第4話 笑顔という壁
ノックの音は、いつもの召使いのものより乾いていた。
扉を開けると、そこに立っていたのは白髪を丁寧に整えた老人だった。
「おはようございます、勇者様。少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
オルグレンの声は、朝の空気によく似ていた。
柔らかく、冷たくはないが、どこか張り詰めている。
「あ、はい。どうぞ」
部屋に招き入れると、オルグレンは静かに椅子に腰を下ろした。
衣擦れの音すら、計算されたように静かだ。
窓から差し込む朝日が、彼の白髪をわずかに金色に染めている。
「先日、文書院から面白い書類が回ってまいりました」
オルグレンは懐から羊皮紙を取り出す。
ハルトが提出した、あの申請書だった。
端が少し折れているのを見て、ハルトは内心、落ち着かない気持ちになる。
「拝見いたしまして、感心いたしました。勇者様は、ずいぶんと熱心に勤怠を記録されているのですね」
「熱心っていうか、当然のことなので」
「ええ、ええ。素晴らしい姿勢です。これほどまでに己の務めに向き合われる方は、なかなかおりません」
褒め言葉のはずなのに、肝心の話がまったく進まない。
ハルトは内心、嫌な予感がした。
(この感じ、知ってる。質問しても、必ず褒め言葉で返ってくるやつだ)
■■■
「あの、休息日の件、どうなりましたか」
ハルトが踏み込むと、オルグレンは目を細めて微笑んだ。
「もちろん、検討いたしております。ただ……」
「ただ?」
「勇者様の御力は、女神より賜られたもの。我々凡人の規定とは、少し次元が異なるのかもしれません」
「いや、力の話じゃなくて、時間の話なんですけど」
「ええ、わかっております。時間ですら惜しまず尽くしてくださる、その献身こそが勇者様の真の御力なのだと、私は思うのです」
論点が、また少しずれた。
何を言っても、最後には「献身」「名誉」「素晴らしい」のどれかに着地する。
(これだ……これがあの社長の話し方だ)
ハルトの脳裏に、かつての担当先の経営者の顔がよぎる。
「会社のために頑張ってくれているのが嬉しい」と笑顔で言いながら、結局何も変えようとしなかった人。
善意のような言葉で、要求だけが積み重なっていく構造。
あのときも、何度言葉を変えて説明しても、同じ場所に着地させられた。
「俺、別に献身でやってるわけじゃないんです。普通に、休みたいだけで」
「ふふ、勇者様は、ご謙遜なさいますね」
謙遜ではない、と言いたかったが、言葉がうまく出てこなかった。
オルグレンの微笑みには、隙が見当たらない。
「では、提出していただいた勤務記録については、どうお考えですか。三日で五十時間を超えています」
「ほう、よくお気づきになりましたね。さすがは勇者様、ご自身の働きを正確に把握されている」
「いや、把握できてることが問題じゃなくて、その時間の長さが問題で」
「長いからこそ、尊いのです。短い献身に、誰が心を動かされましょうか」
「じゃあ、法典の第三条にある、七日に一度の休息日についてはどうですか。これ、今もまだ生きてる条文ですよね」
「生きている、と申しますか……解釈の余地がある、とでも申しましょうか」
「解釈の余地って、具体的にはどういう」
「勇者様の御身は、すでに女神の祝福により十全に保たれております。であれば、休息という処置自体、不要なのではないか、という考え方もございます」
理屈としては成立しているようで、実際には何も保証していない。
ハルトは、もう何を言っても無駄だという確信に近いものを感じ始めていた。
「最後にもう一つだけ。これ、誰が決裁するんですか。文書院の方は、宰相閣下のところまで上がると言っていましたが」
「ええ、最終的には私の手元に参ります」
「だったら、今ここで決めてもらえませんか」
オルグレンは、初めてわずかに沈黙した。
ほんの一瞬だが、ハルトはその沈黙を見逃さなかった。
「即断するには、あまりに重大な前例となります。慎重に進めさせていただきたく」
■■■
ハルトは机の上に置かれた申請書に視線を落とした。
紙の端が、わずかに黄ばんでいるように見える。
(……気のせいか?)
視界の端で、ブラックスキャンの文字が薄く浮かぶ。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:勇者保護法典(運用記録)
状態:改変の痕跡あり(詳細表示には経験値が必要です)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
心臓が、小さく跳ねた。
改変の痕跡。
誰かが、かつてこの法典に手を加えたということだろうか。
もしそうなら、いつ、誰が、何のために。
「勇者様? どうかなさいましたか」
オルグレンの声に、ハルトは慌てて顔を上げた。
「いえ、なんでもないです。ちょっと考え事を」
「そうですか。お疲れであれば、なおさら休息が必要ということになりますね」
言葉だけ聞けば、ようやく前向きな返事に思える。
だが、その言い回しのどこにも、具体的な約束は含まれていなかった。
「では、本日のところはこれで失礼いたします。お返事は、また後日」
オルグレンは羊皮紙を丁寧に折りたたみ、懐に戻した。
持って帰られてしまった。
結局、休めるかどうかの返事は、何ひとつ得られていない。
「あの、いつ頃お返事いただけますか」
「しかるべき時に、しかるべき形で」
それ以上は、何も答えてもらえなかった。
オルグレンは深く一礼すると、静かに部屋を出ていった。
足音すら、最後まで乱れることはなかった。
■■■
オルグレンの足音が遠ざかってから、ハルトはリーシャを伴って、団の書庫に向かった。
普段使われている棚は、団の規則や式典の記録が中心で、整理は行き届いている。
「改変の痕跡、って出たんですよね。だったら、過去に法典を扱った記録が、どこかに残ってるかもしれないので」
「……探してみます」
リーシャは慣れた様子で棚を順に確認していく。
埃をかぶった台帳をいくつか開けると、古い人事記録や式典の議事録が並んでいた。
「これ、見てください」
リーシャが指さしたページには、短い一文があった。
『勇者保護法典の運用について、評議会にて再検討。以後、実務上の扱いは保留とする』
日付は、ひどく古い。
署名の欄には、インクが薄くなって判読できない名前があった。
「保留、って書いてあるだけで、廃止とは書いてないですね」
「はい。廃止の記録は、見当たりません」
「つまり今も、法律としては生きてるってことですよね」
「……そのように、読めます」
ハルトは台帳をそっと閉じた。
誰が、いつ、どんな思惑でこれを「保留」にしたのか。
それはまだ、ぼんやりとした輪郭しか見えてこない。
それでも、足がかりは見つかった。
■■■
オルグレンが去った後、リーシャが静かに部屋に入ってきた。
「……お話、聞いておりました。申し訳ありません、立ち聞きするつもりはなかったのですが」
「いや、別にいいです。むしろ聞いてもらえてよかった」
ハルトは椅子に深く座り直し、天井を見上げた。
「あの感じ、たぶん永遠に『検討します』で終わりますよ。返事を引き延ばすこと自体が、向こうにとっては答えなんです」
「……そう、なのかもしれません」
リーシャは膝の上で両手を重ね、しばらく黒髪に隠れた耳の先をぴくりと動かした。
「だったら、もう聞かなくていいかなって思いました」
「聞かない、とは」
「許可を待たずに、休みます。法典はまだ廃止されてない。それなら、使う権利はもう俺にあるはずなので」
リーシャの目が、わずかに見開かれた。
「それは……勇者様のお立場上、危険かもしれません」
「危険かもしれないけど、誰かが最初にやらないと、誰も後に続けないですよね」
言いながら、自分でも驚くくらい、声が落ち着いていた。
「リーシャさんのお母様も、誰かが最初に声を上げてくれたら、違ったかもしれないですよね」
リーシャは小さく息を呑んだが、何も言わなかった。
ただ、目を伏せて、もう一度頷いた。
「書庫で見つけた記録、覚えてますか。保留にした人物の名前」
「……判読できませんでした」
「俺もです。でも、いつか分かる気がします」
窓の外で、夜警の鈴の音が遠く響いた。
規則正しい足音が、城壁の上を巡っている。
「俺、こっちに来てから、誰かを困らせたいわけじゃないんです。ただ、まずは自分の分から、ちゃんと筋を通したいだけで」
「筋を通す、ですか」
「法律も制度も、誰かが実際に使わないと意味がないので。まずは俺が、最初の一人になろうと思って」
リーシャは少し長く、ハルトの顔を見つめた。
「三日後、俺は休みます」
ろうそくの灯りの中で、リーシャはしばらく何も言わなかった。
ただ、その目には、戸惑いとは違う何かが浮かんでいるように見えた。
「……その日、私もできることがあれば、お手伝いします」
小さな声だったが、確かにそう言った。
【ひとくち労務コラム】
「検討します」と言われ続けて垢が明かない、というのは現実でもよくある話です。実際の制度では、労働基準監督署に申告すれば、立入調査(臨検監督)や是正勧告という強制力のある手段が用意されています。企業の自主的な対応を待つだけでなく、外部に動いてもらう選択肢があることも、記憶しておいて損はないです。




