第3話 前例がございません
窓の外で、鳥の声が響いている。
聞き慣れない鳥のさえずりだが、声の調子はやけに陽気だった。
ハルトは寝台に座り込み、羊皮紙の切れ端を何枚も並べていた。
切れ端には、自分なりの記号で書き込んだ数字が並んでいる。
正の字を書くスペースもないので、棒線を四本ずつまとめて引いてある。
昨夜決めた通り、自分の勤務時間を記録し始めて三日が経っていた。
「……一日目、十六時間。二日目、十八時間。三日目は……」
数えながら、声がわずかに震えた。
寒さのせいではない。
「これ、三日で五十時間超えてるじゃん」
労働基準法の感覚で言えば、もう赤信号どころの話ではない。
週四十時間の上限を、三日で軽く突破している。
(三十六協定があったとしても、これは確実に違法レベルだ)
ハルトは羊皮紙を握りしめたまま、ふっと笑ってしまった。
笑うところではないのに、笑ってしまう。
異世界に来て一番驚いたのは、ドラゴンでも魔法でもなく、自分の勤務実態の数字だった。
内訳を見れば、笑えない理由もよくわかる。
魔獣討伐の現場待機が六時間、外交儀礰の準備が四時間、その後の書類仕事が深夜まで。
どれも「名誉あるお役目」の一言で積み上がっていったものだ。
(誰かに見せたら、絶対に労基署案件って言われる)
かつて研修で教わった、相談者の最初の一言を思い出す。
「これって、おかしいですよね」、その一言から始まる相談がいくつもあった。
自分がその立場になるとは、思ってもいなかった。
「……よし。今日、出す」
声に出すと、覚悟が少しだけ固まった気がした。
ハルトは羊皮紙の束を丁寧に重ね、上着の内側にしまい込んだ。
それから、別の紙を取り出し、申請書の文面を考え始める。
社労士試験のために何度も書いた、ありもしない事例の答案を思い出しながら、慎重に言葉を選んでいった。
■■■
廊下でリーシャを見つけたのは、洗濯物ではなく書類の束を抱えているときだった。
「リーシャさん、おはようございます。ちょっと聞きたいんですけど」
「はい、なんでしょう」
「休暇とか、休みの申請って、どこに出せばいいんですか」
リーシャはぱちぱちと瞬きをした。
何を言われたのか、一瞬わからなかったらしい。
「……申請、ですか」
「はい。書類で出すやつです。これくらいの紙に、理由とか期間とか書いて」
ハルトは身振りで紙のサイズを示す。
リーシャは困ったように視線を巡らせた。
「申し訳ありません。私自身、そういったものを出した経験がないので……」
「経験がないって、リーシャさんだけじゃなく、団全体でってことですか」
「おそらく、そうかと思います。これまで、必要だと考えた者がいなかったのではないでしょうか」
あっさりとした答えに、ハルトは小さくため息をついた。
そもそも需要がない申請窓口など、存在するはずがない。
「リーシャさんは、休みたいって思ったことないんですか」
「……思ったことがないわけでは、ないと思います」
リーシャは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「ただ、それを口にする場面を、見たことがありませんでした。皆様、当然のように働いておられましたので」
「皆がやってるから、自分もやるしかない、みたいな感じですか」
「そう、なのかもしれません」
それは、ハルトが現代でも何度も見てきた構造だった。
誰も最初に声を上げないから、誰も声を上げられない。
「とりあえず、書類を扱ってるところに行ってみます。どこですか」
「文書院でしたら、北の塔の一階にございます」
「ありがとうございます。一緒に来てもらってもいいですか。心強いので」
「……はい、もちろんです」
リーシャの返事は、わずかに硬かった。
洗濯物を抱える代わりに、彼女の手は今、書類の角をきつく握っている。
北の塔の一階は、古い紙とインクの匂いが染みついていた。
羽根ペンの音だけが、規則正しく室内に響いている。
壁際には、誰のものかわからない書類の山がいくつも積まれていた。
受付に座っていた中年の事務官は、ハルトの話を聞くと、ペンを止めた。
「休息……申請、でございますか」
「はい。法典の第一条と第三条に基づいて」
「法典、と申しますと」
「勇者保護法典です。ご存知ないですか」
「存じません。そういったものを扱う様式は、こちらにはございません」
「様式がなければ、自分で書いたものでもいいですか」
事務官は眉を寄せ、しばらく黙り込んだ。
背後の席にいた若い書記が、ちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らした。
「……前例がございません」
その一言が、やけに重く室内に響いた。
■■■
「前例がないなら、今日作ればいいですよね」
ハルトは持参した羊皮紙を取り出した。
そこには、自分なりに整えた文面が書かれている。
『勇者保護法典第一条、第三条に基づき、休息日の取得を申請いたします。直近の勤務記録を添付いたします』
記録には、三日間分の作業時間の集計が並んでいる。
事務官はそれを覗き込み、数字を見て小さく息を呑んだ。
「これは……本当に、この時間お働きになったのですか」
「はい、噓じゃないです。むしろ、これでも控えめに書いてます」
「……お預かりします。ただ、これがどこに渡るのか、私にも正直よくわかりません」
「どこに渡るんですか、普通は」
「規定では、上位の決裁者に回すことになっておりますが、休息に関する申請自体が初めてのことですので、適切な宛先が定まっておりません」
「上位の決裁者って」
事務官は声を落とした。
「最終的には、宰相閣下のところまで上がるかと存じます」
リーシャの肩が、わずかに跳ねたのをハルトは見た。
視界の端で、ブラックスキャンの文字がぼんやりと浮かぶ。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:申請書の決裁フロー
状態:決裁者不明(経験値不足のため詳細非表示)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
精度が低いせいで、肝心なところがやっぱり見えない。
それでもハルトは、書類を事務官に手渡した。
「お願いします」
「……承知いたしました。お時間がかかることをご了承ください」
「どれくらいかかりそうですか」
「過去に例がございませんので、見当もつきません」
正直すぎる返答に、ハルトは思わず笑ってしまった。
ふと、机の上に積まれた未処理の書類の山が目に入る。
「あの、ついでに聞きたいんですけど。こういう申請、これからも誰かが出すかもしれないですよね」
「……可能性としては、否定できません」
「だったら、雛形作っておきませんか。書式があれば、次からはこんなに時間かからないと思うので」
事務官は虚を衝かれたような顔をした。
「雛形、を……勇者様が、お作りになると?」
「俺、こういう書類作るの、元の仕事でしたから」
半信半疑のまま、事務官はもう一枚の羊皮紙を差し出した。
ハルトはその場で、申請者名、期間、根拠条文、添付資料の欄を区切った簡単な書式を書き上げる。
慣れた手つきに、事務官がわずかに目を見開いた。
「これは……ずいぶんと、整理されておりますね」
「これくらいなら、すぐです」
小さなことだが、誰かの役に立てた感覚があった。
事務官は深く息を吐き、二枚の書類を丁寧に文箱の中へ収めた。
■■■
その夜、自室の窓辺で、ハルトは羊皮紙の控えを見返していた。
書いた文字を見るだけで、少し胃が重くなる。
「リーシャさん、これ、まずかったですかね」
「……正直に申し上げますと、少し心配しております」
リーシャは膝の上で手を握り合わせていた。
「名誉あるお役目に疑問を持つこと自体、これまで誰もしてきませんでしたので」
「それは、誰も悪いことだと思ってなかったから、ですよね」
「……そう、なのかもしれません」
リーシャは小さく頷いた。
「私も、ずっとそう思っておりました。これが普通なのだと」
「普通だと思ってると、おかしいことに気づけなくなるんですよね。俺も、何度もそういう相談を受けてきました」
「相談、というのは」
「働きすぎてるのに、それが当たり前だと思い込んでる人たちの相談です」
リーシャは何も言わず、ただ小さく息を吐いた。
「私の母も、正騎士でした。最後まで、休まず働く人でした」
「……それって」
「立派な人だった、と皆が言います。私もそう思っていました。今も、半分はそう思っています」
リーシャの声は静かだったが、その静かさが逆に重かった。
それ以上の言葉は出てこなかった。
ろうそくの火が、ふっと揺れる。
扉を叩く音が響いたのは、そのすぐ後だった。
「勇者様、夜分に失礼いたします」
聞き覚えのない使者の声だった。
「宰相閣下が、明朝そちらに伺いたいとのことです」
ハルトは控えの羊皮紙を、思わず強く握りしめた。
リーシャと目が合う。
彼女の表情には、戸惑いと、ほんのわずかな期待が同時に浮かんでいた。
【ひとくち労務コラム】
本文中に出てきた「三十六協定」は、本来、法定労働時間(1日8時間・週 40時間)を超えて働かせる場合に、労使で結ぶことが義務付けられている協定です。ただ、2019年の法改正で、協定を結んでいても残業時間には上限(原則月 45時間・年 360時間)が設けられました。「協定があるから何時間でも合法」というのは、実は誤解です。




