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第2話 まだ誰も知らない権利

深夜の自室、ろうそくの灯りだけが壁を黄色く照らしている。


ハルトは寝台に腰掛けたまま、膝の上に法典を広げていた。


紙はもう紙というより布のようにごわついていて、開くたびに小さく粉が舞う。


文字は見慣れない曲線の異世界文字のはずなのに、なぜか読める。


たぶんステータスウィンドウと同じ仕組みだろう。


都合がいいというより、少し気味が悪い。


「……第一条」


声に出して読むと、自分の声が思った以上に部屋に響いた。


慌てて口を押さえる。


深夜に独り言をぶつぶつ言っている社労士、傍から見たらだいぶ怪しい。


『勇者は、心身の健康を保つ権利を有する。いかなる名誉も、これを侵してはならない』


「は……これ、まんま三十二条じゃん」


思わず声が漏れた。


労働基準法第三十二条、一日八時間、週四十時間。


条文の言い回しまでは違うが、骨格はそのままだ。


誰かがこの世界で、現代日本の労働基準法と似た発想に辿り着いていたということになる。


(誰が作ったんだ、これ……)


ぱらぱらとページをめくる。


第二条には、報酬についての一文があった。


『勇者の働きには、これに見合う正当な対価が支払われねばならない』


第三条には、休日についての一文。


『七日に一度、勇者には完全な休息日が与えられる』


「七日に一度て……いや、それでも今より全然マシだけど」


思わず突っ込みが出る。


現代の感覚なら週休一日は重いが、今のハルトの生活に当てはめると、それすら贅沢に思える条文だった。


読めば読むほど、ただの古文書ではないことがわかる。


これは、誰かが本気で「働く者を守るため」に作った法典だ。


それが今、誰にも読まれずに書庫の隅で埃をかぶっていた。


「……誰が作ったんだよ、本当に」


呟いた声は、誰にも届かない。


ハルトは法典を抱えたまま、夜が明けるのを待った。


■■■


翌朝、城の奥にある訓練場からは、もう剣戟の音が響いていた。


見習い聖騎士たちの掛け声、鈍く重い金属音、地面を踏む足音。


朝からこれだけの音量だということは、休む間もなく訓練が始まっているということだ。


ハルトはその音を背中に聞きながら、回廊を歩いた。


リーシャを捕まえたのは、洗濯物を抱えて同じ回廊を歩いているところだった。


「リーシャさん、ちょっとこれ見てもらえますか」


「……はい? あ、勇者様。おはようございます」


リーシャは洗濯物を抱えたまま、怪訝そうな顔で本を覗き込んだ。


ハルトは興奮を隠せず、第一条の部分を指で示す。


「これ、見てください。勇者には心身の健康を保つ権利があるって書いてあるんです。名誉も、これを侵せないって」


リーシャは数秒、文字を目で追った。


それから、困ったように眉を寄せる。


「……申し訳ありません、勇者様。そのような法典は、存じ上げません」


「いや、存じ上げないっていうか、書庫にあったんですよ。これ、本物の法律ですよね?」


「法律というのは、もっと昔の話で……今はもう、誰も使っていないかと」


「使ってないって、廃止されたわけじゃないですよね」


「廃止というか……」


リーシャは言葉を探すように視線を彷徨わせた。


洗濯物を抱える手に、少し力が入る。


「正直に申し上げますと、私にはよくわかりません。ただ、名誉あるお役目に休息が必要だなどと、これまで誰からも聞いたことがありませんので」


「それは……」


ハルトは口を開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。


リーシャの目に浮かんでいるのは、反発でも怒りでもない。


ただの戸惑いだ。


そんな考え方自体を、知らない。


(これ、思った以上に根が深いやつだ……)


「リーシャさんは、七日に一度くらい、休んだことありますか」


「七日に一度、ですか」


リーシャは少し考えるように視線を上げた。


「直近では……思い出せません」


あっさりとした答えだった。


それが演技ではなく、本当に思い出せないのだとわかって、ハルトは一瞬、言葉に詰まった。


「もし、その法典が本当に使えるなら……勇者様は、何をなさるおつもりですか」


リーシャの問いに、ハルトは法典を強く抱え直した。


「使えるかどうか、試してみます。まずは、自分から」


リーシャは何も言わなかった。


ただ、その表情にわずかな緊張が走ったのを、ハルトは見逃さなかった。


■■■


その夜、自室に戻ったハルトは、窓辺に立って城下の灯りを見ていた。


灯りの数だけ、誰かが働いている。


そう考えると、急に息が詰まるような気がした。


「法典があるだけじゃ、何も変わらないんだよな」


社労士として何度も見てきた光景だった。


立派な規程があっても、誰も使わなければ紙の上の文字でしかない。


運用する人間がいて、初めて法は機能する。


「だったら、まず俺が運用してみせるしかないか」


口に出してみると、思った以上に肝が据わった声が出た。


ハルトは法典を机に置き、第一条のページに小さく折り目をつけた。


明日、何から手をつけるか。


まずは自分の勤務時間を記録すること。


それなら、誰の許可もいらない。


ろうそくの灯りが、折り目をつけたページの上で小さく揺れていた。

法典の三つの条文は、実際の労働基準法とほぼ同じ骨格を持っています。第一条(心身の健康)は32条(1日8時間・週40時間)、第二条(正当な対価)は24条・37条(賃金支払・割増賃金)、第三条(七日に一度の休息)は35条(毎週1回以上の休日)に近い内容です。これらは罰則付きの強行規定で、労使の合意があっても下回ることはできません。

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