第65話 審問、開廷
目が覚めた瞬間、今日が何の日かを思い出した。
「……審問、か」
ハルトは薄明かりの差し込む部屋で体を起こし、机の上の書証の束を確認した。
加入記録受領台帳写し。財務局議事録抜粋。クロウの兼任記録。ドアーレとクロウの間の折衝記録。ドアーレの決裁書類。
ラースが深夜に教えてくれた順番通りに並んでいる。
「時系列が見えれば、評議員にも伝わる。まず台帳から入って、お役人がどこで動いたかを追わせろ」
あの人の声を思い出しながら、ハルトは一枚ずつ確認した。識別章を外し、深夜に訪ねてきたラースの顔が、まだ瞼の裏にある。
「準備できてますのです?」
肩の上でメモが首を傾けた。フクロウ型の精霊は丸い目でハルトを覗き込んでいる。
「できてる。……たぶん」
「たぶん?」
「ポルヴォが来るかどうか、それだけが不安なんだ。招致状は送られた。でも来るかどうかは、別の話だから」
ハルトは書証の束を紐で縛り、立ち上がった。
ドアーレ側は昨日も補償院周辺を探っていたとガレオスが言っていた。(来い。頼む)ハルトはそれだけを心の中で繰り返した。
「ガレオスが見てるですのです。きっと大丈夫ですのです」
「そうだな」
廊下を出ると、リーシャが待っていた。
「おはようございます。テルトさんから、返事がありました」
ハルトは立ち止まった。
「副直轄部署から?」
「はい。昨夜遅く。……詳しくは審問室で」
リーシャの表情には、どこかほっとしたような、でも緊張の解けない複雑な色があった。ハルトはそれ以上は聞かずに頷いた。
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評議会の審問室第七番は、北棟の一角にあった。
石造りの天井は低く、窓は小さい。法廷というよりも密室に近い空間だが、評議会規則では七名以下の案件は小審問室を使用するとされているため、ここが割り当てられた。
入室すると、すでにドアーレ側の代理人が席に着いていた。
四十代とおぼしき男で、紺の官服に評議会認定の代理人章を付けている。目が細く、ハルトを見た瞬間に一瞬だけ測るような視線を向けた。
「申立人側ですか」
「はい。結城ハルトです」
「……承りました」
男は書類の一枚に何か書き込んだ。感情を表に出さない、職業的な落ち着きだった。
ハルトとリーシャが申立人席に着く。ほどなくしてドルカ・アイゼングリムが入室した。
一人だった。
当事者席に向かって真っ直ぐに歩き、椅子を引いて座る。机の上には何も置かない。弁護人なし、書類なし。
「……本当に一人で来たんだ」
「ですのです」とメモが小声で応じた。
リーシャが静かに言う。
「自分の言葉で話す、ということなのだと思います」
ドルカはこちらを見なかった。視線は正面の評議員席に向けられたまま、微動だにしない。鉱山共同体が崩壊するのを見てきた人間の目だ、とハルトは思った。その背中が、妙に真っ直ぐだった。
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「評議会受付番号六〇〇一番。アイゼングリム補償院における社会保険制度不正運用に関する申立審問を開廷します」
書記の声が石造りの室内に響いた。
評議員席には三名。中央に老齢の女性評議員、左右に中年の男性評議員が座っている。
「証人招致状への応答を確認します。セドリク・ポルヴォ氏、出席しておりますか」
一拍の間があった。
扉の近くに立っていた男が、静かに前に進み出た。
五十代手前、猫背気味の体型。目の奥に長い葛藤が滲んでいる。
「セドリク・ポルヴォ、出席しております」
ハルトは息を吐いた。
来た。本当に来た。
ガレオスとフィナが守ってくれていた。財務局に探され、逃げながら、それでも来てくれた。三年間黙っていたと言っていた。後悔を、と言っていた。
今日、その後悔に、ようやく出口ができた。
ポルヴォはハルトの視線に気づいたのか、一瞬だけこちらを見た。何も言わなかったが、ゆっくりと頷いた。それだけで十分だった。
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最初の証人はザイドだった。
内部監査官という肩書きで、証言台に立つ。引き締まった体格で、表情は審問室に入った瞬間から硬い。
「ザイド監査官。数年前の調査において、被申立人ドルカ・アイゼングリム機構長の業務監査を担当されていましたか」
女性評議員の問いに、ザイドは頷いた。
「担当しておりました」
「その際に、あなたは関係者に対して、『この件の上には、まだ段がある』と告げたとされています。その発言の意図を説明してください」
室内が静まり返った。
ザイドは一度目を伏せた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「あの時点で、私が掴んでいた情報をそのまま申し上げます」
「続けてください」
「補償院の審査基準の変更について、機構長ドルカ・アイゼングリムの意思決定によるものとされる文書が存在していましたが、同時期に財務局審査調整係との間で複数の業務連絡が存在していることを、私は内部監査の過程で確認しておりました。しかし、その文書の性質上、私単独では証拠として提出できる立場にありませんでした」
これが、「まだ段がある」の意味だった。ドルカの頭上に、もう一つの意思決定のラインがあった。そしてザイドは、それを証拠として出せないまま、あの一言だけを残して去っていた。
「機構長は、その財務局との連絡について、関与していましたか」
ザイドは少し間を置いた。
「それが、今日この場で申し上げるべき核心です」
全員の視線がザイドに集まった。
「私が確認した業務連絡の文書には、機構長の承認署名がありません。財務局審査調整係の係長であるルハン・ドアーレ氏が、審査担当者へ口頭で伝達する形式を取っていた。機構長への正式な報告ルートには乗っていなかった」
ドルカが初めて動いた。
わずかな動きだった。視線が正面から少しだけ下に落ちた。
「……つまり」
女性評議員が確認するように言う。
「機構長本人は、財務局からの費用対効果目標の設定を、正式な協議として認識していなかった可能性があると?」
「私が確認できた文書からは、そのように読み取れます」
室内がざわめいた。
ドアーレ側代理人が立ち上がった。
「評議員殿、この証言は不当です。証人は内部監査官として守秘義務を負う立場であり、機構内部文書を当審問において無断で引用することは手続き上……」
「評議会規則第五十二条。公益目的による内部文書の開示は、担当評議員の許可のもとで可能とされています」
ハルトが静かに言った。
「当評議員の許可を、この場で求めます」
女性評議員がドアーレ側代理人を一瞥した。
「許可します。続けてください、ザイド監査官」
代理人は口を閉じた。座るときに書類を強く机に置いた音が、石造りの室内に小さく響いた。
ザイドは視線を前に戻した。
「機構長が費用対効果目標について受け取っていた情報は、担当部署からの通常業務報告の形式でした。その数値の発案元が財務局側であることを、機構長が正式な協議として知らされていたかどうかは、現時点で確認できていません。これが、私が告げた『この件の上には、まだ段がある』の意味です」
静寂だった。
ドルカは机の一点を見つめたまま、表情を変えなかった。けれど、肩の力が少しだけ変わった気がした。
「……まだ、段が、か」
ハルトは小声で繰り返した。
三年前、ザイドは「まだ段がある」と言った。それはドルカの上に指示があるという意味だと思っていた。でも違ったのかもしれない。ザイドが示していたのは、ドルカ自身も知らないところで動いていたものがある、ということだったのかもしれない。
敵だと思っていた相手が、一枚岩ではなかった。
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証人尋問の合間に、短い休廷が入った。
廊下に出ると、先ほどポルヴォが証言台に立っていた時の声がまだ耳に残っている。「三年間、黙っていました。それが今日、一番最初に言わなければならないことです」。声は低かったが、揺れていなかった。
リーシャが近づいてきた。
「テルトさんの返事を、詳しく聞かせてください」
「来られる、と。傍聴席から入ってもかまわないか、という確認もいただきました。証言台に立てるかどうかも確認したい、と」
ハルトは少し考えた。テルトが来る。百二十年前の記録を抱えて、今日ここに来る。
「了解しました、と伝えてください」
「今すぐ走れば間に合います」
「行ってきてください。お願いします」
リーシャは頷いて、廊下を走り出した。
メモが肩の上でつぶやく。
「……来るですのです?」
「来ると思う」
ハルトは審問室の扉を見た。
中ではドルカが当事者席に座っている。ドアーレ側代理人が次の手を考えている。ポルヴォが自分の席で息を整えている。
そして、百二十年前の記録を持つエルフが、この場所に向かっている。
「……まだ、終わらないな」
呟いたとき、廊下の奥から人の気配がした。
軽い足音。でも確かな足音。
振り返ると、走ってきたのはリーシャではなかった。
主任騎士の制服に、五百年を生きてきた落ち着きのある目。
「遅れた?」
テルトが息を整えながら言った。
「走ってきたんですか?」
「副直轄部署に伝言が届いた時点で、今日だと思ってたんだよね。朝から準備してたから」
テルトは肩に提げた書類鞄を軽く叩いた。
「百二十年前の記録、持ってきたよ。証言台に立てるなら、立つ。」
「よろしくお願いします」
テルトは審問室の扉を見た。
「中、まだやってる?」
「はい」
「じゃあ、行こうか」
テルトが扉に向かって歩き始める。
百二十年前に誰かの申立を救えなかった。今度は届く記録がある。そう言っていたあの日、声の奥にくぐもっていた後悔が、今日の足取りにはない。
メモが耳元でそっとつぶやいた。
「「百二十年、届く記録があった」、ですのです」
ハルトは小さく笑って、扉を開けた。
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【プチ解説コーナー】
今話のポイントは「組織の決裁ラインと実際の指示系統の乖離」です。機構長が知らないところで財務局から口頭指示が流れていた可能性、これは現実でも起きます。日本の公益通報者保護法(令和4年改正)では、組織内の不正を知った者が通報した場合の不利益取扱い禁止が定められています。また、正式な決裁を経ない「口頭指示」による制度運用は、担当者個人に責任が集中するリスクを生みます。「悪意ある個人」ではなく「歪んだ構造」が問題の根っこにある、という本作のテーマがここにも表れています。




