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第10話 名前のない声

朝の訓練場には、まだ霧が薄く残っていた。


土の匂いに、夜露の湿り気が混ざっている。


ガレオスから期限を切られた日から、もう一夜が明けていた。


(五日のうち、もう一日減ってる)


残りは、四日。


そう考えるだけで、足の運びが少し速くなる。


訓練場の隅、カイルが剣の手入れをしていた。


布で刃を拭う音が、規則的に響く。


油と鉄の匂いが、薄く鼻をくすぐった。


「カイルさん、おはようございます」


「……勇者様。おはようございます」


カイルの声は、いつもより小さかった。


「少し、聞きたいことがあって」


「夜警の、件でしょうか」


「はい。カイルさんの本音を、聞かせてもらえたらと思って」


カイルの手が、布の上で止まった。


「本音、ですか」


「正直なところで大丈夫です。怒られたりしないので」


カイルは布を握り直し、視線を逸らした。


「……正直に言って、何か変わるんでしょうか」


「変わるかどうかは、まだ分からないです。でも、変える材料にはなります」


カイルは少しの間、黙っていた。


リーシャが、隣からそっと言葉を添える。


「カイル、前にも言いましたが、あなたの感じたことは、間違いではありません」


「リーシャ様……」


「私も、似たようなことを、ずっと黙っていました」


カイルの肩から、わずかに力が抜けたのが見えた。


「……正直に言うと、夜警が増えてから、訓練中に何度も意識が飛びそうになります」


「飛びそう、というのは」


「立っているのに、頭の中だけ眠っているような感じです」


「それ、結構危ない状態だと思います」


「でも、それを誰かに言うと、覚悟が足りないと言われそうで」


「前に一人、夜警がつらいと正直に言った先輩がいたんですが」


「その人、どうなったんですか」


「……次の月、一番きつい巡に回されていました。理由は、誰も教えてくれません」


カイルの声が、また小さくなっていく。


(これだ。これが一番の壁だ)


正直に言っても、結局自分が損をするかもしれないという怖さが、言葉を半分のところで止めている。


ハルトは記録帳に、その一言だけを書き留めた。


『正直に話すと、不利益を受けるかもしれないという怖さ』


インクが乾く前に、もう一行付け加える。


『これも、調べる対象にする』


カイルは、まだ手の中の布を握ったままだった。


「カイルさん、今日話してくれたこと、誰にも漏らさないので」


「……ありがとうございます」


小さな声だったが、最初よりわずかに力が戻っていた。


■■■


その後、二人は他の見習いたちにも声をかけて回った。


回廊を歩くたび、剣帯のこすれる音と、土埃の匂いが付きまとってくる。


何人かに同じ質問をしてみたが、返ってくる言葉は、驚くほど似ていた。


「夜警が増えたのは、団のためですから」


「光栄なことです。不満なんて、ありません」


井戸端で布を絞っていた若い見習いも、同じ調子で答えた。


「正直、つらくないのかって聞かれても、答えに困ります」


「困る、というのは」


「つらいと言って、何か変わるなら言いますけど。変わらないなら、言うだけ損な気がして」


その一言を聞いた瞬間、リーシャの耳がぴくりと動いた。


(あれは……前の私だ)


かつて自分が、何度も口にしていた言葉だった。


本音を隠すための、便利な蓋のような言葉。


リーシャは、その見習いの顔を見つめた。


無表情ではなく、むしろ綺麗に整えられた表情だった。


「本当に、それだけですか」


「……はい。それだけです」


答えに詰まる一瞬の間が、リーシャにはよく分かった。


質問を切り上げ、二人はその場を離れる。


「勇者様、あの答え方、私には覚えがあります」


「リーシャさんも、前はあんな感じだったんですか」


「はい。誰かに本音を聞かれるのが、一番怖かったので」


「今は、聞かれても大丈夫なんですか」


「……まだ、半分くらいです」


正直な答えに、ハルトは思わず笑ってしまった。


(半分でも、大進歩だと思う)


歩きながら、ハルトは気づいたことを口にする。


「リーシャさん、みんな俺の前だと、模範解答みたいになりますよね」


「勇者様は、名誉聖騎士です。立場上、上に近い人間に見えているのかもしれません」


「俺、別に評価する側じゃないんですけどね」


「見え方は、本人の意図とは関係なく、決まってしまうこともあります」


その言葉が、思っていたより重く響いた。


(俺が直接聞く限り、本当の答えは出てこないかもしれない)


■■■


資材庫の裏、二人は壁にもたれて座り込んでいた。


夕方の風が、乾いた土埃を巻き上げて流れていく。


「このままだと、五日で集まる話、半分くらい建前で終わる気がします」


「私も、同じことを感じていました」


リーシャは、膝の上で指を組んだ。


しばらく黙ったまま、何かを迷っているように見えた。


「……言ってもいいものか、少し迷っているんですが」


「迷ってるなら、とりあえず言ってみてください」


「勇者様、一つ、思いついたことがあります」


「聞かせてください」


「名前を書かせずに、紙にだけ書いてもらうのは、どうでしょうか」


「名前なし、ですか」


「はい。誰が書いたか分からなければ、後で何か言われる心配も、少しは減るかと」


ハルトは、思わず顔を上げた。


(これ、地味にすごいアイデアだ)


匿名でなら、本音が出やすくなる。


現代の社内アンケートでも、よく使われる方法だった。


「リーシャさん、それ、いい考えだと思います」


「……自分でも、少し意外です。こんなことを思いつくなんて」


リーシャの耳が、少し落ち着かない感じに動いた。


「四条には、代表を通じた合意でもいいって書いてありましたよね」


「はい。関係者の代表を通じて、という一文がありました」


「でも今、誰かを代表に決めるって、誰がやるんでしょう」


「……それは、考えたことがありませんでした」


「ガレオスさんが決めたら、それ、本当の代表になるんでしょうか」


リーシャは、少し戸惑った顔をした。


「上の人が決めた人を、みんなが代表だと思うかどうか、ですね」


「そうなんです。それ、たぶん別問題な気がします」


視界の端で、淡くウィンドウが揺れた。


◆◆◆スキャン結果◆◆◆


対象:代表者選出の手続き


状態:該当する手続き、確認できません(経験値が不足しています)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


精度は、まだ低い。


それでも、何も無いという結果そのものが、ひとつの手がかりだった。


(代表を決める手続き自体が、たぶんこの団にはない)


今すぐ答えが出る話ではない。


それでも、覚えておく価値はある気がした。


「ひとまず、今回は名前なしの紙で、声を集めましょう」


「はい。今夜中に、紙を配って回ります」


リーシャは立ち上がり、襟元を整えるように一度袖を直した。


その仕草に、わずかな決意のようなものが見えた。


■■■


夜、資材庫の灯りの下で、二人は集まった紙を広げていた。


蝋燭の芯が爆ぜる音が、静かな部屋に響く。


紙の枚数は、まだ多くない。


それでも、書かれている内容は、昼間の答えとは明らかに違っていた。


『眠気より、次の当番までの短さが辛い』


『一度でいいから、続けて眠りたい』


『正直、もう何日眠れていないか分からない』


名前のない文字が、紙の上に並んでいる。


(これだ。やっと、これが見えた)


昼間集めた言葉とは、重みがまったく違っていた。


「リーシャさん、これ、ちゃんと使えそうな材料です」


「はい。匿名というだけで、こんなに変わるとは思いませんでした」


リーシャの声に、わずかな手応えが滲んでいた。


そのとき、扉の外に、人の気配がした。


「お二人とも、まだこんな時間まで」


柔らかい声に、リーシャの耳が一瞬で強張る。


宰相オルグレンが、戸口に立っていた。


「オルグレン様……」


「夜警の見直しをしているとか、噂で聞きましてね」


「はい。ガレオスさんと約束したので」


「結構なことです。若い方々が、自ら動かれるのは」


オルグレンの笑みは、いつもと変わらず柔らかかった。


それなのに、部屋の温度が少し下がった気がした。


「期限は、五日でしたか」


「はい」


「短いようで、案外、長くもあります」


「……それは、どういう意味でしょうか」


「特に意味はありませんよ。ただ、長い五日になる方々を、何人か見てきましたので」


それだけ言うと、オルグレンは静かに踵を返した。


足音が遠ざかってから、リーシャがようやく息を吐く。


「あの方が、わざわざ声をかけてくるとは」


「何か、見られてる感じがしますね」


「……はい。ただの世間話には、聞こえませんでした」


紙の束を握る手に、ハルトは少し力を込めた。


(残り四日。気をつけないと、何か仕掛けられるかもしれない)


「リーシャさん、明日からも、同じやり方で大丈夫そうですか」


「はい。ただ、オルグレン様が知っている以上、慎重に進めたほうがよさそうです」


「そうですね。紙の保管場所も、ちょっと考えないと」


名前のない声は、ようやく集まり始めた。


だが、それを誰かに踏みつぶされない保証は、まだどこにもなかった。

【ひとくち労務コラム】


「代表を誰が決めるか」という論点は、現実の労務管理でも重要です。36協定などを結ぶ際の「労働者の過半数代表者」は、使用者が一方的に指名することは認められず、投票や挙手など民主的な方法で選ぶ必要があります(労働基準法施行規則6条の2)。上司が決めた代表者では、本来は手続きとして無効と判断される可能性もあります。


ハルトたちが見つけた匿名の声は、まだ小さな束にすぎません。次話、不穏な影が見え始めた中、その声をどう次の一手につなげていくかが問われます。

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