第69話 それぞれの朝
翌朝、団の宿舎でハルトが目を覚ますと、窓から夏の朝日が差し込んでいた。
昨日の裁定が夢ではなかったことを確認するように、頭の中で順番を追った。評議会の受付番号六〇〇一番。ドアーレの職務停止。補償院への是正命令。グレタの遺族年金申立の帰責なし認定。ドルカの去り際。オルグレンの言葉。そしてグレタの家の玄関で、ガレオスが「名前は残る」と言ったこと。
全部あった。
(今日は報告回りだ)
昨夜、リーシャと話し合って順番を決めた。エイラ、ゲイル、ハインズ、ラース、テルト。それぞれに裁定の内容を届ける必要があった。直接的に裁定で名前が出た者だけでなく、このケースを動かすために動いてくれた人たちにも。
メモが枕の上から翼を立てて顔を覗かせた。
「ご主人、起きてますのです?」
「起きてます」
「今日も走り回るですのです?」
「走り回ります」
「ならご飯食べてからですのです」
「そのつもりです」
■■■
エイラは、朝の訓練場にいた。
正騎士二人の動きについていきながら、見習い用の木剣を構えていた。呪痕が消えてから半年近く。顔色は明るく、動きに力があった。
「エイラさん」
振り向いた顔が、まず驚き、それからほっとした表情になった。
「ハルト様。お疲れ様でした」
「報告に来ました。評議会の裁定について」
エイラは木剣を脇に置き、正対した。
ハルトが裁定の内容を話すと、エイラはうなずきながら聞いた。費用対効果目標の即時停止。評価基準の見直し命令。改定前の基準に戻ることで、本来承認されるべき案件が通るようになること。
「そうですか」
エイラは少し目を伏せた。
「あの時の申立が、こんなところまでつながったんですね」
「つながりました」
「私一人の件だと思っていました」
エイラはしばらく黙ってから、顔を上げた。
「次は申立人にならずに済む職場を、作る方を手伝いたいです」
認定書を受け取ったあの日にも、同じ言葉を言っていた。あの時は頭が白くなっていたようにも見えた。今日の顔には落ち着きがある。言葉が体に馴染んでいた。
「頼もしいです」
メモが翼をぱたぱたさせた。
「エイラさん、大きくなりましたのです」
「大きくなってはいないと思いますが」
「内側がですのです」
エイラが少し笑った。
■■■
ゲイルは、詰所の長椅子に座って書類を読んでいた。
声をかけると顔を上げ、立ち上がろうとしたのでハルトは手で制した。
「そのままで大丈夫です」
裁定の概要を話した。費用対効果目標の停止。審査基準の見直し。ゲイルとハインズの案件は既に承認済みのため再審査の対象にならないこと。
「そうか」
ゲイルは短く言ってから、少し間を置いた。
「この話が出るまで、申立てを考えたことはなかったんです。制度があるのは知ってた。でも使うとは思わなかった」
「なぜですか」
「使ったら、何かが変わると思ってたから。悪い方向に」
「申立後の不利益取扱禁止規定がありました」
「知らなかった。そういうのがあるとは思わなかったです」
ゲイルは書類を卓の上に置いた。
「妻に話したら、泣いていました。承認の通知が来た時。子供はまだ状況がわかってないけど、それでも父親が普通に仕事できるのが一番だと。昨日、久しぶりに三人で飯を食べました」
ハルトは何か言おうとして、やめた。言葉より前にゲイルが言ったことの方が重かった。
「ありがとうございました」
ゲイルの声は低かった。感情を抑えた話し方だったが、抑え方が違っていた。疲労を隠す抑え方ではなかった。肩が、少しだけ下がっていた。
■■■
ハインズは、外周詰所の外で煙草を吸っていた。
ハルトが近づくと、煙草を指の間に挟んだまま振り返った。
「来ると思っていました」
「報告に来ました」
「裁定ですか」
「はい」
ハルトが話すと、ハインズは空に煙を吐いた。
「三年間、引き出しに入れたまま待っていました」
「知っています」
「待ちながら、膝だけ悪くなりました」
「聞いています」
ハインズが煙草を地面に踏み消した。
「あなたは一か月も経たないうちに動いてくれました。俺が三年かけて諦めていたものを」
「俺が外からだったからだと思います。中にいると、見えにくくなる」
「そうかもしれないですね」
少し間があった。
「配置は元に戻りません」
ハインズが言った。
「法的には申立できる根拠はあります。ただ」
「俺は今の部署でいいです。膝が悪いのに外周番はきつい。今の仲間がいい。ただ、同じことが次の誰かに起きないようになってほしいと思っています」
ハルトは一歩引いて返した。
「是正命令の中に、評価基準の見直しが含まれています。審査の透明性が上がれば、申立実績を理由にした不当な配置換えの根拠が使いにくくなります」
ハインズは腕を組んだ。
「完全ではないようですね」
「完全ではないです」
「まあ」
ハインズが空を仰いだ。
「三年前よりはましかな」
■■■
ラースは、文書管理課の窓口に戻っていた。
識別章が胸についていた。処分解除から数日、少し照れくさそうに椅子に座っていた。
「ラースさん」
声をかけると、立ち上がりかけてから腰に手を当てて苦笑した。
「腰が鳴ります。しばらく動いていなかったので」
「無理しないでください」
ハルトは裁定の内容と、師匠の記録帳が証言の決め手になったことを話した。百二十一年前の崩壊調査報告書の写しが、ドルカの信念を揺るがした。
ラースはしばらく黙って天井を見た。
「師匠は、この記録が使われる日が来ると思っていたのかな」
「どう思いますか」
「わかりません。あの人は自分では何も言わない人だったから。ただ捨てなかった。それだけだと思います」
ラースが記録帳を引き出しから出して、卓の上に置いた。審問で証拠提出された後、正式に評議会から返却されたものだ。
「これ、書証課に正式寄贈しようと思っています。師匠が残したものを、師匠のいた場所に残す」
「いい考えだと思います」
「ついでに、三十年ぶんの問い合わせ記録も整理します。溜まってますから」
メモが翼を畳んで言った。
「ラースさん、前より顔がすっきりしましたのです」
「三十年ぶんの重さが少し下りた気がするので」
「師匠が喜んでますのです」
ラースは照れた顔で、記録帳の表紙を撫でた。
■■■
テルトは、副直轄部署の執務室にいた。
窓際で書類を整理していた。ハルトとリーシャが入ると顔を上げ、「あ、来たんだ」と言った。
「報告に来ました」
「裁定は聞いた。評議会の掲示板に出てたから」
「改めて、ありがとうございました」
テルトはペンを置いた。
「私が届けたかったのが届いた。それだけ」
「百二十年前のことを」
「二十年間、持ってた。使えると思ったから捨てなかった。届いたから、もういい」
窓から夏の光が差し込んでいた。テルトの白い髪に当たって、少し輝いた。
「キミはどうするの、これから」
「これからも続けます。制度は直っても、運用する人が変わらないと意味がないので」
「そうだね」
テルトが少し笑った。
「百二十年前の人も、同じことを思いながら壁に当たった。今回は届いた。次の百年を誰かが動かす」
「俺じゃないかもしれないです」
「そうかもしれない。でも今日動かした分は残る」
ハルトは少し間を置いた。
「テルトさんは、これからどうするんですか」
「私は相変わらず。書類の整理と、ときどき問い合わせに答える」
「それだけですか」
「それだけでいい。大きなことは若い人に任せる」
リーシャが横で「テルトさんはお若いですが」と小声で言った。
テルトが「換算だと二十五歳ぐらいだけど、実年齢は違うからねー」と言って、書類を元の場所に重ねた。
■■■
夕方近く、評議会棟の近くを二人で歩いていた。ガレオスは別の用があると先に帰っていた。
「今日で全員に届きました」
リーシャが言った。
「そうですね。グレタさんとヤネさんには昨日届きました。これで、一区切りですね」
石畳の向こうに夕暮れの市場が見え始めていた。野菜を売る声が遠く聞こえ、炭を熾す煙の匂いが漂ってきた。
「様式審査委員会の再建の件、評議会に申請が必要ですね」
リーシャが言った。かつて内規の附則に規定はあっても長年機能していなかった組織だ。今回の審問で評議会が制度の形骸化について言及した。動かすなら今だとハルトは思っていた。
「次の課題です」
「一緒にやりますか」
「やりましょう」
リーシャが少し笑った。声に出さず、目だけで笑った顔だった。ハルトはそれに気づいて、少し遅れて前を向いた。
(リーシャは、ずっと近くにいてくれた)
エイラの申立から始まり、ゲイルとハインズの案件、グレタの遺族年金。その全部を、リーシャは隣で見ていた。手伝ってくれた。制度を直すことだけに気を取られていたが、リーシャが隣にいなかったらどうなっていたか、改めて思う。
「何か」
リーシャが言った。
「いえ」
「何か言いましたか」
「言いませんでした。でも、言おうかなとは思いました」
リーシャが少し立ち止まった。
「そうなのですね。気になりますが、また教えてください」
そう言って、また歩き始めた。
メモが肩の上でぱたぱたと翼を動かした。
「明日も働くですのです」
「働きます」
「ご飯はちゃんと食べるですのです」
「食べます」
「あそこに、干した野菜が売っています。見たことのない種類です」
リーシャが前を向いたまま言った。
「行きますか」
「行きましょうか」
ハルトは歩き始めた。リーシャが隣に並んだ。
メモが橙色の空に小さな翼を広げた。
---
【あとがき:プチ解説コーナー】
今話に描いた「裁定後の報告巡り」は、現実の労働問題解決でも欠かせない段階です。是正勧告・改善指示が出た後も、実際の制度変更・記録の正式訂正・当事者への通知と確認は、別々の手続きとして残ります。行政機関や事業者が評価基準を変更する際、上位機関(理事会・取締役会等)の承認が必要なケースがあり、日本では補助金適正化法や独立行政法人通則法などで細かく規定されています。「裁定が出た」だけでは終わりではなく、その後を誰かが見続けることが制度改革の本番です。是正勧告に法的強制力はないものの、無視すれば送検や会社名公表の対象となるため、事業者はほぼ従わざるを得ません。改善した後の「誰が見るか」という問いは、今の日本でも続いています。




