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EP 3

 帝都の闇と、未来への布石

 1942年7月。帝都・東京。

 焼け付くようなアスファルトの照り返しと、耳をつんざくような蝉時雨。

 坂上真一が降り立った東京駅の周辺は、彼が知る「八十年後の東京」とは全く異なる、異様な熱気と息苦しさに包まれていた。

 高層ビルもネオンサインもない。代わりに街の至る所に掲げられているのは、「鬼畜米英撃滅」「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」といった、血生臭いスローガンが書かれた垂れ幕ばかりである。

 道行く人々の顔は、連日の「大本営発表による大勝利」の報せに酔いしれる狂熱と、配給制による生活の困窮がもたらす疲労が入り混じった、異様な表情をしていた。

(……これが、戦時中の空気か)

 海軍大尉の軍服の上に、身分を隠すための薄手の外套コートを羽織った坂上は、額の汗を拭いながら街を歩いた。

 街角には、国防婦人会の女性たちが千人針を募り、竹槍訓練に励む子供たちの声が響いている。国民全員が「戦争という名の巨大なシステム」に組み込まれ、少しでもそれに反発する者は「非国民」として社会から抹殺される時代。

 その尖兵として国民に恐れられているのが、内務省の『特別高等警察(特高)』――いわゆる思想警察であった。

 坂上は、外套のポケットの中で真鍮のライターを弄りながら、数日前に柱島泊地で連合艦隊司令長官・山本五十六と交わした会話を思い出していた。

 ◆

『――ピアニスト、だと?』

 長官公室で、山本は葉巻の煙を吐き出しながら、怪訝な顔で坂上を見た。

『ああ。レオ・シロタ。オーストリア出身のユダヤ系ピアニストで、十数年前から日本に住んで教鞭をとっている世界的権威だ。……だが、俺の狙いはそのピアニスト本人じゃない。彼の一人娘だ』

『娘?』

『ベアテ・シロタ。現在、アメリカのカリフォルニアに留学中の女学生だ』

 坂上は、スマホの画面に保存された戦後の歴史資料を表示させた。

『史実では、このベアテという女性は戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民政局員として来日し、日本国憲法の起草に深く関わる。特に「基本的人権」と「男女平等」の条文を書いたのは彼女だ。……アメリカの政財界にも太いパイプを持ち、平和運動の象徴にもなる人物だ』

 山本は、スマホの画面に映る若き女性の写真を見つめ、唸った。

『なるほど。その娘が、我が国の戦後の形を作るというわけか。だが、それが講和とどう繋がる?』

『現在、日本に残されている彼女の両親(シロタ夫妻)は、外国人というだけで特高警察の厳しい監視下に置かれている。いずれ財産を没収され、軽井沢のあばら屋に強制疎開させられて、飢えと寒さで死にかける運命にある』

 坂上は、冷徹な目で山本を見返した。

『もし、俺たちが特高の弾圧から彼らを保護し、海軍の『極秘の賓客』として美味い飯と安全を提供したらどうなる? そして、スイスなどの第三国を経由して、アメリカにいるベアテに「ご両親は日本海軍が丁重に保護している」という手紙を送らせるんだ』

『……! 娘からすれば、我々は命の恩人というわけか!』

 山本がポンと膝を打った。

 アメリカという国は、世論と感情で動く民主主義国家である。

 「日本軍は残虐な悪魔だ」というプロパガンダが流れる中、もし「日本の穏健派(海軍)が、敵国にいる自分の両親を身を挺して守ってくれている」という事実がアメリカの有力者に伝われば、強烈な外交カードになる。

 アメリカ国内の対日感情を和らげ、講和交渉のテーブルに着かせるための、最強の『内通者ロビイスト』を確保できるのだ。

『見事な盤外戦術だ。戦わずして、アメリカの世論を切り崩す布石か』

『史実を知っている未来人チーターだからできる芸当さ。……長官、特高の連中を黙らせるための、あんたの「印籠」を貸してくれ』

 ◆

 そして現在。

 坂上は、東京・赤坂の高級住宅街に足を足を踏み入れていた。

 木造の日本家屋が立ち並ぶ中、ひときわ目を引く瀟洒な洋館。そこが、レオ・シロタ夫妻の住む邸宅である。

 だが、その洋館の周囲には、明らかに周囲の風景から浮いている『不快な影』がへばりついていた。

 電柱の陰や、向かいの路地に立つ、くたびれた背広に鳥打帽姿の男たち。

 特高警察の監視員スパイハンターである。

 彼らはシロタ邸に出入りする者を記録し、隙あらば難癖をつけて連行しようと、蛇のように目を光らせている。ユダヤ系であろうがオーストリア人であろうが、彼らにとっては「怪しい外国人(敵性語を話すスパイ)」でしかないのだ。

「……気持ちの悪い連中だ」

 坂上は小さく吐き捨てると、外套を脱ぎ、海軍大尉の軍装を露わにした。

 そのまま、隠れることもなく堂々とした足取りで、シロタ邸の正門へと向かって真っ直ぐに歩いていく。

「おい、ちょっと待て。海軍さん」

 案の定、特高の刑事二人が行く手を塞ぐように立ち塞がった。

 ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら、懐の手帳(警察手帳)をチラつかせる。

「ここは『要注意外国人』の住処だ。帝国海軍の将校殿が、こんなスパイの巣窟に何の用かな? 不用意な接触は、非国民として疑われる元になるぜ?」

「退け」

 坂上は足を止めることなく、ただ一言だけ、絶対零度の声で命じた。

「……ああん? 軍人だからって偉そうに。俺たち特高はな、内務省の直属で――」

 男が肩を怒らせて坂上の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。

 坂上の右手がブレた。

 北辰一刀流の体術に基づく、瞬きする間もない神速の『当身』。

 男の伸ばした腕の手首を柔らかく掴むと同時に、その関節の可動域を完全にロックし、自身の体重を乗せて前方へと崩す。

「あ、ぎッ……!?」

 男は自分が何をされたかも理解できないまま、顔面からアスファルトに叩きつけられ、無様なカエルのように這いつくばった。手首を極められているため、身動き一つとれない。

「な、貴様ッ! 警察官に暴行を――!」

「声が大きい。近所迷惑だ」

 もう一人の刑事が慌てて懐から拳銃を抜こうとしたが、坂上は極めている男の腕を離すことなく、空いた左足で無造作にもう一人の膝のひかがみを蹴り抜いた。

 カクン、と姿勢が崩れたところに、手刀が後頭部へ静かに振り下ろされる。

 バタリ。

 ものの数秒で、二人の特高警察は一滴の血も流すことなく、完全に無力化されて地面に転がった。

「警察官を名乗るなら、最低限の体術くらい身につけておけ」

 坂上は、気絶した刑事たちをゴミでも見るような目で一瞥すると、何事もなかったかのようにシロタ邸の門を押し開いた。

 玄関の重厚な木扉の前に立ち、真鍮のライターを取り出して「カチン」と蓋を鳴らす。

 その音で微かに残っていた苛立ちを消し去り、静かにインターホン(呼び鈴)を鳴らした。

 しばらくして、内側からカチャリと鍵が外される音がした。

 少しだけ開いた扉の隙間から、青白い顔をした中年の西洋夫人が、怯えたような目で外を覗き込んでいる。ベアテの母親、オーギュスティーヌ・シロタである。

 彼女の目には、軍服を着た坂上の姿が、自分たちを連行しにきた死神のように映っただろう。

「……何の、ご用でしょうか」

 震える声の日本語。

 坂上は軍帽を取り、敵意がないことを示すように両手を少し広げた。そして、彼女の恐怖を解きほぐすために、完璧な発音の英語で、静かに語りかけた。

『安心してください、マダム・シロタ。私はあなた方を連行しに来たのではありません』

 流暢な英語に、オーギュスティーヌが驚きのあまり目を丸くする。

『私は、大日本帝国海軍の特務大尉です。……カリフォルニアのミルズ・カレッジで学んでいる、あなた方の愛娘、ベアテさんからの「無事」の知らせと、最高級のコーヒー豆をお届けに参りました。少しだけ、お時間をいただけますか?』

 その言葉は、連日の監視と迫害で絶望の淵にあった夫妻にとって、暗闇に差し込んだ一条の光だった。

 未来のトップガンによる、歴史の裏側での『最強の外交交渉』が、静かな洋館の中で今、幕を開けようとしていた。

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