EP 5
特高警察への「人権教育」
――メキッ、ドガァァンッ!
赤坂のシロタ邸。その重厚な玄関の木扉が、外からの乱暴な蹴りによって無惨に打ち破られた。
土足のまま土間に上がり込んできたのは、十名を超える男たちだった。くたびれた背広に鳥打帽、あるいは国民服という出で立ちだが、その手には警棒や、分厚い革製の拳銃ホルスターが握られている。
内務省・特別高等警察。
帝都における思想統制の尖兵であり、一般市民はおろか、時には軍人ですら「反逆者」として容赦なく連行・拷問する、国家の暗部を担う特権階級の猟犬たちだ。
「おいおい、随分と優雅な昼下がりじゃねえか。スパイの毛唐どもが、海軍の将校殿をたぶらかして密談とはな」
先頭に立つ、蛇のように細い目をした男――特高の木戸警部が、玄関ホールに立つ坂上真一を見て、下劣な笑みを浮かべた。
その背後で、気絶から復帰した先ほどの監視員二名が「警部! こいつです! こいつが我々に暴行を!」と、恨みがましく坂上を指差している。
「器物破損に不法侵入。おまけに土足とは、随分と躾のなってない犬だな。ご主人様の顔が見てみたいぜ」
坂上は、外套を脱いだ海軍大尉の軍服姿のまま、両手をポケットに突っ込んで冷ややかに言い放った。
「吠えるなよ、海軍の若造が。我々は特高警察だぞ。貴様が外の監視員をのしたって報告を聞いて、応援を呼んできたんだ。……奥の部屋から、珈琲の匂いがするなぁ。この非常時に、敵性語を話すスパイどもと贅沢品の横流しか? こりゃあ立派な『非国民』だ。海軍省に連絡して、貴様の軍服を引っ剥がしてやる」
木戸は完全に自分たちが絶対的な強者であると信じ切っていた。
彼らは、相手が軍人であろうと、特高という「国家の恐怖」を前にすれば必ず萎縮すると思い込んでいる。事実、彼らはそうやって無実の市民や知識人たちを弾圧し、己の権力欲を満たしてきたのだ。
「……お前ら、人を連行する前に、相手の素性を確認する癖はついてないのか?」
坂上は呆れたようにため息をつき、ポケットの中で真鍮のライターを握り込んだ。
「素性だと? たかが海軍大尉の分際で偉そうに! ここは戦場じゃねえ、帝都だ! 俺たち内務省の縄張りなんだよ! おい、その裏切り者もろとも、奥の毛唐どもを引っ張ってこい!」
木戸の号令と共に、十数名の特高たちが一斉に警棒を振り上げ、坂上に向かって襲いかかってきた。
狭い玄関ホール。逃げ場はない。
だが、坂上の目には、彼らの動きはまるでスローモーションの「コマ送り」のように見えていた。
――カチンッ。
坂上がポケットの中でライターの蓋を弾いた、硬質な金属音。
それが、未来のトップガンが『戦闘状態』に入った合図だった。
「未来の『人権教育』ってもんを、その体に刻み込んでやる」
坂上の姿が、文字通り『ブレた』。
先頭の男が振り下ろした警棒が空を切り、坂上はすでに男の懐(死角)へと潜り込んでいた。北辰一刀流・縮地法の歩法。
坂上は男の手首を柔らかく掴むと、そのまま手前に引き込みながら、関節の可動域を限界まで捻り上げる『小手返し』を放った。
「ぎゃあっ!」
手首の骨が軋む嫌な音と共に、男は錐揉み回転しながら宙を舞い、後続の特高二人を巻き込んで土間に叩きつけられた。
「な、なんだと!?」
「囲め! 袋叩きにしろ!」
怒号が飛び交う中、坂上は全く焦る様子もなく、軍服の裾を翻して舞うように動いた。
彼の体術には、一切の無駄がない。
右から殴りかかってきた男の腕を流し、その勢いを利用して壁に顔面から激突させる。背後から組み付こうとした男には、振り返ることなく肘打ち(エルボー)を鳩尾に正確に叩き込み、胃袋の中身を吐き出させて沈黙させる。
「くそッ! バケモノかこいつ!」
「動くな! 撃つぞ!」
恐怖に駆られた一人の特高が、ついに懐から十四年式拳銃(南部式)を引き抜き、銃口を坂上に向けた。
至近距離での発砲。
だが、銃口が完全に前を向くよりも速く、坂上は床を蹴っていた。
「発砲の判断が遅い。実戦経験ゼロの素人が」
冷徹な声が特高の耳元で響いた瞬間、坂上の左手が蛇のように伸び、拳銃のシリンダー部分を上から鷲掴みにした。
そのまま強烈な捻りを加え、相手の指をへし折りながら銃を奪い取る。そして流れるような動作で、右手の平を男の顎の先端に軽く打ち上げた。
脳が激しく揺さぶられ、男は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
奪い取った十四年式拳銃を、坂上はまるで玩具でも扱うかのようにカチャカチャと弄る。
弾倉を引き抜き、スライドを引いて薬室内の弾を排莢。一瞬にして無力化された拳銃のパーツを、坂上は床にガラガラと放り捨てた。
「ひっ……!」
開始から、わずか数十秒。
玄関ホールに立っているのは、坂上と、一番後ろで腰を抜かしかけている木戸警部の二人だけになっていた。
残りの十名以上の特高たちは、骨を折られ、関節を外され、あるいは完全に気絶して、床の上で呻き声を上げる肉の塊と化している。
拳銃すらも一瞬で無力化されたという圧倒的な『暴力の差』に、木戸は全身をガタガタと震わせていた。
「どうした。もう終わりか? 権力を笠に着て丸腰の市民をいじめるのは得意でも、殺し合いを仕事にしてる本物の『暴力』の前じゃ、手も足も出ないか」
坂上は、床に転がる特高たちの間を縫うように歩き、木戸の目の前まで迫った。
「き、貴様……自分が何をしたか分かっているのか!? 内務省を……国家を敵に回したんだぞ! ただの海軍大尉で済むと思――」
木戸の震える声は、坂上が内ポケットから取り出し、彼の顔面にバサリと叩きつけた『一枚の書類』によって途切れた。
「俺の素性を確認しろと言ったはずだぜ」
木戸は、顔にへばりついた書類を震える手で剥がし取り、そこに書かれた文面と、最後に押された巨大な『角印』を見た。
――大日本帝国海軍・連合艦隊司令長官、山本五十六。
その署名と、海軍の絶対的な権力を示す桜に錨の極秘印。
「や、やま、もと……長官……!?」
木戸の顔から、完全に血の気が引いた。土気色を通り越し、真っ白になっている。
「文面が読めない馬鹿のために教えてやる。そこにいるシロタ夫妻は、連合艦隊直属の特務機関が保護した『海軍の最高機密に関わる賓客』だ。手出し無用と書かれている」
坂上は、木戸の胸ぐらを鷲掴みにし、軽々と持ち上げた。
「お前らがこれ以上、この夫妻に付き纏い、俺の任務を邪魔するというなら……それは内務省による、大日本帝国海軍・連合艦隊への『宣戦布告』と受け取るが、それでいいか?」
海軍は、帝国におけるもう一つの国家だ。
しかも、ミッドウェーから無傷で帰還し、国民的英雄である山本五十六が直接庇護している相手。そんなものに特高警察が手を出せば、内務省と海軍の全面戦争になる。最悪の場合、木戸一人の独断専行としてトカゲの尻尾切りに遭い、東京湾に沈められるのは目に見えていた。
「あ、あ、ああ……」
木戸の股間から、生温かい液体がツゥーっと垂れ落ち、土間を濡らした。
完全なる恐怖による失禁。彼らが今まで市民に与えてきた理不尽な恐怖を、何十倍にも煮詰めた絶対的強者からの圧に、彼の精神は完全に崩壊していた。
「理解したなら、二度と面を見せるな。その床のゴミどもを担いで、さっさと消えろ。次にこの家の周囲を嗅ぎ回るネズミを見つけたら……海軍陸戦隊の一個大隊を率いて、お前らの警視庁本部を更地にしてやる」
坂上が手を離すと、木戸は腰から崩れ落ち、這いつくばるようにして床の部下たちを叩き起こし始めた。
「お、起きろ! 早く出ろ! 逃げるぞ!」と半狂乱で叫びながら、骨を折られて呻く部下たちを引きずり、蜘蛛の子を散らすように玄関から逃げ出していく。
あっという間に、洋館には再び静寂が戻った。
「……さて」
坂上は軍服の襟を正し、乱れた息を一つ吐くこともなく、奥の応接室へと戻った。
応接室の扉の影では、一部始終を見ていたレオとオーギュスティーヌが、信じられないものを見るような、畏敬の念に満ちた瞳で坂上を見つめていた。
「騒がせてすまなかった。床の掃除は後で部下にやらせる。……珈琲が冷める前に、飲もう」
坂上が何事もなかったかのように微笑むと、シロタ夫妻は深く、本当に深く頭を下げた。
「大尉殿。……あなたと、日本海軍の誠意、しかと受け取りました」
レオ・シロタの目には、もはや一切の疑念はなかった。
この男は、自分たちを守るために、国家の権力機関すらも平然と実力でねじ伏せてみせたのだ。
レオは机に戻ると、万年筆を手に取り、真っ白な便箋に向かった。
はるか海を隔てたアメリカ大陸で、日本の降伏と戦後の再生を憂う娘・ベアテに向けて、真実の言葉を紡ぐために。
(……これでよし。戦後の『切り札』は手に入った)
坂上はソファに座り直し、まだ温かい珈琲を口に含んだ。
帝都の闇を物理で打ち払い、未来への強固な布石を打った未来のトップガン。
彼が次に向かうべきは、いよいよ血と硝煙に塗れた泥沼の戦場――史実において、日本陸軍の狂気と無能さが牙を剥く『ソロモン海域』であった。
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