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第8話 居眠りという罪

正門の夜警表が更新されてから、もう四日が経っていた。


見習いたちの足音が、回廊で少しずつ重くなっている。


擦れる靴音の間隔まで、以前より長くなっていた。


ハルトはそれに気づかないふりをするのが、だんだん難しくなっていた。


食堂の隅、見習い聖騎士のカイルが、スプーンを持ったまま船を漕いでいた。


頭が皿に近づくたび、はっと跳ねて起きる。


それを三回繰り返したところで、ハルトは思わず声をかけた。


「カイルさん、大丈夫ですか」


「……あ、勇者様。すみません、ちょっと」


カイルは慌てて姿勢を直す。


目の下に、薄い青みが滲んでいた。


スプーンを取り落としかけて、慌てて受け止める手つきも鈍い。


「夜警、何巡目でした」


「昨日は、三巡目まで」


「三巡目って、朝方近くまでですよね」


「はい。その後、訓練にも出ましたので」


言葉の端に、隠しきれない疲労が貼りついている。


(これ、完全に労基署案件のラインだ)


現代なら一発で指導が入る働き方を、当然のものとして語っている。


ハルトは内心、奥歯を噛む。


リーシャが、トレイを片手に近づいてきた。


「カイル、また居眠りですか。気をつけなさい」


口調は注意だったが、声には叱る強さがなかった。


むしろ、心配のほうが先に出ている。


「すみません、リーシャ様。ここ数日、どうも目が」


「無理はしないように」


リーシャはそう言って、カイルの肩を軽く叩いた。


その手つきに、以前とは違う柔らかさがあるのを、ハルトは見逃さなかった。


(リーシャさん、変わってきてるな)


小さな変化だが、確かにそこにあった。


食堂を出るカイルの背中を見送りながら、リーシャがぽつりと言う。


「あの子、入団した頃はもっと声が大きかったんです」


「今は」


「ここ数日、ずいぶん小さくなりました」


そのひと言だけで、何が起きているかは十分に伝わってきた。


ハルトは懐から、自分用の記録帳を取り出す。


ここ数日の見習いたちの就寝時刻と起床時刻を、こっそり書き留めていた。


数字にしてみると、平均の睡眠時間は驚くほど少なかった。


(可視化すると、一気に重みが増すんだよな、こういうの)


紙の上の数字は、誰の感情も乗せずに、ただ事実だけを並べてくる。


それが、かえって一番効く。


■■■


その夜、ハルトは予定どおり夜警に加わった。


冷えた石壁が、手のひらに張り付くような感触を伝えてくる。


篝火の匂いと、わずかに湿った夜露の匂いが混ざっていた。


持ち場の隣に立っているのは、カイルとリーシャだった。


「勇者様まで夜警に出る必要、本当にないと思うのですが」


「俺の休息ぶんですから、気にしないでください」


「……変わった休息の取り方ですね」


リーシャの声に、わずかな苦笑が混じる。


カイルが、欠伸を噛み殺すように口元を押さえた。


「お二人は、いつもこんな会話をされているのですか」


「最近は、だいたいこんな感じです」


ハルトは笑って答えながら、夜空を見上げた。


月明かりが、城壁の上に淡く伸びている。


(星まで綺麗に見えるとか、贅沢すぎる労働環境だな)


景色だけは、文句のつけようがない。


「カイルさん、夜警が一巡増えて、一番きついのってどこですか」


「……正直に言うと、増えた一巡そのものより、その前後の段取りが」


カイルは言葉を選ぶように、少し黙った。


「次の日の訓練までの間隔が、前より狭くなった気がします」


「間隔、ですか」


「はい。寝てから次の当番までが、前は半日近くあったんですが」


「今は」


「数えてみたことはないですが……短くなった気はします」


リーシャも、小さく頷いた。


「私も、同じことを感じていました。時間そのものより、繋がり方が窮屈になった感じです」


ハルトの中で、何かが小さく音を立てた。


(これ、時間の長さだけじゃなくて、間隔の話なんだよな)


社労士試験の参考書にあった一文が、頭の奥でちらりと光る。


連続勤務と勤務間の間隔は、別の論点として扱う必要がある。


今すぐ言葉にできるほど、考えはまとまっていなかった。


それでも、何かが引っかかったことだけは確かだった。


夜風が、篝火の煙を斜めに流していく。


カイルが、また小さく欠伸を噛み殺した。


■■■


異変が起きたのは、三巡目の夜警が始まって間もなくのことだった。


城壁の外で、犬の遠吠えのような声が短く響いた。


ハルトはとくに気にせず、隣のカイルに目を向ける。


壁に背をつけたまま、カイルの瞼が完全に落ちていた。


「カイルさん」


肩を叩いても、反応が鈍い。


もう一度、強めに声をかけたところで、ようやく目を開けた。


「……すみません、少しだけ」


言い終わる前に、城壁の下で見回りの鈴が鳴った。


柵の外側、闇の中で何かが動いている。


小柄な野犬の群れが、塀際まで近づいていた。


本来なら、最初の気配でとっくに鈴が鳴っているはずだった。


気づいたのは、別の持ち場の見習いだった。


大事には至らず、火を焚いて追い払うだけで済んだ。


だが、騒ぎは翌朝にはもう団内に伝わっていた。


訓練場に、ガレオスの怒声が響く。


「持ち場で眠るとは、何事だ」


カイルが、頭を下げたまま立っていた。


顔色が、夜よりもさらに青白く見えた。


周りに集まった見習いたちが、誰も声を出さずに見ている。


「申し訳ありません。気が抜けておりました」


「気が抜けた、で済む話か。一歩遅れていれば、誰かが噛まれていたぞ」


「……はい」


「夜警の意味が分かっているのか。お前の覚悟が足りないだけだ」


近くにいた正騎士が、隣の同僚にだけ聞こえる声で漏らした。


「覚悟の問題、で片づけるには、ちょっと無理がある気もするが」


「聞かれたら面倒だ。黙っとけ」


ハルトは、見ていられずに前に出た。


「ガレオスさん、それ、本人の覚悟の問題じゃないと思います」


「ほう」


「カイルさん、ここ数日の夜警と訓練の間隔、相当詰まってます。眠気は、根性で消せるものじゃないです」


「眠気くらい、自分で律するのが騎士だ」


「律する以前に、休む時間そのものが足りてないんです」


視界の端で、淡くウィンドウが揺れた。


◆◆◆スキャン結果◆◆◆


対象:夜警増員の発令手続き


状態:正式な合意記録、確認できません(経験値が不足しています)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


精度はまだ低い。


それでも、輪郭の一部だけは、はっきりと見えた気がした。


「ガレオスさん、この夜警の増員、誰かと話し合って決めたものですか」


「話し合う必要がどこにある。俺が決めたことだ」


「だったら、それが一番の問題だと思います」


場が、一瞬静まった。


ガレオスの目に、初めて苛立ちのようなものが浮かぶ。


「お前の理屈は、いつも俺の決定を疑うところから始まるな」


「疑ってるんじゃないです。確かめてるだけです」


「同じことだ」


ガレオスは、それ以上言葉を継がず、カイルに視線を戻した。


「今夜から、お前は単独での夜警を外す。それまでは、剣の手入れだけしていろ」


処分は、思っていたより軽かった。


それでも、カイルの表情からは、安堵より羞恥のほうが強く見えた。


ガレオスが踵を返す直前、ハルトをちらりと一瞥した。


「次は、人ではなく、お前の理屈そのものを見せてもらうぞ」


その一言だけを残し、訓練場を後にした。


■■■


解散の後、リーシャがカイルの隣に並んで歩いていた。


「カイル、外されたことを、恥ずかしいと思う必要はありません」


「……リーシャ様」


「眠気に勝てなかったのは、あなたの心が弱いからではないです」


リーシャの声は、いつもより少し速かった。


誰かに聞かれることを、あまり気にしていない速さだった。


「私も、似たようなことを、何度も思いました」


カイルが、驚いたように顔を上げる。


「リーシャ様も、ですか」


「はい。それを、誰にも言えませんでしたが」


ハルトは少し離れた位置から、その背中を見ていた。


(リーシャさん、自分から言葉にしてる)


小さな声だったが、確かに自分の意見として発した言葉だった。


以前なら、当たり障りのない労いで終わっていたはずだ。


リーシャがその場を離れたあと、ハルトは資材庫の壁に背を預けた。


夜警表を片手に、もう一度目を落とす。


紙には、増員後の巡回が、相変わらずびっしりと並んでいる。


署名の欄も、合意の記録も、どこにも見当たらない。


(発令の手続きそのものに、何か抜けがある気がする)


ブラックスキャンが拾った輪郭は、まだ言葉にならない。


それでも、確かめる方法はある気がした。


法典の中に、まだ読み切れていない条文が残っていたはずだ。


(あれ、たしか四条以降、ちゃんと読んでなかったな)


夜風が、夜警表の端をぱらりと揺らした。


ガレオスの部屋には、今夜もまだ灯りが点いている。


あの灯りが消えるより先に、自分にできることがある気がした。


記録帳の最後のページに、今日の出来事を一行だけ書き加える。


『三巡目、見習いカイル居眠り。原因、間隔不足の疑い』


インクが乾く前に、紙を丁寧に折り、懐に仕舞った。

【ひとくち労務コラム】


ガレオス様の「気合で律せ」、現実でも上司の口癖としてありがちです。労働基準法36条は、法定時間を超えて働かせる場合、労使協定の締結と届出を義務づけています。一人の判断で一方的に増やせる仕組みではありません。協定があっても上限は原則月45時間までで、特別条項付きでも例外的な上限が設けられています。「決めたのは自分だ」という言葉自体が、本来は手続き違反のサインになり得ます。


カイルの処分は軽く済みましたが、夜警表の手続きには、まだ見えない穴がありそうです。次話、ハルトは法典の続きのページに手を伸ばします。

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