第9話 合意という条文
夜が更けても、ハルトはまだ蝋燭の前に座っていた。
芯が爆ぜる小さな音が、静かな部屋に響く。
窓の外では、夜警の足音が一定の間隔で石畳を踏んでいた。
今夜は自分の当番ではない夜なのに、その足音だけで少し肩が強張る。
膝の上に広げた法典は、四条のページで開いたままだった。
紙の繊維が、指先にざらりと触れる。
古い紙の匂いに、わずかに焦げたような蝋の匂いが混ざっていた。
(やっと、ここまで来た)
三条までは、もう何度も読み返していた。
四条以降は、文字が小さく潰れていて、ずっと後回しにしていた場所だ。
異世界文字のはずなのに読めてしまうのは助かるが、目の疲労までは免除されないらしい。
ハルトは目元を擦り、もう一度文字を目で追う。
『勤務の形態を変更するときは、これに先立ち、変更を受ける者との合意を得なければならない。合意なき変更命令は、効力を有しない』
声に出さずに、もう一度読んだ。
今度は、指でなぞりながら確かめるように。
(これだ……これ、ガレオスさんに言ったやつ、そのまま条文になってる)
社労士試験の参考書で読んだ、三十六条の協定の話が頭の奥でちらりと光る。
残業させるには、労使で結んだ協定が必要だという、あの仕組みだ。
似ているというより、骨格がほとんど同じだった。
ハルトは思わず、膝の上の法典を強く握り直す。
(誰だよ、これ書いたの。本当にすごいな)
感心と同時に、悔しさのようなものも湧いた。
こんなに使える条文が、何百年も書庫の隅で埃をかぶっていたなんて。
ろうそくの灯りが、四条のページの上で小さく揺れていた。
ハルトは折り目をつけながら、もう一行、先を読む。
『前項の合意は、関係者の代表を通じて行うことができる』
(代表……これも、地味に大事な話だ)
誰かが個々の声をまとめて持っていく仕組みが、最初から法典に組み込まれている。
今のこの団に、そんな役目を担う者はいない。
リーシャは違う。彼女はハルトの専属で、団全体の代表ではない。
(今すぐには使えなくても、いつか効いてくる気がする)
ハルトは記録帳を取り出し、四条の要点を書き写す。
インクの匂いが、蝋燭の匂いに混じって部屋に広がった。
窓の外、ガレオスの部屋には、今夜もまだ灯りが点いている。
あの灯りが消えるより先に、自分の手元の理屈を固めておきたかった。
(これで、理屈の中身ができた)
ガレオスに見せてもらうと言われた、その理屈の輪郭が、ようやく形になった気がした。
■■■
翌朝、回廊でリーシャを見つけたハルトは、すぐに法典を開いて見せた。
「リーシャさん、見てください。第四条です」
「……第四条、ですか」
リーシャは足を止め、文字を目で追った。
朝の光が、羊皮紙の表面に薄く反射する。
「『合意なき変更命令は、効力を有しない』」
「夜警の増員、これに引っかかると思うんです」
リーシャの獣耳が、わずかに動いた。
「ガレオス様の決定が、無効になる、ということですか」
「無効になるかどうかは、まだわからないです。でも、確かめる価値はあると思ってます」
リーシャは少しの間、黙って文字を見つめていた。
「私には、難しい話です。合意というもの自体、あまり考えたことがなくて」
「考えたことがない、で大丈夫です。これから一緒に考えればいいので」
リーシャは小さく頷き、懐から例の申請書を取り出した。
名前しか書かれていない、あの一枚。
紙の端が、もう何度も握り直されたせいで少し柔らかくなっている。
彼女は持っていた羽根ペンを構え、少しの間、紙の上で止まった。
「今日は、所属だけ、書いてみようと思います」
「所属だけ、ですか」
「正騎士、リーシャ、と」
それだけだった。
だが、名前以外の文字が、初めてその紙に増えた。
ハルトは何も言わず、ただその様子を見ていた。
(小さいけど、ちゃんと進んでる)
焦らせるつもりはなかった。
リーシャのペースで、十分だった。
「四条のこと、ガレオス様には」
「これから、見せに行きます。約束したので」
リーシャの表情に、わずかな緊張が走った。
「私も、ご一緒します」
「いいんですか。また何か言われるかもしれないですけど」
「今度は、隣で聞いておきたいです。聞かずに後で悔やむのは、もうやめようと思っていますので」
その一言だけで、十分だった。
■■■
訓練場の隅、ガレオスは剣の手入れをしていた。
砥石を滑らせる音が、規則的に響いている。
鉄と油の匂いが、風に乗って薄く流れてきた。
「ガレオスさん、理屈、持ってきました」
ガレオスは手を止めず、目だけをこちらに向けた。
「早いな」
「夜警増員の件です。これ、第四条に引っかかると思ってます」
ハルトは法典を開き、四条の文面を示した。
ガレオスは砥石を置き、ようやく顔を上げる。
傷のある頬が、わずかに歪んだ。
「合意なき変更命令は、効力を有しない、か」
「はい。増員のとき、誰とも合意していないので」
「その紙が、本物だという証拠は」
「証拠は、まだないです。でも、廃止された記録もないって、ガレオスさんが言ってましたよね」
ガレオスは黒目をわずかに細めた。
「俺の言葉を、そのまま俺に返してくるとはな」
「都合のいいところだけ使ってるつもりはないです」
「カイルの一件も、忘れたわけじゃないだろう。お前の理屈で、また誰かが噛まれたらどうする」
「だからこそ、ちゃんと話し合って決めたいんです。誰も寝不足のまま見張りに立たなくていいように」
「お前、それで団が守れなくなったら、誰が責任を取る」
「責任は、俺が取ります。でも、それを言い訳に話し合いそのものを避けるのは、別の問題だと思います」
場の空気が、一段冷えた気がした。
リーシャが、半歩だけ前に出る。
「ガレオス様、私からも、お願いです」
「お前まで出てくるか」
「はい。今回だけ、私からも」
ガレオスは、しばらく二人を見比べていた。
やがて、低く息を吐く。
「言葉だけの理屈なら、いくらでも作れる。お前のその条文、実際にやって見せろ」
「やって見せる、というのは」
「夜警の割り当てを、お前の言う合意のやり方で、組み直してみろ。それで本当に回るなら、認めてやる」
「もし、回らなかったら」
「お前の理屈は、それで終わりだ。次からは俺の言うやり方に黙って従え。お前も、リーシャも」
ハルトは一瞬、息を止めた。
(いきなり大きい話になったな)
それでも、ここで引く理由はなかった。
「分かりました。やります」
ガレオスは、フッと短く笑った。
笑っているのに、目はまったく笑っていなかった。
「面白い。期限は、五日だ」
踵を返したガレオスの背中に、ハルトはもう一度声をかける。
「五日で十分です」
本当に十分かどうかは、まだ分からなかった。
それでも、退くわけにはいかなかった。
ガレオスが訓練場を出ていったあと、回廊の柱の陰に、見覚えのある白髪が一瞬だけ見えた。
オルグレンが、また遠目にこちらを眺めている。
声をかける間もなく、その姿は静かに引いていった。
(あの人、今回も見てたのか)
良い刺激、という言葉が、また耳の奥で鳴った。
■■■
資材庫の裏、ハルトはリーシャと並んで壁にもたれていた。
夕方の風が、土埃の匂いを乗せて吹いていく。
「五日って、結構厳しい数字ですよね」
「はい。ガレオス様にしては、まだ甘いほうかと」
「甘いんですか、これで」
「本来なら、即座に却下されても、おかしくない話でしたので」
リーシャの声には、わずかな安堵が混じっていた。
視界の端で、淡くウィンドウが揺れる。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:勇者保護法典 第四条
状態:夜警増員の手続きとの整合、部分的に一致(精度不足のため断定不可)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
精度は、まだ低い。
それでも、輪郭ははっきりと条文の形を取っていた。
(これ、たぶん俺の見立て、そんなに間違ってない)
五日で、夜警の組み直しを合意の形でやり遂げる。
言葉にすると簡単だが、誰の予定も、誰の事情も、これまで誰も聞いてこなかった現場だ。
「リーシャさん、まず誰から話を聞きましょうか」
「カイルから、というのは」
「いいですね。一番きついところにいる人からです」
リーシャは小さく頷いた。
「他の見習いたちにも、順番に聞いていく必要がありますね」
「人数、結構いますよね。五日でちゃんと回れるかな」
「回らなければ、回るやり方を考えるしかないかと」
リーシャの口から出た言葉に、ハルトは少し驚いて顔を上げる。
(……今の言い方、前のリーシャさんじゃないな)
困りながらも、前へ進む言葉になっていた。
記録帳を取り出すハルトの手元を、リーシャが横から覗き込む。
「私も、手伝います。やり方は、まだ分かりませんが」
「やり方なんて、俺もまだ手探りです。一緒に探していきましょう」
夕陽が、訓練場の石畳を橙色に染めていた。
五日後、何が起きるかは、まだ誰にも分からない。
それでも、初めて自分たちの手で、何かを動かせる気がした。
【ひとくち労務コラム】
法典の第四条「合意なき変更命令は無効」という発想は、現実の労働契約法8条に近いものです。労働条件の変更は原則として、労働者と使用者の合意によって行うものとされています。ただし就業規則の変更による場合は、変更に合理性があれば合意がなくても認められることがあり(10条)、線引きは単純ではありません。一方的な変更に心当たりがあるなら、まず就業規則がどう変わったのか確認してみるのも一つの手です。
ハルトが見つけた第四条は、現実の法律と重なる部分もありますが、それだけで現場が動くわけではありません。次話、五日間の期限の中で、ハルトとリーシャは見習いたちへの聞き取りを始めます。




