第68話 評議会の裁定
裁定の日の朝は、晴れていた。
夏の光が評議会の石廊を白く染めていた。
審問室第七番に続く廊下には、早い時間から人が増えていた。評議会の記録係が資料を抱えて行き来し、傍聴を待つ者たちが静かに列を作っていた。ハルトとリーシャが廊下を歩くと、何人かの視線が動いた。
「行きましょう」
リーシャが言った。ハルトは頷いた。
申立人席に着くと、補償院側の席にドルカ・アイゼングリムの後頭部が見えた。昨日と同じ姿勢。弁護人なし、書類なし、ただ一人でそこに座っていた。背筋だけが相変わらずまっすぐだった。
被申立人席には代理人弁護士が二人。ドアーレ本人は今日もいない。三日間を通じて、審問室に一度も姿を見せなかった。
(最後まで来なかったか)
傍聴席が昨日よりも埋まっている。後列の端にガレオスの広い背中が見えた。
「本日、評議会は本件についての審理を終結し、裁定を告示します」
議長席の白髪の評議員が、文書を広げた。
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「裁定その一」
声が室内に静かに響いた。
「財務局審査調整係長ルハン・ドアーレは、補償院理事会規程第五条に定める理事会の承認を経ずに費用対効果目標を設定し、アイゼングリム補償院の審査担当者に対して当該目標を口頭で伝達した。この行為は評議会規則第四十三条が定める手続き外の業務指示に該当する。よって、ルハン・ドアーレに対し、職務停止三十日間及び始末書の提出を命じる。財務局長には本裁定を通知する」
代理人が素早く何かを書き留めた。表情は動かない。
「裁定その二。アイゼングリム補償院は、費用対効果目標に基づく審査運用を本日付で即時停止すること。補償院理事会の審議を経て評価基準の見直しを行うこと。見直し期間は六十日以内とし、その間は改定前のチェックリストを基準として審査業務を行うこと」
(是正命令だ)
ハルトは膝の上で、両手を静かに重ねた。
エイラの申立から始まり、ゲイルとハインズの傷病給付、ダグラスの加入記録、費用対効果目標、財務局との接触、評議会への申立、審問。その全部がこの二文に凝縮されていた。
「裁定その三。本件申立の対象となったゲイル・クロイス及びハインズ両案件については既に承認済みのため再審査の対象としない。グレタ・ヤネの遺族年金申立については、加入記録の不備が書記室における受領処理上の瑕疵によるものと認定し、申立人側に帰責しない。補償院は記録不備を解消した上で正式に審査手続きを進めること」
(ダグラスの名前が、ちゃんと残る)
隣でリーシャが、ゆっくりと息を吐いた。
「以上をもって、評議会受付番号六〇〇一番の審理を終結します」
議長が文書を閉じた。
代理人弁護士がすぐに立ち上がり、議長に近づいた。何か早口で言った。
「異議申立の手続き期間は七日以内です。所定の書式で提出してください」
議長はそれだけ告げて、書記に向かって指示した。
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裁定後の室内は、静かだった。
人が動き始めても、誰も声を上げなかった。記録係が書類をまとめ、評議員が席を立ち、代理人が依頼人への連絡のために出て行く。
ハルトはしばらく席を立たなかった。
補償院側の席で、ドルカが一度だけ卓に目を落としてから、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。誰とも言葉を交わさず、静かに出口へ向かった。
廊下に出る直前、一瞬だけ振り返った。
目が合った。
ドルカは何も言わなかった。ハルトも言わなかった。昨日すでに言葉は交わした。それで足りた。
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廊下に出ると、ガレオスが壁に背中を預けて立っていた。
「終わったな」
「終わりました」
ガレオスは腕を組んだまま正面を向いていた。
「グレタたちへの報告は俺が行く。夕方に」
「一緒に行っていいですか」
少し間があった。
「……好きにしろ」
断らなかった。それがガレオスなりの許可だとハルトは知っている。
「ラースさんに連絡を入れます。ガレオスさんからの礼も伝えます」
「余計なことを言うな」
「伝えます」
ガレオスは眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
メモが肩の上で翼をほろっと広げた。
「ガレオスさん、素直じゃないですのです」
「そうですね」
後ろからリーシャの小声が聞こえた。
「本当に」
ガレオスは聞こえなかったふりをして先に歩き始めた。
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傍聴席から最後に出てきた人物を、ハルトは最初だれかわからなかった。
白い影が廊下の光の中に現れた。白髪。まっすぐな背筋。穏やかな足取り。
顔が見えた瞬間、ハルトの足が止まった。
「……オルグレン」
老人が立ち止まった。
白い眉の下の目が、ハルトを見た。穏やかだった。笑みとも呼べない、しかし確かに人を見る目だった。あの笑顔だ。何度見ても奥が読めない、変わらない表情。
「驚きましたか」
「はい」
「傍聴は誰でもできます。評議会規則第六十四条を参照してください」
一歩、こちらに近づいた。
「思ったより早かった。この程度で終わるとはな」
嘲笑ではなかった。率直な感想だった。
(この程度)
「あなたが百二十年前に削った条文は、形を変えてここに戻ってきました」
「そうですね」
迷いなく頷いた。
「私の判断は、当時の視点では正しいと思っていた。団の統率が乱れることへの恐れがあった。今から見れば、間違いでした。それは認めましょう」
ハルトはすぐには言葉が出なかった。怒りが来るかと思ったが、来なかった。ただ、重さだけがあった。百二十年分の重さだ。
「あなた自身の責任は、どうなるんですか」
「私なりの形で、別に果たします」
「どういう形ですか」
「あなたが知る必要はない」
「また会いますか」
オルグレンは歩き始めた。振り返らなかった。
「さあ。それはあなた次第です」
廊下の角を曲がって、見えなくなった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
リーシャが静かに言った。
「でも、来ていました」
ハルトはその言葉を繰り返した。
「来ていましたね」
傍聴席に来た。裁定を聞いた。二百年来の歪みに関わった者として、最後まで見届けた。それだけは確かだった。
メモが小さな声で言った。
「長生きするって、たいへんですのです」
「そうかもしれません」
ハルトは壁から背中を離し、歩き始めた。
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夕方、三人でグレタの家を訪ねた。
石造りの小さな家の扉を、ガレオスが叩いた。
グレタが開けて、ガレオスの顔を見た瞬間だけ表情が止まった。それから、待っていたような目になった。
「終わりましたか」
「終わった」
グレタは玄関の枠に手をついた。ヤネが奥から走ってきた。
ハルトは裁定の内容を順番に話した。ダグラスの加入記録の帰責がないこと。審査が正式に進むこと。
ヤネは聞きながら顔を上に向けて、目をしばたたかせた。
グレタはずっと黙っていた。全部聞き終えてから、低い声で言った。
「五年間、ありがとうございました」
ガレオスが一歩前に出た。
「俺の管轄下で、ダグラスが死んだ。それだけは変わらない。だが、名前は残る」
グレタが顔を上げた。目が少し赤かった。
「はい」
ヤネが「……ありがとうございます」と声を絞り出して、顔を伏せた。
ガレオスは何も言わずに、扉の枠に片手を置いた。それだけの動作だったが、グレタはもう一度「ありがとうございます」と言った。
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帰り道、三人で石畳を歩いた。
夏の夕暮れで、橙色の空が紺色に変わり始めていた。西の端に一番星が出ていた。
(次は何をしようか)
制度はひとつ直った。でも直った制度も、誰かが見ていなければまた歪む。今度は誰が見るのか。それはハルトかもしれないし、ラースかもしれないし、まだ名前も知らない誰かかもしれない。
(それはまた、別の話だ)
でも今日起きたことは、消えない。
メモが翼を広げてぱたぱたさせた。
「ご飯ですのです。今日はご馳走ですのです」
「そうしましょう」
リーシャがわずかに表情を和らげた。
「三人で座れるところが、一軒だけあります」
「そこにしましょう。明日はエイラさんへの報告もありますね」
「ゲイルさんとハインズさんにも。ラースさんと、テルトさんにも」
「順番に行きましょう」
夕暮れの石畳を、三人で歩いた。
小さなフクロウが、橙色の空に翼を広げた。
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【あとがき:プチ解説コーナー】
今話の「是正命令」は、現実の行政手続における「勧告」または「是正指示」に近い仕組みです。日本では行政機関が評価基準を変更する際、上位機関(理事会・取締役会等)の承認が必要なケースがあります。「理事会規程第五条違反」のような認定は、会社法上の取締役の善管注意義務違反に構造が近く、「良かれと思ってやった」ことと「手続きが正しかった」かは別々に評価されます。制度の欠陥を「信念の問題」にしないという視点こそ、組織改革の出発点です。




