第7話 鎧を脱げない男
正門の篝火が、ひときわ強く爆ぜた。
火花が散って、夜の空に消えていく。
影の先頭が、ようやく光の中に踏み込んできた。
重い金属の音が、一歩ごとに石畳を叩く。
馬の鼻息と、汗と鉄の匂いが混じって流れてくる。
ハルトは思わず息を止めた。
目の前に立つ男は、想像していたよりも一回り大きかった。
鎧の継ぎ目に、無数の傷跡が走っている。
頬にも一本、古い傷が斜めに刻まれていた。
目だけが、やけに静かだった。
「……到着が、早すぎるな」
低く、よく通る声だった。
リーシャが、ハルトの半歩前に進み出る。
「主任騎士ガレオス様、お帰りをお待ちしておりました」
「待っていた、か」
ガレオスの視線が、リーシャを一瞬だけ捉えた。
それから、ゆっくりとハルトに移る。
「お前が、噂の勇者か」
「あ、はい。結城ハルトです」
「噂は耳に入っている。一日丸ごと、仕事を休んだそうだな」
場の空気が、すっと冷えた。
見習いたちが、慌てて目を逸らす。
誰かが小さく唾を飲む音まで聞こえた気がした。
リーシャの獣耳が、ぴんと強張ったまま動かない。
ハルトは内心、身構える。
(……これは、第一声からもう圧が強いやつだ)
前の職場にいた、出張帰りに機嫌の悪い部長を思い出す。
あの空気と、よく似ていた。
「はい、休みました。文書院に申請も出してます」
「申請、か。便利な言葉だ」
ガレオスは鼻を鳴らすように笑った。
笑っているのに、目はまったく笑っていない。
視界の端に、薄くウィンドウが浮かんだ。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ガレオス
状態:解析不能(経験値が不足しています)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(……今のは、何かを誤魔化された感触に近い)
精度が足りず、輪郭すら摘めない。
焦りだけが胸に残る。
ガレオスは、それ以上ハルトを見ずに、見習いたちへ向き直った。
「鎧を脱ぐ前に、ひとつ言っておく」
声が一段低くなる。
「名誉のためなら身を削るのが当然だ。甘えを言うな」
誰も、言葉を返さなかった。
夜風が、篝火の匂いを乗せて吹き抜けていく。
ガレオスの後ろ姿が、宿舎へ向かって歩き出した。
重い足音が、しばらく石畳に響き続けた。
■■■
翌朝、訓練場に全員が招集された。
集まった人数の多さに、ハルトは思わず目を見開く。
見習いから正騎士まで、ほぼ全員が並んでいた。
朝もやの中、剣帯の擦れる音だけが響いている。
冷たい空気が、頬にひりひりと当たった。
ガレオスが、列の前に立った。
鎧の金具が、朝日を硬く跳ね返す。
「俺が留守の間、団がだいぶ緩んだようだな」
低い声が、訓練場の端まで届いた。
「規律のない団に、武勲はない。今日から、訓練量を見直す」
正騎士のひとりが、小さく息を呑む音がした。
隣の見習いが、肘でそっと小突き合っている。
誰も、正面からは反論しなかった。
リーシャの肩が、わずかに強張っているのが見えた。
彼女の手が、ポケットの上をそっと押さえている。
(あの申請書、まだ持ってるんだ)
ガレオスの視線が、ふいにリーシャへ向いた。
「リーシャ、お前はまだ正騎士のままか」
「……はい」
「三年もやって、まだその位置か」
短い言葉だったが、刃のように鋭かった。
リーシャは何も言わず、ただ頭を下げた。
ハルトは、その横顔の強張りに気づく。
(今の一言、地味にダメージ大きいやつだ)
査定の場でこういう一言を平気で言う上司、現代にもいくらでもいた。
「勇者様とやらの世話で、手一杯のようだな」
ガレオスの目が、今度はハルトに向く。
「世話、というか、俺がいろいろ教えてもらってる側です」
「教えてもらう、か。妙な話だ」
ガレオスは、それ以上深く突っ込まなかった。
ただ、最後にもう一度だけ、全体に向けて言い放った。
「今日から、夜警を一巡多くする。文句のある者は、俺の前に出ろ」
誰も出なかった。
解散の直後、年配の正騎士が隣の同僚に小さく漏らした。
「これで、見習いの脱落がまた増えるぞ」
「言うな。聞かれたら、お前の夜警が増える」
回廊の柱の陰に、見覚えのある白髪が一瞬だけ見えた。
オルグレンが、訓練場の様子を遠目に眺めている。
声をかける間もなく、その姿は静かに引いていった。
(あの人、わざわざ見に来てたのか)
良い刺激、という言葉が、また耳の奥で鳴る。
朝もやの中、整列はそのまま静かに解散していった。
■■■
昼過ぎ、ハルトは資材庫の前でガレオスに呼び止められた。
「お前、文書院に何を出した」
「休息日の申請です。あと、勇者保護法典のことも、少し調べてます」
「法典、か。あれは死んだ条文だ」
ガレオスの声に、初めて苦さのようなものが混じった。
「死んでる、っていうのは、廃止されたってことですか」
「……いや」
ガレオスは一瞬、言葉を切った。
「正式に廃止された記録はない。誰も使わないだけだ」
(……ここ、地味に重要な情報だ)
ハルトは内心、メモを取る勢いで頷いた。
「誰も使わないだけなら、今からでも使っていいってことですよね。あれを使う権限って、誰にあるんですか」
「……女王陛下の名で定められたものだ。本来、止める権限など誰にもない」
ガレオスの口調に、わずかな迷いが混じった。
「ただ、長年誰も持ち出さなかった。それだけのことだ」
「使って、どうする」
「団の働き方を、ちゃんと整理したいんです。名誉とか気合じゃなくて、ルールで」
ガレオスは、しばらくハルトを見据えた。
傷のある頬が、わずかに動いた。
「俺はな。前線で、ルールのおかげで助かったことなど一度もない。守ったのは、自分の腕と覚悟だけだ」
「それは、ルールが悪いんじゃなくて、ルールがちゃんと機能してなかったんだと思います」
「屁理屈だな」
「屁理屈でも、確かめてみる価値はあると思います。ガレオスさんの覚悟まで否定する気はないです。ただ、それを他の人にも同じだけ求めるのは、別の話なので」
ガレオスは、しばらく黙っていた。
視界の端で、ウィンドウがまた淡く揺れた。
今度は、文字になる前に消えてしまう。
(また、足りない……)
スキャンは、今日もガレオスの本質まで届かなかった。
ガレオスは、フンと息を吐いて踵を返した。
「お前のその理屈、いつまで保つか見ものだ」
「ありがたいことに、結構頑丈な理屈なんで」
背中で返事をするガレオスに、ハルトは小さく呟く。
足音が遠ざかると、入れ替わるようにリーシャが資材庫の陰から現れた。
「……聞いておりました。すみません」
「全然大丈夫です。むしろ心強いです」
「ガレオス様は、私が見習いの頃の教官でした」
リーシャの声が、少し低くなる。
「あの方の下で、休むという発想自体、消えていったんです」
■■■
夜、ハルトは自室の窓辺で、配られたばかりの夜警表を眺めていた。
通常より一巡多い割り当てが、見習い全員分に刻まれている。
墨の匂いがまだ残る、新しい羊皮紙だった。
扉を叩く音に、顔を上げる。
「リーシャさん、こんな時間に」
「少しだけ、お話ししても」
リーシャは、いつもよりわずかに距離を詰めて立っていた。
手には、あの申請書が見える。
名前しか書かれていない、あの一枚。
「ガレオス様が戻られて、また、書けなくなる気がしています」
「今日は、強く出られてましたもんね」
「あの方の前では、休みたいなんて、口にできる気がしなくて」
ハルトは、しばらく考えてから口を開く。
「リーシャさんが休みたいかどうかと、ガレオスさんがどう思うかは、別の話だと思います」
「別、ですか」
「はい。意欲とか覚悟の話と、ちゃんと休めてるかどうかの話は、本来くっつけちゃいけないんです」
リーシャは、申請書をぎゅっと握り直した。
「……難しいですね。くっつけずに考えるのは」
「俺も、まだ慣れてないです。でも、少しずつ覚えていけばいいと思ってます」
窓の外で、夜警の足音が、いつもより一巡多く通り過ぎていく。
リーシャはしばらくそれを見送ってから、小さく頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ。明日からの夜警、俺も一巡回りますね」
「……それは、休息日の意味が薄れるのでは」
「リーシャさんが心配するの込みで、俺の休息っぽいので」
リーシャは、困ったような、それでも少しだけ柔らかい顔をした。
扉が閉まったあと、ハルトはもう一度夜警表に目を落とす。
ガレオスの名前は、どこにも書かれていない。
それでも、この一枚の紙の重さが、明らかに変わっていた。
(あの人、ルールを否定してるわけじゃない気がする)
ただ、ルールより重いものを、ずっと一人で背負ってきたんだろう。
そのことが、厄介であると同時に、少しだけ気にかかった。
窓の外、ガレオスの部屋にだけ、まだ灯りが点いていた。
(あの灯り、明日も同じ時間まで点いてるんだろうな)
法典を本当に動かすなら、まずあの人をどうにかしないといけない気がする。
そんな予感だけが、やけにはっきりと胸に残った。
【ひとくち労務コラム】
ガレオス様の「甘えるな」、現実の現場でも聞き覚えがある人は多いはず。労働契約法5条は、使用者に労働者の安全への配慮義務を課しています。本人がどれだけ気合や覚悟を見せても、それだけで会社側の配慮義務が消えるわけではありません。ただ配慮義務の具体的な範囲は職種や状況で変わり、線引きが難しい場面も多いのが実情です。「本人の意欲」と「会社の管理責任」は別物だと知っておくと、いざというとき判断の助けになります。
ガレオス様、思った以上に一筋縄ではいかない方でした。次話、夜警増加の現場で最初の軋轢が表面化します。




