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EP 6

海軍の聖域サンクチュアリと、南洋の暗雲

 特高警察が赤坂の洋館から逃げ去ってから一時間後。

 シロタ邸の前に、海軍陸戦隊を乗せた数台の軍用トラックが横付けされた。

 完全武装した屈強な水兵たちが周囲を素早く固める中、坂上真一の先導によって、レオ・シロタと妻のオーギュスティーヌは住み慣れた家を後にした。近隣の住民たちが遠巻きに覗き見していたが、海軍の厳重な護衛を前に誰一人として声を上げる者はいなかった。

 向かった先は、神奈川県・横須賀にある海軍の高級保養施設だった。

 本来は同盟国の駐在武官や、海軍の将官クラスが使用するその海辺のゲストハウスは、特高警察の権力が一切及ばない完全な『海軍の聖域サンクチュアリ』である。

「おお……」

 案内された広い洋室に足を踏み入れた瞬間、レオ・シロタは感嘆の声を漏らした。

 窓からは穏やかな東京湾が一望でき、テーブルには温かいスープと焼きたてのパン、そして新鮮な果物が並べられている。配給制でろくな物を食べていなかった夫妻にとって、それは夢のような光景だった。

 だが、レオの目を何よりも惹きつけたのは、部屋の片隅に置かれた一台のグランドピアノだった。

「触っても、よろしいですか?」

「もちろん。あんたたちのための部屋だ」

 坂上が頷くと、レオは震える手で鍵盤の蓋を開け、そっと指を落とした。

 ポーン、と澄んだ美しい音が部屋に響く。

 特高の監視下で、音を出すことすら「敵性音楽だ」と禁じられていた世界的ピアニストの目に、再び大粒の涙が浮かんだ。彼は妻と抱き合い、海軍が提供してくれたこの絶対的な安全と敬意に、何度も感謝の言葉を口にした。

「大尉殿。……約束の品です」

 食事が終わった後、レオは一通の封筒を坂上に手渡した。

 宛先はアメリカ・カリフォルニア州ミルズ・カレッジ。ベアテ・シロタ宛。

「私たちがいかに日本海軍に救われ、丁重な保護を受けているか。そして、あなた方の中に本気で平和を望む理性的な人々がいることを、娘に宛てて克明に記しました。……どうか、娘に届けてやってください」

「ああ、約束する。スイスの赤十字ルートを使って、必ず彼女の手元に届ける」

 坂上は封筒を受け取り、内ポケットに大切に仕舞い込んだ。

 重さは数グラムの紙切れに過ぎない。しかし、未来の歴史を知る坂上にとって、この手紙は自分の乗ってきたF-35Bにも匹敵する『超兵器』だった。

 戦後、日本の新しい形(憲法の人権条項)を起草し、アメリカ政財界に太いパイプを持つことになるベアテ・シロタ。彼女がこの手紙を受け取った時、アメリカ国内における「日本軍=野蛮な悪魔」という世論の壁に、大きな風穴が開く。

 のちに講和交渉のテーブルへ着くための、最強の外交カード(切り札)が手に入ったのだ。

「あんたたちはここで、美味いものを食ってピアノを弾いていてくれ。退屈かもしれないが、いずれ必ず『マシな時代』が来る。それまで生き延びて、娘さんとの再会を果たすんだ」

「はい。……大尉殿も、どうかご無事で」

 シロタ夫妻の祈るような視線を背に受けながら、坂上は横須賀のゲストハウスを後にした。

 これで、後顧の憂いは断った。

 盤外の政治的な布石は打った。技術的な底上げも進んでいる。

「あとは、戦場でどれだけ『出血』を強要できるか、だな」

 坂上は、南の空を見上げた。

 夏の強烈な日差しが、これから始まる血みどろの激戦を予感させるように、アスファルトをジリジリと焦がしていた。

 ◆

 一九四二年、八月上旬。

 瀬戸内海・柱島泊地に停泊する連合艦隊旗艦、戦艦『大和』の長官公室。

「――アメリカ軍が動いた。ソロモン諸島の『ガダルカナル島』だ」

 連合艦隊司令長官・山本五十六は、机の上に広げられた南太平洋の海図に赤い駒を置きながら、重々しい口調で告げた。

 ソファに腰掛けた坂上真一は、腕を組んで小さく頷く。

「史実通りですね。ミッドウェーで空母を四隻無傷で残したとはいえ、アメリカの基本戦略(オーストラリアとアメリカを繋ぐシーレーンの分断阻止)に変わりはないということか」

「そうだ。奴らは我が軍がガダルカナルに建設中の飛行場を奪取すべく、大規模な上陸作戦を敢行した。現在、現地の守備隊はジャングルに撤退し、苦戦を強いられている」

 ガダルカナル島の戦い。

 それは、史実において日本軍が兵站(補給)を無視した無謀な突撃を繰り返し、数万の将兵が餓死と病死で命を落とした「餓島がとう」の悲劇の始まりである。

 アメリカは圧倒的な物量と火力で日本軍をすり潰し、ここから泥沼の消耗戦へと突入していくのだ。

「長官。俺たち『ゴースト中隊』の出番ですね」

「ああ。貴様らには、最前線であるラバウル基地へ進出してもらう」

 山本は、海図の上の「ラバウル」を指差した。ガダルカナル島から北西へ約千キロ離れた、日本海軍の最重要拠点である。

「呉の技術廠が徹夜で仕上げた『早期警戒レーダー』の第一号機は、すでに輸送船でラバウルに向かわせている。貴様らが鍛え上げた新しい戦術システムと、ノイズのない新型無線機……その真価を、ソロモンの空で証明してこい」

「了解しました。ガダルカナル周辺の制空権は、俺たちが完全に掌握します」

 坂上が立ち上がろうとした時、山本は苦虫を噛み潰したような顔で付け加えた。

「……坂上。空の戦いは貴様に任せる。だが、問題は『地上』だ」

「陸軍、ですか」

「そうだ。ガダルカナル奪還のため、陸軍が大兵力を投入しようと動いている。だが、奴らの作戦計画は、相も変わらず『大和魂での夜襲』と『補給無視の短期決戦』ばかりだ。我々海軍がどれだけ制空権を取ろうと、陸軍が自滅してはソロモンは守りきれん」

「……」

 坂上の目が、スッと細められた。

 ついに来るべき時が来た。アメリカ軍の物量よりも恐ろしい、日本軍の内部に巣食う最大の病理――「精神論」と「命の使い捨て」を至上とする無能な上層部との激突である。

「出撃の前に、明日、ラバウル方面の作戦を協議する陸海軍合同の『兵站会議』が開かれる。貴様も特務大尉として出席しろ」

「俺が出てもいいんですか? 机上の空論を抜かす参謀どもを、物理で黙らせてしまうかもしれませんよ」

「構わん。むしろ、貴様のその『未来の合理主義』で、古臭い頭の連中を徹底的に殴り飛ばしてやってくれ」

 山本はニヤリと笑い、葉巻の煙を吐き出した。

 ◆

 翌朝。

 呉の航空隊基地では、ラバウルへの進出を控えた『ゴースト中隊』の二十名のパイロットたちが、真新しい装備の前に整列していた。

 彼らの背後にある零式艦上戦闘機は、外見こそ変わらないものの、内部の電装系には未来の技術を応用したノイズシールドが施され、コクピットにはクリアな通信を可能にする新型無線機が搭載されている。

「各員、よく聞け」

 坂上は、黒田飛曹長をはじめとする歴戦の部下たちを見回した。

 大分での地獄のブートキャンプを乗り越え、彼らの顔からはかつての「己の腕だけを恃む慢心」は消え失せ、冷徹なシステムの一部として機能する『現代のパイロット』の顔つきになっていた。

「我々はこれより、ソロモン海域・ラバウル基地へ進出する。敵は圧倒的な物量で押し寄せてくるアメリカ軍だ。だが、恐れることはない。我々には未来のレーダーと、絶対の戦術がある」

 坂上は胸ポケットの真鍮ライターを取り出し、親指で蓋を弾いた。

 ――カチンッ。

「ゴースト中隊の勝利条件は、ただ一つ。敵を何機落とそうが関係ない。絶対に死なず、全員で基地へ生還することだ。……準備はいいな!」

「はッ! 我ら幽霊ゴーストに、落とせる敵機はあっても、落とされる命はありません!」

 黒田が力強く応え、全員が一斉に敬礼した。

 空の準備は、完璧に整った。

 だが、彼らがソロモンの空へと飛び立つ前に、坂上は最後の「障害」を排除しなければならない。

 補給を軽視し、兵士に餓死を強要する無能な後方参謀たちとの、怒号飛び交う軍議の時間が迫っていた。

読んでいただきありがとうございます。

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