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EP 4

 ピアニストと珈琲

 赤坂の瀟洒な洋館。その応接室には、重く張り詰めた空気が漂っていた。

 アンティークの家具に囲まれた部屋のソファに、初老の西洋人男性と、青白い顔をした夫人が身を寄せ合うようにして座っている。

 世界的ピアニストであるレオ・シロタと、その妻オーギュスティーヌ。

 彼らの視線の先には、海軍大尉の軍服を着た坂上真一が、長椅子に深く腰を下ろしていた。

『……海軍の将校殿が、私たちのような監視対象の外国人に何の用ですか。それに、どうして娘の居場所を知っているのです』

 レオ・シロタが、妻を庇うように前に出ながら、流暢な日本語で問いかけた。長年日本で教鞭をとってきた彼は、この国の言葉も文化も深く理解している。だからこそ、現在の日本を覆う「狂気」を誰よりも恐れていた。

 特高警察による連日の監視。隣人からの白眼視。そして何より、敵国となったアメリカに取り残されている一人娘、ベアテの安否。

 心労で倒れかけている夫妻に対し、坂上は一切の威圧感を見せず、ただ淡々と口を開いた。

「驚かせてすまない。だが、あんたたちを連行しに来たわけじゃない。特高の連中なら、門の外で少しばかり『お昼寝』をしてもらっている」

「お昼寝、とは……?」

「物理的に黙らせたということだ。まあ、数十分は起き上がってこないだろう」

 坂上の物騒な言葉に、夫妻は息を呑んだ。泣く子も黙る特高警察を、この青年は事もなげに「物理で黙らせた」と言ってのけたのだ。

「ベアテさんのことだったな。……彼女は今、カリフォルニア州のミルズ・カレッジで、無事に学生生活を送っている。迫害も受けていないし、元気だ。ただ、日本に取り残された両親の身を、気が狂うほど心配している」

 坂上が告げたその事実に、オーギュスティーヌの目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 開戦以来、一切の音信が途絶え、生きているかどうかも分からなかった愛娘。その無事を、海軍の軍人がわざわざ伝えに来たのだ。

「オーギュスティーヌ……! おお、神よ……!」

「嘘ではありませんね……? ベアテは、本当に無事なのですね?」

「俺は嘘が下手でね。事実しか言わない」

 坂上は小さく肩をすくめると、持参していた革の鞄から、丁寧に包まれた茶色い紙袋を取り出した。さらに、小さなアルコールランプと携帯用のサイフォン式コーヒーメーカー(海軍の特注品)を机の上に並べる。

「軍部や特高は、外国人をスパイだと決めつけて弾圧している。だが、海軍の中には、この戦争が『日本の敗北』で終わることを冷静に理解している連中もいる。俺もその一人だ」

 坂上は手際よくアルコールランプに火を灯し、紙袋を開けた。

 その瞬間、部屋いっぱいに芳醇で深い『香り』が広がった。

「これは……! 珈琲の香り……!」

 レオが驚愕の声を上げた。

 1942年現在、日本国内において本物のコーヒー豆は完全に流通が途絶えていた。一般市民が口にできるのは、大豆やチコリを炒って作った泥水のような「代用コーヒー」のみである。

「山本五十六長官のプライベートストックから、最高級の豆を少しばかり強奪してきた。……まあ、俺からあんたたちへの『賄賂』だと思ってくれ」

 坂上は慣れた手つきでサイフォンにお湯を沸かし、コーヒーを抽出していく。コポコポという小気味よい音と、現代人である坂上にとっては馴染み深いが、この時代の人間にとっては「失われた平和の象徴」とも言える香りが、夫妻の強張った心を急速に解きほぐしていった。

 やがて、二つのアンティークカップに、漆黒の液体が注がれた。

「飲んでくれ。話はそれからだ」

 勧められるままに、レオとオーギュスティーヌは震える手でカップを口に運んだ。

 一口飲んだ瞬間、オーギュスティーヌは顔を覆い、声を出して泣き崩れた。それは恐怖の涙ではない。久しぶりに味わう本物の珈琲の味と、娘の無事を知った安堵、そして何より「人間として扱われた」ことへの強烈な救済の涙だった。

 レオもまた、目を赤くしながら、深く深く珈琲の香りを吸い込んだ。

「……大尉殿。あなたがただの軍人ではないことは分かりました。私たちに、何を求めているのですか」

 レオの問いに、坂上は自身のカップを置き、真っ直ぐに彼を見据えた。

「俺たちは、この泥沼の戦争を一日でも早く終わらせ、アメリカと『マシな条件』で講和を結ぼうと動いている。だが、それにはアメリカ国内の世論を動かすための『強力なカード』が必要になるんだ」

「カード、ですか」

「そうだ」

 坂上は、鞄から一枚の便箋と万年筆を取り出し、机の上に置いた。

「あんたたちには、アメリカのベアテさんに向けて手紙を書いてもらう。……『私たちは日本の特高警察の迫害から、日本海軍の保護下に移され、丁重に扱われている。海軍の穏健派は、本気で平和を望んでいる』とな」

「なっ……!?」

「手紙は、スイスの赤十字を経由して、必ずベアテさんの元へ届ける。彼女の安否は俺が保証する」

 坂上の目は、冷徹な戦略家のそれに切り替わっていた。

 アメリカにいるベアテがこの手紙を受け取れば、彼女は必ず日本海軍(穏健派)に深い恩義を感じるだろう。そして戦後、彼女が日本の新しい形を作る際に、その恩義は必ず『日本の未来にとって有利な形』となって還元される。

 これは、未来からのチート知識を持つ坂上にしか打てない、百年先を見据えた最強の布石だった。

「その代わり、あんたたち夫妻の身の安全は、帝国海軍……連合艦隊司令長官・山本五十六の絶対の権限をもって保証する。特高の連中には、もう指一本触れさせない。明日から、横須賀にある海軍の保養施設に移ってもらう。そこなら、今日のように本物の珈琲も、温かい食事も腹いっぱい食える」

 坂上の提案は、シロタ夫妻にとって断る理由のない、まさに天からの救いの糸だった。

 レオはオーギュスティーヌと顔を見合わせ、深く頷き合った。

「……分かりました。大尉殿、あなたの言葉を信じます。娘に手紙を書きましょう」

「助かる。あんたたちのその手紙が、何百万人という人間の命を救うことになる」

 坂上が安堵の息を吐き、ポケットから真鍮のライターを取り出して「カチン」と蓋を鳴らした、その時だった。

 ――バンッ! バンッ! バンッ!

 突如として、洋館の玄関扉が乱暴に叩き壊されるような音が響いた。

 夫妻がビクッと肩を震わせる。

『開けろッ! 特別高等警察だ! 非国民のシロタ夫妻に、スパイ容疑で家宅捜索令状が出ている! 直ちに開けなければ、扉を打ち破るぞ!』

 外から聞こえてきたのは、怒号と、複数の軍靴の足音だった。

 先ほど坂上が気絶させた監視員が目を覚まし、大部隊を率いて応援を呼んできたのだ。その数は、窓越しに見えるだけでも十名以上。全員が棍棒や拳銃で武装し、完全に殺気立っている。

「た、大尉殿……!」

「心配するな。珈琲が冷める前に終わらせる」

 坂上はゆっくりと立ち上がり、海軍の軍帽を深く被り直した。

「さあ、時代遅れの『人権教育コンプライアンス』の時間だ」

 権力を笠に着て暴れ回る帝都の暗部たちへ向け、未来のトップガンは一切の容赦のない冷徹な足取りで、玄関へと向かっていった。

読んでいただきありがとうございます。

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