第1話 名誉あるお勤め
深夜二時のオフィス。
誰もいないフロアに、加湿器の稼働音だけが響いていた。
結城ハルト、25歳。
社労士登録から半年、実務経験はまだほとんどない。
先輩が帰ったあとの机に向かい、栄養ドリンクの蓋を開ける。
今夜で三本目だ。
「……労働基準法、第三十二条……」
条文をなぞりながら、ふと思う。
覚えても覚えても、現場では誰も守っていない条文ばかりだ。
机の端には、担当先のブラック企業から届いた相談票が山になっている。
「これ、本当に役に立つ日、来るのかな」
誰もいないフロアで独り言をこぼす。
三十二条、三十六条、有給休暇の取得義務。
試験勉強で叩き込んだはずの条文が、目の前の現実とまったく噛み合わない。
ふと、今朝コンビニで買った異世界ものの新刊が頭をよぎった。
まだ開いていない。
「……今日こそ読んで帰りたいんだけどな」
そんなことを考えながら、目を閉じた。
次に目を開けたとき、空気が変わっていた。
蛍光灯の白さではない。
どこか温かく、湿った、土と花の混じった匂い。
耳元で鈴のような音が鳴っている。
「勇者様、ようこそ!!」
割れんばかりの歓声で、ハルトの意識は一気に覚醒した。
■■■
見上げると、天井からは見たこともない巨大なシャンデリア。
床には光る紋様が幾重にも広がり、その中心に自分が立っている。
周囲をぐるりと囲むのは、騎士の鎧、貴族らしい豪奢な衣装、そして無数の笑顔。
歓声に混じって、誰かが奏でているらしいラッパの音が響く。
足元の紋様が、じわじわと熱を持っているのがわかる。
「うわ……うわうわうわ」
ハルトの口から、まともな言葉になっていない声が漏れた。
(これだ……これが、あの……)
脳内では、コンビニのレジ袋に入っていた新刊の表紙が高速で再生されていた。
召喚陣、歓声、玉座。
何度も読んできた展開そのものが、今、目の前で起きている。
「ようこそお越しくださいました、勇者様。私、宰相のオルグレンと申します」
白髪を丁寧に整えた老人が、深々と頭を下げる。
ハルトは反射的に背筋を伸ばした。
「あ、結城ハルトです。えっと……本当に、異世界、なんですか」
「もちろんでございます」
「召喚って、本当にあるんですね。いや、なんていうか、すみません、ちょっと声が大きくなっちゃって」
「いえいえ、勇者様の喜びは、この国にとっても喜びでございます。さあ、まずはお食事を。長旅でお疲れでしょう」
長旅も何も、さっきまで自分のデスクにいたはずなのだが、突っ込む隙すら与えられない。
気づけば豪華な個室に案内され、見たこともないほどの料理が並ぶテーブルに座らされていた。
「お世話をさせていただきます、リーシャと申します」
控えめに頭を下げたのは、年齢二十歳ほどの女性だった。
動きは丁寧で、表情も穏やかだ。
ただ、一瞬だけ、目の下にうっすらと色が滲んでいるのが見えた。
ハルトはそれを、明かりのせいだと思うことにした。
「よろしくお願いします。あの、本当にこんなに良くしていただいて……いいんでしょうか」
「当然のことです。勇者様には、最高のおもてなしを」
「いや、最高すぎて落ち着かないんですけど」
「ふふ。勇者様は変わったことをおっしゃいますね」
リーシャはそう言って微笑んだ。
微笑みは綺麗だったが、どこか張りつめていた。
■■■
理想の初日は、翌朝あっさりと終わった。
「勇者様、本日の御用はこちらでございます」
オルグレンが恭しく差し出した羊皮紙の束は、机の上に積み上げると軽く十センチを超えた。
魔獣討伐、辺境の浄化、隣国への外交儀礰への同行。
どれも一件で数日はかかりそうな内容だった。
「これ……全部、今日中ですか」
「ご安心ください。勇者様には休息など必要ないでしょう。何しろ、名誉あるお役目です」
「いや、名誉とか関係なく、体力的な話で……」
「勇者様の御力は、女神より賜られたもの。我々凡人とは違うのですよ」
オルグレンは笑顔のまま、当然のようにそう言った。
質問を返しても、毎回別の角度から同じ結論に着地する。
何を聞いても結局「名誉だから問題ない」に戻ってくる。
(その理屈、聞いたことあるな……)
ハルトの脳裏に、担当先の社長の顔がよぎった。
「管理職だから残業代は出ない」「やる気がある奴に勤務時間なんて関係ない」。
聞き慣れた台詞だった。
そのとき、視界の端に半透明のウィンドウが浮かんだ。
◆◆◆ステータス◆◆◆
クラス:レイバーコンサルタント(Lv.1)
スキル:ブラックスキャン(精度:低)
スキル:シフトメイク(未開放)
スキル:ネゴシエイト(未開放)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……は?」
慌てて目をこすったが、消えない。
ぼんやりとした文字の輪郭が、視界の隅に居座っている。
(レイバーコンサルタントって、何のクラスだよ。聞いたことないんだけど)
戸惑いながらも、ふと羊皮紙の束に視線を戻すと、その上にうっすらと文字が浮いて見えた。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
[名誉職]:労働時間管理の対象外
[休息義務]:適用除外
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ブラックスキャンが、何かを検出している。
精度は低く、文字は揺れて読みにくい。
それでも、ハルトには嫌な確信があった。
「これ……完全にあのパターンだ」
これは、見たことがある構造だ。
■■■
その日の夕方、回廊でリーシャを見かけた。
荷物を抱えたまま壁にもたれ、肩で息をしている。
「リーシャさん、大丈夫ですか」
「……っ、はい。問題ございません」
「いや、顔色、結構……」
「勇者様のお世話ができるなど、光栄なことですから」
そう言って彼女は、すぐに笑顔を作った。
だがその笑顔の作り方を、ハルトは知っていた。
クライアント先で何度も見てきた、限界を隠すための表情だ。
「リーシャさん、最後にちゃんと休んだのって、いつですか」
「……それは」
リーシャは一瞬、答えに詰まった。
視界の端で、ブラックスキャンの文字がまた揺れる。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:リーシャ
状態:警告(詳細表示には経験値が必要です)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(詳細が見えない……まだ精度が足りないってことか)
苛立ちと焦りが入り混じる中、ハルトはふと思い出した。
社労士試験の勉強中、教科書の隅に小さく載っていた一文。
「かつて、異世界における勇者保護のための法典が存在したという記録がある」。
冗談みたいな脇道コラムだと思っていた。
「まさか、な……」
■■■
その夜、誰もいない書庫の奥で、埃をかぶった一冊の本を見つける。
表紙には、かすれた文字で「勇者保護法典」とあった。
誰の手も伸びていない、長い間忘れられていた一冊。
ハルトはその表紙に手を置き、小さく呟いた。
「これ……使えるんじゃないか」
ここまで読んでくださってありがとうございます。
社労士なのに労務知識がほとんど役に立たない異世界、というギャップから始まる話です。
名誉聖騎士という称号が「労働時間管理の対象外」になる根拠は、実際の労働基準法41条2号にあたります。「監督もしくは管理の地位にある者」は労働時間・休憩・休日の規定の適用から外れる、という条文です。ただし、これは役職名だけで決まるものではなく、実際の権限や待遇が伴っているかが問われます。いわゆる「名ばかり管理職」問題は、この条文の解釈が拡大されすぎたことが原因の一つです。
次話、ハルトはこの法典を実際に使ってみることになります。
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