦の二〇ミリ機銃が火を吹き、目標とされたドーントレス爆撃機の主翼が根元からへし折れ、火ダルマとなって海面へと墜落していく。
他の僚機たちも次々と目標を捉え、たった一瞬の交差で、米軍編隊の三分の一が空中で四散した。
「くそッ! 散開しろ! サッチ・ウィーブで迎撃だ!」
生き残ったワイルドキャットのパイロットたちは、訓練通りに機体を左右に交差させ、互いの背後を守り合う『サッチ・ウィーブ』の機動に入った。
史実において、零戦の機動力を封じ込め、無数の日本人パイロットを死に追いやった対零戦の絶対戦術。零戦が背後を取ろうと旋回戦を仕掛けてくれば、交差する僚機がその死角から撃ち落とすという、強力な罠である。
「掛かったな、ジャップ! そのまま旋回して食いついてこい!」
米軍パイロットは、零戦が自分たちの後を追って横滑りしてくることを確信し、照準器を構えた。
だが。
「……え?」
米軍パイロットは、信じられないものを見た。
一撃を加えた零戦隊は、誰一人として旋回戦(巴戦)に付き合わなかったのだ。
彼らは強烈な速度を維持したまま、機首を真っ直ぐ天に向けて跳ね上げ、急上昇に入った。
サッチ・ウィーブは、相手が「水平方向の旋回戦」を挑んでくることを前提とした戦術である。縦(垂直方向)に逃げられれば、重くて上昇力に劣るワイルドキャットでは到底追いつくことができない。
「だ、駄目だ! 届かない! あいつら、まるでドッグファイトをする気がないぞ!」
大分でのブートキャンプで、坂上から徹底的に『一撃離脱』を叩き込まれたゴースト中隊は、かつての古い悪癖を完全に捨て去っていた。
敵の罠には見向きもせず、圧倒的な速度で高高度へと舞い戻り、再び安全な『貯金(位置エネルギー)』を作り出したのだ。
「ゴースト1より各小隊へ。敵は横陣で交差している。ツーマンセルを維持し、上空から十字砲火を浴びせろ!」
『了解!』
黒田の指示が、クリアな無線を通じて全機に共有される。
手信号では絶対に不可能な、空飛ぶ軍隊としての完璧な統率。
再び急降下してきたゴースト中隊は、二機一組の編隊を崩すことなく、交互にワイルドキャットへと襲いかかった。
長機が攻撃を仕掛け、ワイルドキャットがそれを躱して反撃しようと機首を上げた瞬間、その後方上空で待機していた僚機が、死角から正確に二〇ミリ機銃を叩き込む。
「ギャアァァァッ!」
「メーデー! メーデー! こちらブラボー2! 被弾した、脱出する!」
ラバウル上空の空戦は、もはや戦闘ではなく『一方的な屠殺』と化していた。
未来のレーダー技術による完全な待ち伏せ。
エネルギー機動理論による絶対的な位置の優位。
そして、クリアな無線がもたらすツーマンセルの連携。
アメリカ軍が持ち込んだ「物量」と「サッチ・ウィーブ」という新戦術は、坂上が持ち込んだ「八十年先の合理主義」の前に、ただの時代遅れの遊戯として粉砕されていった。
「……教官殿の言った通りだ」
黒田は、操縦桿を握りながら、風防越しに次々と火を噴いて落ちていく米軍機を見下ろした。
これまでの空戦では、常に背後を気にし、視界の限界に怯えながら命を削っていた。だが今は違う。CICの目があり、僚機の援護があり、何より『絶対に負けない物理法則』が自分たちを守っている。
味方の被弾はゼロ。
圧倒的すぎる戦力差に、黒田は武者震いを感じた。
『――こちらCIC。敵機、残り三。完全に戦意を喪失し、南東へ逃走中。追う必要はない、帰投せよ』
坂上の静かな声が、ヘッドセットから聞こえた。
史実の彼らであれば「全機撃墜」の武功を求めて、どこまでも深追いしていただろう。だが、ゴースト中隊の目的は『全員で生きて帰ること』だ。
「ゴースト1了解。深追いはしない。これより全機、ラバウルへ帰投する」
黒田は機体を反転させ、滑走路へと機首を向けた。
空には、彼らが一方的に叩き落とした米軍機の黒煙だけが、墓標のように立ち上っていた。
◆
アメリカ太平洋艦隊、ハワイ真珠湾・真珠湾基地。
ラバウル攻撃隊からの悲痛な無線を傍受した通信室は、パニックに陥っていた。
「……攻撃隊、全滅だと!? 生存機わずか三機!?」
「はい! 生き残ったパイロットの報告によれば、ジャップは我々の接近を完全に予知し、信じられない高度から待ち伏せしていたと! おまけに、ゼロ戦の弱点である格闘戦には一切応じず、組織的な一撃離脱を繰り返してきたそうです!」
報告を聞いた米軍の将校たちは、顔色を青ざめさせた。
日本軍はレーダーを持たない。零戦は旋回性能しか取り柄がない。
その前提が、根底から覆されたのだ。
「まるで……未来の戦術を見ているようだった、と」
「ラバウルの空には、見えない死神がいる……」
この日を境に、アメリカ軍のパイロットたちの間で、ラバウルの空を守る正体不明の部隊に対する恐怖が、病炎のように広がり始めることになる。
◆
一方、ラバウルのCIC(戦闘指揮所)。
坂上真一は、全員無傷で帰還していくゴースト中隊の光点を確認し、ゆっくりとトーチカの壁に背中を預けた。
口の中のコーヒー飴は、すでに小さく溶けかけていた。
「初陣としては、満点だな」
坂上は、満足げに呟いた。
空の制空権は、完全に握った。
レーダー網と新戦術が機能する限り、ガダルカナル周辺の海域に米軍機が近づくことはできない。補給線も絶たれ、孤立するのは米軍の方になるはずだった。
これで、史実の泥沼の消耗戦は避けられる。
そう確信していた坂上のもとに、慌てた様子の通信兵が飛び込んできた。
「と、特務大尉殿! 大本営……陸軍参謀本部より、緊急の暗号電文です!」
「なんだ?」
「が、ガダルカナル島に上陸した米軍を殲滅すべく、陸軍の一木支隊、約九百名が強行上陸を開始! さらに、作戦指導のため、大本営より『作戦の神様』と謳われる参謀が、現地へ向かって飛んだ、とのことです!」
その報告を聞いた瞬間、坂上の表情から余裕が完全に消え失せた。
「……強行上陸、だと? 補給も重火器も持たずに、九百人で、一万以上の米軍が待ち構える陣地に突撃する気か?」
史実における、イル河口の戦い(一木支隊の全滅)。
兵站を無視し、大和魂と夜襲の白兵戦だけで米軍の強固な陣地を抜けると本気で信じていた陸軍の狂気が、坂上の『合理』を無視して勝手に暴走を始めたのだ。
「作戦の神様、ね」
坂上は、胸ポケットの真鍮ライターを強く握りしめた。
大本営から派遣されてくるその男の名を、坂上は未来の知識として知っている。
辻政信。
後にインパール作戦など数々の無謀な作戦を立案し、無数の兵士を死に追いやりながら、自らは戦後を生き延びた『精神論の権化』である。
「……どうやら、海軍の参謀どもを脅しただけじゃ、この国の狂気は止まらないらしいな」
坂上の目に、かつてないほどの冷たく、鋭い殺気が宿った。
空の戦いの裏で、日本軍最大の病理との、本物の死闘が始まろうとしていた。




