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第5話 休んでも、世界は終わらなかった

約束の朝は、拍子抜けするほど普通に始まった。


鳥の声、パンを焼く匂い、遠くから響く剣戟の音。


いつもと同じ朝のはずなのに、今日だけは違う。


ハルトは寝台の上で大きく伸びをした。


体のあちこちが、いつもより軽い気がする。


「……今日、俺、休みます」


声に出してみると、変に緊張する。


扉を叩く音がしたのは、ちょうどそのときだった。


「勇者様、おはようございます。本日は東の森への同行をお願いしたく」


若い見習い聖騎士が、書類を片手に立っていた。


ハルトが口を開く前に、横からリーシャが進み出た。


「申し訳ございません。本日、勇者様は休息日を取得されております」


「……休息日、ですか?」


見習いは数秒、固まった。


「文書院に申請が出ております。詳しくは事務官にお尋ねください」


リーシャの口調は、いつもより少し硬く、それでもはっきりしていた。


見習いはしばらく立ち尽くしていたが、結局「承知いたしました」と頭を下げて去っていった。


拍子抜けするほど、あっさりとした幕引きだった。


「ありがとうございます、リーシャさん。さっき、ばっちり言ってくれましたね」


「……少し、緊張しました。でも、約束しましたので」


リーシャの耳の先が、心なしか赤く見えた。


朝食を終える頃、また扉が叩かれた。


今度は、配給を管理する文官だった。


「勇者様、本日分の物資割り当てについて、ご確認を」


「申し訳ございません。本日、勇者様は休息日でございます」


リーシャが、さっきより少し落ち着いた声で答える。


文官は手元の帳簿をめくり、しばらく考え込んだ。


「……では、確認は明日に回します」


「ありがとうございます」


たった二回目で、もう言葉に詰まる場面が減っていた。


ハルトはその様子を、少し離れたところから見ていた。


(俺がやってる時より、リーシャさんの方が堂々としてるかもしれない)


誰かのために線を引くのは、自分のために引くより、案外簡単なことなのかもしれない。



■■■


昼前、ハルトは中庭のベンチに座っていた。


木漏れ日が、肌の上でちらちらと動く。


風が運んでくるのは、花と乾いた土の匂い。


こんなに静かな時間が自分にあること自体、まだ実感が薄い。


(これが、休みってやつか)


深夜のオフィスで栄養ドリンクを飲んでいた頃を思い出す。


あのとき、こんな時間が来るとは想像もしていなかった。


通りかかった料理人が、焼いたばかりのパンを差し入れてくれた。


「勇者様が休まれていると聞いて。せっかくだから、温かいうちに」


「……ありがとうございます」


湯気の立つパンを受け取ると、なぜか視界が少し滲んだ。


誰かに「休んでいい」と肯定された気がした。


それだけで、ここまでの数日間の重さが、少しだけ軽くなる。


パンを一口食べる。


小麦の甘さと、表面のかりっとした歯ごたえ。


味わうことに集中できるのも、久しぶりだった。


遠くで、誰かの笑い声が響いた。


鳥が一羽、ベンチの近くに降りてきて、すぐに飛び立っていく。


そんな何気ない光景すら、今日はやけに丁寧に目に映った。


隣に腰掛けたリーシャが、ぽつりと呟く。


「こんなに静かな時間、私もずいぶん久しぶりです」


「リーシャさんも、座ってていいんですか」


「今だけは、よいかと。誰も呼びに来ませんので」


二人で並んで、しばらく何も話さずにいた。


それだけのことが、今日はやけに贅沢に感じられた。


「あの、聞いてもいいですか。勇者様の元の世界では、休む日は決まっていたのですか」


「週に二日くらいですね、本当は。でも、俺の場合は守れてなかったです」


「二日も……それは、想像できません」


「想像できないくらいでいいと思います。それが普通になってほしいので」


リーシャは少し首をかしげ、何かを考えるような顔をした。


「守られていない決まりは、決まりとして意味があるのでしょうか」


「意味はあると思います。少なくとも、おかしいって気づくための基準にはなるので」


「基準、ですか」


「はい。決まりがなかったら、これが普通かどうかすら、考えることもできないので」


リーシャはしばらく黙って、膝の上で手を組んでいた。


それから、小さく、本当に小さく笑った。


「今日は、すこし、その基準というものが、わかった気がします」



■■■


午後、回廊で正騎士のひとりに声をかけられた。


「勇者様、書庫の整理を手伝っていただけますか」


「すみません、今日は休みなので」


「休み……ですか。聞いておりませんが」


「文書院に申請を出してます。詳しくは事務官に聞いてもらえますか」


正騎士は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は食い込んでこなかった。


誰も、はっきりと「だめだ」とは言わない。


ただ、戸惑いながら引いていく。


(前例がないってことは、止める前例もないってことなんだな)


妙な発見に、ハルトは思わず笑ってしまった。


似たような声かけが、その後も二度ほどあった。


一度は、武具の手入れを頼みに来た若い見習い。


もう一度は、隣国からの使者の出迎えに人手が足りないという伝令だった。


そのたびにリーシャが先に立ち、申請の話を持ち出して引き受けていく。


「本日は休息日でございます。お急ぎでなければ、明日以降にお願いできますでしょうか」


回数を重ねるごとに、彼女の言葉は少しずつ滑らかになっていった。


最初は申し訳なさそうだった声が、三度目には、ほとんど揺らがなくなっている。


「リーシャさん、なんか今日、頼もしいですね」


「……からかわないでください」


そう言いつつも、口元はわずかに緩んでいた。


夕方近く、視界の端に薄くウィンドウが浮かんだ。


◆◆◆ステータス◆◆◆


クラス:レイバーコンサルタント(Lv.2)


スキル:ブラックスキャン(精度:低+)


スキル:シフトメイク(未開放)


スキル:ネゴシエイト(未開放)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「……レベル、上がるんだ、これ」


実感の薄い昇格だったが、確かに目の前の文字は、少しだけ輪郭がはっきりして見えた。


何もしていないようで、今日一日も、ちゃんと積み重なっていたらしい。


社労士試験の勉強も、最初は条文の意味すらよくわからなかった。


それでも、一つひとつ事例に当たるうちに、少しずつ輪郭が見えてくるようになった。


あの感覚と、今のこれは、たぶん同じ種類のものだ。


経験は、たとえ小さくても、確実に積み重なる。


そのことを、ステータスという形で見せられるのは、奇妙だがありがたかった。



■■■


夕方、リーシャが少し改まった様子で隣に座った。


「勇者様、本日は、何も問題なく終わりそうです」


「はい、めちゃくちゃ普通の一日でした。何も起きなかったです」


「……そう、なのですね」


リーシャはほっとしたような、それでもまだ落ち着かないような表情を見せた。


「リーシャさんも、今度休んでみませんか」


「私が、ですか」


「はい。一日くらい休んでも、世界は終わらないってことが、今日わかったので」


リーシャは膝の上で手をきつく握り、しばらく黙っていた。


「怖いんです。休んだ分だけ、誰かに迷惑がかかるのではないかと」


「今日、迷惑かかりました?」


「……いいえ。むしろ、皆様、すぐに引いてくださいました」


「それが答えだと思います」


リーシャはもう一度、膝の上の手を見つめた。


「……少し、考えてみます」


小さな声だったが、これまでのような即答での拒絶ではなかった。


ハルトは羊皮紙を一枚取り出し、自分の申請書と同じ書式を書いてやった。


「これ、よかったら使ってください。出すかどうかは、リーシャさんが決めればいいので」


リーシャはその紙を、両手で大切そうに受け取った。


しばらく、文字をなぞるように目で追っていた。


「……ありがとうございます」


声は小さかったが、確かにそう聞こえた。


そのとき、扉の外から伝令らしい足音が近づいてくる。


「失礼します。主任騎士ガレオス様が、間もなく前線よりお戻りになるとのご連絡が」


リーシャの表情が、一瞬で硬くなった。


「……ガレオス様が?」


受け取った羊皮紙を握る手に、わずかに力が入る。


「あの方が戻られると、団の空気が変わります」


その名前を口にしたリーシャの声には、明らかな緊張があった。


「どんな人なんですか、ガレオス様って」


「武勲では、団の中でも一番です。ただ……」


リーシャは言葉を選ぶように、少し間を置いた。


「名誉のためなら、身を削るのが当然だと、本気で考えていらっしゃる方です」


今日一日で積み上げてきたものが、急に心許なく感じられた。


ハルトはまだ知らない、その名前の意味を。

【ひとくち労務コラム】


2019年の法改正で、年 10日以上の年次有給休暇がある労働者には、使用者が年 5日分は確実に取得させる義務が課せられました(労働基準法39杧07項)。「休みを取ってください」と言うだけでなく、実際に取らせるところまでが使用者の義務になっている、というのは意外と知られていない点です。

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