第6話 小さな波紋と、近づく足音
朝の鐘が鳴る前に、ハルトは目を覚ました。
体が一段軽い。
たった一日休んだだけで、こんなに違うものかと驚く。
窓の外では、いつもと同じ鳥の声。
パンを焼く匂いも、いつもと変わらない。
それでも、寝台から起き上がる時の体の重さだけが、確かに違っていた。
肩のこわばりが、いつもより一段浅い。
だが、廊下から漏れてくる声の温度だけは、いつもと違っていた。
「聞いたか。勇者様、本当に一日丸ごと休まれたらしいぞ」
「しかも、何の咎めもなかったって話だ」
見習いたちの噂話が、扉の隙間から流れてくる。
ハルトは思わず口元が緩んだ。
(噂って、こんなに速く回るんだな)
食堂に向かう途中、年配の見習い騎士に声をかけられた。
「勇者様。あの、文書院への申請というのは、誰でも出せるものなのでしょうか」
声は小さく、周りを気にするように左右へ目を走らせていた。
「もちろんです。書式も決まってますし、難しいことは何もないです」
「……そうですか」
それだけ言って、見習いは逃げるように去っていった。
だが、その背中はさっきより少し軽く見えた。
小さな前例が、もう一人分、誰かの中で動き始めている。
一方で、廊下の角からは別の声も聞こえてきた。
「たかが一日休んだだけで、いちいち噂になるものか」
正騎士の一人が、苦々しい顔で連れに話している。
「これで皆が同じことを言い出したら、現場が回らなくなる」
ハルトは聞こえないふりをして通り過ぎた。
(……まあ、そう思う人がいるのも、わかる)
変化は誰にとっても都合がいいわけではない。
それでも、止まる理由にはならないはずだった。
食堂を出た先、文書院の掲示板の前に人だかりができていた。
近づくと、真新しい羊皮紙が貼られている。
「名誉聖騎士に関する特例措置は、当該者個人の事情に基づく一時的なものであり、他の団員への適用例とはならない」
妙に硬い言いまわしが、わざわざ選ばれている。
(……はやいな)
昨日の今日でこれが出てくるあたり、向こうもそれなりに焦っているのかもしれない。
視界の端に、薄くウィンドウが浮かんだ。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:特例措置に関する掲示
状態:作成意図に強い誘導性あり(詳細表示には経験値が必要です)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「誘導性、か」
誰が書いたのかまでは分からない。
それでも、慌てて壁を作ろうとしている誰かがいることだけは、確かに伝わってきた。
掲示の前で立ち止まっている見習いたちは、それでも先ほどの噂話を続けていた。
壁を一枚貼ったところで、噂はもう、紙の外まで広がっている。
■■■
午後、リーシャは自室の机に向かっていた。
窓から差し込む光が、羊皮紙の上で揺れている。
ハルトから渡された申請書の雛形を、もう何度も読み返していた。
インクは出してある。
それでも、ペン先はなかなか紙に触れない。
(書くだけのはずなのに)
何度か紙の上に近づけては、結局そのまま離す。
窓の外で、誰かが洗濯物を叩く音が、規則正しく響いていた。
扉を叩く音に、リーシャは慌てて紙を伏せた。
「リーシャさん、昼の差し入れ持ってきました」
ハルトが顔を出すと、リーシャは気まずそうに机の上を手で隠した。
「……見ないでください」
「あ、すみません」
素直に背を向けると、後ろで紙をめくる音が続いた。
かりっとした焼き菓子の包みを机の端に置く。
しばらくして、小さな声がした。
「……書けました」
「もう全部ですか」
「いえ。名前だけです」
振り返ると、リーシャは羊皮紙を両手で持ち上げ、じっと見つめていた。
名前の欄だけ、几帳面な字で「リーシャ」と書かれている。
他の項目は、まだ真っ白だった。
「名前を書くだけで、こんなに時間がかかるとは思いませんでした」
「最初の一文字が一番重いんですよ、たぶん」
ハルトは社労士試験の答案用紙を思い出す。
名前を書く欄でさえ、手が震えた日があった。
「ゆっくりでいいと思います。期限とか、ないので」
「……期限がない、というのも、落ち着かないものですね」
「それも慣れですよ、きっと」
リーシャはもう一度、紙の上の自分の名前を見つめた。
それから、ぽつりと付け加えた。
「母は、こういう紙を一度も書かなかったと思います。書くという発想すら、なかったかもしれません」
ハルトは何も言わずに頷いた。
それ以上、リーシャは続けなかった。
ただ、空いている欄に向かって、もう一度ペンを構える。
インクが、空欄の上にひとつ、小さな点を落とした。
「……次は、休みたい日を書く欄ですね」
「焦らなくていいです。点だけでも、今日は前進ですから」
リーシャは小さく笑い、焼き菓子をひとつつまんだ。
甘さの奥に、ほんの少し塩気が残る味だった。
■■■
夕方、回廊に差し込む光が赤みを帯びてきた頃、宰相オルグレンの姿が見えた。
珍しく、足を止めて掲示板を眺めている。
ハルトに気づくと、いつもの笑みを浮かべた。
「勇者様、ご休息は満足のいくものでしたでしょうか」
「おかげさまで。一日休むだけで、ずいぶん違うんだなって実感しました」
「それは何より。さて、近々また賑やかになりそうですね」
「賑やか、というのは」
「主任騎士ガレオス殿が、前線から戻られます。当初の予定より、少し早まったようです」
オルグレンの口調は、いつもと変わらず滑らかだった。
だが、目の奥にだけ、わずかに違う色が見えた気がした。
「ガレオス殿は、団の規律にことのほか厳しい方でしてね。最近のこの……自由な空気にも、きっと良い刺激を与えてくださるでしょう」
「自由な空気、ですか」
「ええ。物事には、適切な緊張感というものも必要ですから」
「緊張感、ですか。それは、誰のために必要なものですか」
「もちろん、団全体のためです。規律があってこそ、名誉は保たれますから」
言葉の角は、いつも丁寧に削られている。
それでも、削られた後の形だけは、毎回同じところに着地する。
視界の端で、ウィンドウがほんの一瞬だけ揺れた。
だが、文字を結ぶ前に、ぼやけて消えてしまう。
(……今のは、何を映そうとしたんだ)
精度が足りず、何も読み取れなかった。
焦りだけが、胸の奥にざらりと残る。
「勇者様? どうかなさいましたか」
「いえ、何でもないです」
笑顔のまま一礼すると、オルグレンは回廊の向こうへ歩いていった。
衣擦れの音が遠ざかるのを見送りながら、ハルトは妙な寒気を覚えた。
(あの人、ガレオスさんの帰りを待ってたんじゃないか)
良い刺激、という言葉の選び方が、やけに引っかかった。
誰かを使って、誰かを抑える。
そんな構図に、心当たりがないわけではなかった。
かつての職場でも、似たような人事異動を何度か見てきた。
表向きは「適材適所」、実際には「黙らせるための配置」。
あの時の自分には、止める力も、見抜く言葉もなかった。
今は、少しだけ違う。
違うはずだと、自分に言い聞かせるように、もう一度拳を握った。
■■■
その夜、正門の見張りが角笛を短く鳴らした。
いつもの夜警の合図とは、音の長さが違う。
ハルトとリーシャは、思わず足を止めた。
「今のは……」
リーシャの耳が、ぴんと立つ。
「主任騎士の帰還を告げる角笛です。でも、まだ何日か先のはずで」
「予定が早まったって、オルグレンさんが言ってました」
「……早まった、にしても、こんなに急に」
正門に向かって、見習いたちが慌てて走っていく。
篝火に薪をくべる音、剣帯を締め直す音、誰かの怒鳴り声。
さっきまでの静かな団の空気が、一気に張り直された。
「リーシャさん、これ、毎回こんな感じなんですか」
「いえ……これほどの慌てぶりは、初めて見ます」
リーシャの声に、わずかな戸惑いが混じる。
正門の方から、馬の蹄の音と、重い金属の足音が近づいてくる。
篝火の灯りが、門の向こうに長い影を映し出した。
影は一つではない。
複数の足音が、規則正しく石畳を踏んでいる。
炎の照り返しが、先頭の輪郭を一瞬だけ浮かび上がらせた。
鎧のどこかが、橙色の光を硬く跳ね返した。
それだけで、息を呑む気配が周りに広がる。
「ガレオス様って、どういう人なんですか。改めて聞いてもいいですか」
「武勲では、団で一番です。ただ……名誉のためなら、身を削るのが当然だと、本気で考えていらっしゃる方です」
以前と同じ言葉を、リーシャはもう一度繰り返した。
今度は、声の奥にもう一段重いものが乗っている気がした。
リーシャの手が、無意識にポケットの羊皮紙を強く握っていた。
名前しか書かれていなかった申請書が、いつの間にかそこに収まっている。
「リーシャさん、大丈夫ですか」
「……はい。大丈夫、です」
声が、いつもより小さい。
門の鉄柱がきしむ音がして、隙間から夜風が吹き込んでくる。
焚かれたばかりの薪の匂いと、馬の汗の匂いが混じって流れてきた。
影が、一段と大きくなる。
ハルトは、まだ知らないその足音の主を、ただ見つめることしかできなかった。
【ひとくち労務コラム】
「この特例はあなただけのもの」という整理には、実は無理があります。労働基準法が定める基準は、個別の許可や申請の有無に関係なく、原則として全ての労働者に適用される最低基準です(13条)。基準を下回る取り決めがあっても、その部分は無効になります。「特別扱い」として閉じ込めようとする動きそれ自体が、本来の法の趣旨とは逆行しているとも言えます。




