第66話 百二十年前の亡霊
審問室第七番の天井は、思っていたより低かった。
ハルトは申立人席に座り、正面の証言台を見つめていた。午前第三刻を少し過ぎた頃、評議員の一人が手元の台帳を静かに閉じた。
「続いて、証人の陳述を承ります。なお、証人から本審問への参加申し出があり、評議会規則第五十一条に基づき受理済みです」
カチリ、と、後ろの扉の錠が開く音がした。
傍聴席の視線が一斉に扉へ集まる。
入ってきたのは、細身の女性だった。
その足取りには長い時間が宿っているような落ち着きがあった。草色の外套に、小脇に革の書類筒。証言台の前まで、迷いなく歩いてくる。
(テルトさん……)
ハルトは申立人席から、思わず背筋を伸ばした。
廊下での邂逅は短かった。「証言台に立つ」とだけ言って審問室に入っていったその横顔を、まだはっきりと覚えている。百二十年前の記録を携えてきた。それだけで意味が分かる人間が、この部屋にどれだけいるだろうか。
「証人、お名前をお聞かせください」
「テルト。主任騎士。副直轄部署所属」
声は落ち着いていた。タメ口で、しかし揺れ一つなく。
「本審問において、誠実に真実を述べることを誓いますか」
「うん、誓う」
コトリ、と。
テルトは書類筒を証言台の上に置いた。
■■■
「百二十年前」と彼女は言った。
「私は、ある同僚の申立に関わっていた。聖騎士団の者じゃない。補償院の前身にあたる組織の職員で、制度の不備を内部から訴えようとしていた人物だ」
評議員の一人が首をわずかに傾けた。
「補償院の前身……」
「百二十年前にも、今と同じことが起きていた。それを言いたくてここに来た。聞いてもらえるか」
「……続けてください」
テルトが書類筒の蓋を開ける。中から取り出したのは、薄黄色に変色した紙の束だった。
「これは、百二十一年前に提出された内部告発文書の写しと、評議会書証課への問い合わせ記録だ。原本は百年前の大整理で一部が失われたが、写しは記録管理局の旧索引に残っていた。私が二十年前に索引で見つけ、現物を取り寄せた。今日まで自分の書架に置いていた」
「……二十年前に?」
「本件に直接使える日が来るとは思っていなかった。でも捨てられなかった。百二十年前に私は同僚の申立が潰されるのを止められなかった。だから、せめて記録だけは残しておきたかった」
静かな一言だった。
傍聴席がわずかに揺れた。ハルトは膝の上で手を組んだまま、息を止めた。
(二十年前から……ずっと、持っていたのか)
「記録の内容を、端的に証言していただけますか」
「その同僚は当時、補償院前身組織において、審査の否決率が財務部門の内部指針によって非公式に設定されていることを問題視した。今の言い方をするなら、費用対効果目標だ。百二十年前にも、同じものが存在していた」
部屋が静まり返った。
ドアーレの席側から、代理人の低い声が上がった。「百二十年前の事例が、現審問事項に直接の証拠能力を持つとは思えません。時代が異なります」
「直接の証拠能力を問うているのではない」とテルトは静かに遮った。
「私が示したいのは、構造的欠陥の継続性だ。百二十年前に問題が指摘され、改善されないまま今日に至った。その改善されなかったという事実こそが、今この審問が扱う恣意的運用の歴史的根拠になりうる」
評議員の一人が、メモを取る手を止めた。
■■■
(構造的欠陥の、継続性……)
ハルトは頭の中で、その言葉を繰り返した。
百二十年間、誰かが問題に気づき、訴え、潰されてきた。ならば今回の事件は例外的な不正ではなく、ずっとある欠陥がたまたま今回可視化されたことになる。制度と運用の隙間に入り込んだ恣意が、二百年近く生き続けてきた。
隣の当事者席では、ドルカが書類も手に取らず座っていた。
弁護人なし、書類なし。ただ、聞いている。
(あんたは今、何を聞いているんだ)
「百二十年前の記録において、費用対効果目標に相当する内部指針はどのように記録されていましたか」と評議員が訊いた。
「口頭指示だ。文書化されていない。だから当時も証明できなかった。今回の事案と同じ構造だ」
空気が変わった、とハルトは感じた。
傍聴席が静かになる種類の沈黙ではなかった。全員が「あ」と気づいた瞬間の静けさだった。
口頭指示、文書なし。百二十年前と今と、同じ。
クロウが「口頭指示だった」と認めた。ドアーレがクロウへ口頭で伝えた。文書は残っていない。
百二十年前の同僚は、証明できなくて、申立が潰された。
「その同僚の方は、最終的にどうなりましたか」と評議員の一人が静かに訊いた。
テルトは少し間を置いた。
「組織を去った。証明できなかったから。……私は、それを止められなかった」
■■■
書類筒からもう一枚の紙が取り出された。
「こちらは、当時の評議会書証課への問い合わせ記録の現物写しだ。日付は百二十一年前の秋。問い合わせ者名は補償院記録整備室の職員で、問い合わせ内容は費用対効果に関する内部規程の存在確認。書証課の回答は『該当する内規は見当たらない』。記録がないことを、文書で確認しようとしていた」
(記録がないことを、証明しようとしていた)
ハルトの頭に、ある記憶が浮かんだ。
ラースが記録帳を持ってきたあの夜、最後の問い合わせ者の欄に「補償院記録整備室、ファルク、十六年前」とあった。
十六年前にも、同じ記録整備室の人間が、同じ壁に当たって断念していた。そして百二十一年前にも、同じことを誰かがしていた。
繰り返しは、一度だけじゃない。
ハルトが手のひらに汗をかいているのに気づいたのは、そのときだった。
メモが肩の上で「ほぉ……」と一声鳴いた。
「書証課に問い合わせて記録がないことを文書で確認して、でも壁があって……。百二十年前から同じことやってますのです。百二十年前の人も、同じ道を探して、同じ壁に当たったですのです」
小さな声だったが、傍聴席の前の方の何人かには届いたようだった。
「記録の写しは証拠書類として受け取ります」と評議員が言った。「反対尋問はありますか」
ドアーレ代理人が口を開きかけた。そのとき、ドルカが初めて動いた。
当事者席から、静かに立ち上がる。
「一点だけ、確認してよいか」
部屋の空気が変わった。代理人が驚いたように顔を向ける。ドルカは視線を向けず、テルトだけを見た。
「百二十一年前、問い合わせに行った職員の名は、記録に残っているか」
テルトが書類を一枚めくった。
「記録整備室、ファルク担当と記されている」
「いい」
ドルカが遮った。低く、短く。
「名前は関係ない」
当事者席に静かに戻る。その瞬間だけドルカの肩が止まったのを、ハルトは見ていた。
■■■
審問が午前の休憩に入ったとき、廊下に出たハルトに、リーシャが近づいてきた。
「テルトさんが廊下にいらっしゃいます。少しお話ししたいとのことでした」
「行きます」
廊下の窓際に、テルトがいた。外の光が差し込み、銀色の髪が淡く白く見えた。
「証言、ありがとうございました」
「気にしないで」とテルトは言った。「私がしたかったことをしただけだから」
「……二十年、持っていたんですか。あの記録を」
「待ってたわけじゃない。でも捨てられなかった。届く記録があれば、いつか届けられると思って」
ハルトはその言葉の重みを、この審問の場でようやく正しく理解した気がした。
「ドルカさんが、ファルクという名前を聞いて止まりましたね」
テルトが少し間を置いた。
「十六年前に、同じ記録整備室の人間が同じことをしようとして断念した記録がある。ドルカが知っていたとしたら百二十一年前と十六年前と今回と、三重になって見えただろう」
ハルトは息を吸った。
「ドルカさんは、鉱山共同体の崩壊を見て『情けが千人を沈める』と信じてきた。でも今日の証言が示したのは、崩壊の原因が情けじゃなく、百年以上続く制度の欠陥の方だった可能性かもしれない。だとしたら……」
テルトが窓の外に目を向けた。
「そうかもしれない。……でも、あの人が動くかどうかは、あの人次第だから」
午後の審問開始を告げる鐘が鳴った。
廊下に差し込む光の角度が変わっていた。
(この審問は、まだ終わらない。次はドルカが語る番だ。)
ハルトは、審問室の扉に向かって歩きだした。
---
◆プチ解説コーナー◆
今話で登場した「構造的欠陥の継続性」という論点は、現実の行政法・労働法でも重要な意味を持ちます。個別の不正よりも、同じ問題が長期にわたって繰り返されてきたという記録が積み上がると、制度設計そのものへの是正命令につながりやすくなります。
口頭指示の証明困難性については、現実の労働基準法第十五条が「労働条件は書面で明示しなければならない」と定めており、書面化が原則です。ただし評価基準や内部方針は口頭で伝達されるケースが多く、後から「言った・言わない」の問題になりやすい。テルトが使った「記録がないことを文書で確認する」という手法は、不存在証明を積み上げることで間接的に立証しようとした試みで、行政手続法第五条(審査基準の公表義務)の趣旨にも通じます。百二十一年前の人間が試みたことが、今の審問でようやく届けられた——この積み重ねが、制度改革の土台になります。




