第67話 機構長、語る
昼の休憩を挟んで、審問室第七番の扉が再び開かれた。
傍聴席が八割ほど埋まっている。午前の証言で人が増えた。ハルトは申立人席に腰を下ろしながら、部屋をざっと見回した。
テルトが最後列に近い席に座っていた。証言を終えてもまだいる。
(帰らないんですね)
テルトはこちらを見ていない。まっすぐ、当事者席を見ていた。
当事者席。書類も弁護人も持たずに、ドルカ・アイゼングリムが一人で座っていた。
審問長が喉を低く鳴らした。
「午後の審問を再開する。当事者席の機構長、発言を求めるが」
ドルカが立った。
「発言する」
声は低く、いつも通りの早口だった。だが今日は少しだけ、間の取り方が違う。今まで何度も対峙してきたが、この男がこういう間を置くのを見たことがなかった。
「俺が答えなければならないことが、一つある」
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「三十七年前のことだ」
ドルカは手元を見ずに語り始めた。
「俺がドワーフ鉱山共同体の書記見習いとして働き始めた年だ。あの頃、共同体には相互扶助の制度があった。病気になれば見舞金が出る。怪我をすれば療養費が出る。家族が死ねば葬儀費が出る。誰一人置いていかない、そういう制度だった」
審問室が静まっている。書記の羽ペンだけが、紙をこする音を立てていた。
「三十二年前、その制度が崩壊した。積立金が底をついた。年を経るごとに申請が増えた。審査を緩くしすぎた。情をかけた。一人を救おうとして、千人を沈めた」
ドルカは一度だけ、呼吸を入れた。
「俺はそれを十七歳の目で見ていた。共同体の解散の日、石切り場の前に人が集まって、誰も何も言わなかった。あの沈黙は今でも耳にある。以来、俺のやり方は変わっていない。数字で守る。情では動かない。それが制度を続かせる唯一の方法だと、ずっと信じてきた」
(三十七年間)
ハルトは黙って聞いていた。三十七年間、その信念を抱えてここまで来た人間の言葉だ。軽くあしらえるものじゃない。
「だが」
ドルカの声の調子が、わずかに変わった。
「あの崩壊の原因を、俺は一度も正式に調べたことがない。情けで崩れたと聞いた。そう理解した。それが正しいと疑わなかった。三十七年、ずっとそのままだった」
審問長が小さく前に身を傾けた。
「今朝の証言で、百二十一年前の話を聞いた。財務部門からの口頭指示で審査の実態が変わり、記録が残らなかった。俺が機構長になってからやってきたことと、構造が同じだ」
室内に、ため息にもならない息が漏れた。
「俺が守ろうとしてきた制度の設計そのものが、最初から欠陥を持っていたかもしれない。それを、今日ここで言わなければならないと思った」
ハルトは気づかないうちに、手すりを握っていた。
(言い切った)
言い訳がなかった。責任の転嫁も、誰かへの攻撃も、一切ない。「かもしれない」という留保がある。だがそれはこの人間の正直さだと思った。確認もしないまま断言する人間ではない。それはこれまでの言動で、嫌というほどわかっていた。
三十七年かけて積み上げた信念に、自分で疑問を呈した。それがどれほど重いことか、この審問室にいる全員がわかっていると思う。
肩の上で、メモが翼をそっと畳んだ。
「長い間、重たいものを持っていたですのです」
「……静かにしてください」
「でも本当のことですのです」
ハルトは言い返すのをやめた。
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「申立人から確認があります」
ハルトは手を挙げた。審問長がうなずく。
「ドルカ機構長が今おっしゃった、鉱山共同体崩壊の経緯については、当該共同体の記録が現存するかどうかを確認したいと思います。もし記録が存在するなら、崩壊の原因が制度設計の問題だったのか、運用の問題だったのかを、書証として明確にできます」
「当事者の発言の根拠を求めるということか」
「はい。ドルカ機構長の信念がどこから来たのかは、この審問の記録に正確に残るべきだと思います。制度の欠陥であれば、個人の問題ではなく設計の問題として記録されるべきです。そしてもし設計に欠陥があったなら、それは直せます」
ドルカがこちらを見た。
長い沈黙があった。何か言おうとして、口を閉じた。
そのとき、扉が開いた。
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見覚えのある背中だった。
前かがみの歩き方。腰の持病のせいだ。それでも背筋だけは、頑固なほどまっすぐだった。
識別章がついている。三週間ぶりに見る、正式についた識別章だ。
ラースだ。
書類の束を手に、ゆっくりと室内に入ってきた。
「審問長に申し上げたいことがあり、参りました」
審問長が書記に目を向けてから、うなずいた。
「許可する。名を」
「記録管理局文書管理課、ラース・ヴェイスと申します。本日付で、担当区域管理職務停止の処分が解除されております」
傍聴席にざわめきが走った。
ハルトは一瞬、呼吸を忘れた。
(処分解除)
答申が通ったのか。誰が動いたのか、どんな経緯があったのかは知らない。ただ、この三週間ラースが一切姿を見せなかった理由も、あの夜に深夜まで足を引きずって宿舎を訪ねてきた意味も、今日になってようやく繋がった気がした。
「書証を提出いたします。補償院記録整備室から百二十一年前の記録が最初に照会された際の、評議会書証課内部の照合記録です。午前中の証言書類と合わせて参照していただければと思います」
ラースが書類を書記に渡した。
「もう一点。今朝の証言で、当時の問い合わせ者として補償院記録整備室の担当者の名前が出ました。その方の在籍記録と、当時の調査報告書の内部写しが、文書管理課の旧問い合わせ記録帳に含まれておりました。師匠が残したものです」
ドルカの肩が、わずかに動いた。
「その調査報告書には、鉱山共同体崩壊の記録との照合が含まれています。崩壊の原因を調べた者が、当時すでにいました。制度設計の欠陥を指摘した者が、百二十一年前にも存在していました」
「……その報告書は、なぜ今まで」
「受理されませんでした」
ラースの声は低く、静かだった。
「問い合わせ記録帳の最後の行には、回答不能、以降の対応は担当機関に委ねる、とあります。師匠はその一行が悔しくて、三十年間誰にも言えなかったと。そう聞いています」
審問室が静かになった。
ドルカは何も言わなかった。
ハルトはドルカの肩を見ていた。崩れたわけではない。ただ、長い間支えていた何かが、音もなく降りた。そういう沈み方だった。
報告書は受理されなかった。その記録を三十年間抱えてきた師匠と、共同体崩壊の沈黙を三十七年間抱えてきたドルカが、百二十一年という時間を挟んで、この審問室で初めて繋がった。
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審問が終わったのは夕刻前だった。
廊下に出ると、リーシャが先に扉を押さえていた。ハルトが出て、ラースが出て、メモが肩の上で短く羽を広げた。
「お疲れ様ですのです」
「そうですね」
足音がした。
振り返ると、ドルカが一人で廊下を歩いていた。弁護人も補佐もいない。
ハルトはそのまま立っていた。ドルカも少しだけ歩みを緩めた。
「俺が言うべきことは、今日全部言った」
「はい」
「裁定がどうなるかは、評議会が決める。俺が口を挟む話じゃない」
「はい」
「お前の申立が正しかったかどうか、俺には判断できない。だが」
ドルカは少し間を置いた。
「設計の欠陥は、設計として直せ。信念の問題にするな。それだけだ」
ハルトは何も言えなかった。言う必要がなかった。
踵を返して、歩いていった。
廊下の角を曲がるまで、背中はまっすぐだった。
リーシャが隣で小さく息を吐いた。
「……言える人なんですね」
「そうですね」
ハルトも、同じことを思っていた。
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夜、宿舎に戻ってから、しばらく天井を見ていた。
メモが枕の横に降りてきた。
「明日、裁定ですのです」
「わかってます」
「怖いですのです?」
ハルトは少し考えた。
「怖いというか……結果がどうであれ、今日の記録は残った、という感じがします。ドルカ機構長が語ったことも、ラースさんが出した書証も、消えないですから」
「消えないですのです」
「それが全部です」
目を閉じた。裁定は明日だ。評議会が何を決めるかは、もう自分の手を離れている。
グレタとヤネのために、ゲイルとハインズのために、エイラのために、百二十一年前の問い合わせ記録を三十年間胸に抱えてきた師匠のために。
そしてドルカのためでもあるかもしれない、とハルトは思った。三十七年間、間違いだったかもしれない信念を持ち続けた人間が、今日それを自分の口で言い切った。
記録が残った。それだけで、今夜は眠れる気がした。
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【あとがき:プチ解説コーナー】
今回の審問では「内部指針の設定プロセス」が問われました。現実の行政法や会社法では、組織が評価基準を変更する際は上位機関(理事会・取締役会など)の承認が必要なケースがあります。承認なしの口頭指示で審査基準が実質的に変わっていた場合、適正な決裁手続きを欠くとして違法性が問われることがあります。ただし、「善意で信じていた」ことと「手続きが正しかった」かは別々に評価されます。ドルカが最後に語った「設計の欠陥は設計として直せ」という言葉は、労務の現場でも重要な視点で、制度の問題を個人の責任に還元しない、それが制度改革の出発点です。




