第70話 新人社労士、今日も
翌朝、ハルトは宿舎の小窓から外を眺めていた。
石畳がまだ乾いていない。昨晩のうちに少し雨が降ったらしく、朝のしんとした空気に、濡れた地面の匂いが混じっていた。霧というほどではないが、遠くの塔がかすかに滲んで見えた。
昨日は五か所を回った。エイラの訓練場から始まり、ゲイルの詰所、外周のハインズ、文書管理課のラース、副直轄部署のテルト。それぞれの場所で、それぞれの顔を見た。全員が何かを受け取ってくれた。完全な形でなくても。
足が少し張っていた。それだけだ。
卓の上に一枚の書状が置かれていた。昨晩、帰宅後にリーシャが届けてくれたものだ。差出人は評議会庶務係。開いてみると、様式審査委員会の再建申請に関する手続き案内だった。申請書式の写しと、必要な連署者の要件が添付されていた。
主任騎士相当以上の連署、三名。
評議会内規附則第三条に基づく申請だ。長年死文化していたあの委員会が、ようやく動き始める。
(また始まるか)
ため息とも苦笑ともつかない吐息が出た。でも嫌ではなかった。制度というのはそういうものだ。一つが片付いたら次が出てくる。それを面倒に思ったら社労士は続けられない。書状を折り畳んでポケットに入れた。
肩の上でメモが寝息を立てていた。夜通し眠っていたらしく、羽の形が少し崩れている。
(お前は本当に無責任だな)
そう思いながらも、愛着があった。ステータスウィンドウの具現化、というのが公式の説明らしいが、ハルトには何かもっと別のものに思えた。この異世界で出会った一番奇妙な存在であり、一番素直な存在でもあった。
今日からまた新しい仕事が始まる。
■■■
朝霧がまだ漂っている時刻、訓練場の横の小廊下でリーシャと合流した。
「おはようございます」
「おはようございます。昨日、足は大丈夫でしたか」
「はい、少し張っていますが問題ないです。ハルトさまは」
「俺も同じです」
二人で少し笑った。法廷の場でも制度の話でもなく、ただ「足が張っている」という話で笑い合える。数か月前には想像もしなかったことだ。
リーシャが書状の写しを一枚取り出した。同じ様式審査委員会の再建申請に関するものだった。
「庶務係から副本が届いていました。連署者が三名必要とのことです」
「確認しました。ガレオス主任には声をかけやすいですね」
「テルトさんにも相談できるかもしれません。昨日の様子を見ていると」
「三人目をどうするか、ですね」
廊下の端の長椅子に並んで腰を下ろし、書状を広げた。必要な手続き、申請書の書き方、庶務係への提出期限を確認した。ハルトはメモを取りながら、ふと思った。
(また書類だ)
制度を動かすには書類が必要だ。異世界でも現代日本でも変わらない。どんなに正しいことを言っても、書面で証明されなければ制度は動かない。それがこの数か月で身をもって学んだことだった。制度に守られている人がいる。だから書類を書く。その繰り返しだ。
「申請書の下書きは午前中に作れると思います」
「はい。午後はガレオス主任に相談しに行きましょうか」
「それがいいです。先に使いを出して時間を押さえておきます」
「承知しました」
リーシャが頷いた。朝の光が廊下の石壁に差し込んでいた。今日も仕事がある。それでいい。
■■■
昼前、申請書の下書きを一通作り終えた後、二人は廊下を歩いていた。
記録管理局の脇を通ると、窓口の奥でラースの声が聞こえた。誰かと書類のやりとりをしているようだった。昨日とは別の問い合わせ者が来ているらしい。
「忙しそうですね」
「昨日言っていましたね。三十年分の問い合わせ記録を整理すると」
「師匠に報告しながら整理しているんだと思います」
低い声で、リーシャが言った。ハルトも同じことを考えていた。
百二十一年前の記録帳が、審問の証拠書類になった。文書管理課の古い棚の奥に眠っていたものだ。誰もそれが使われる日が来るとは思っていなかったかもしれない。でも記録が残っていたから、届けることができた。
制度というのはそういうものだとハルトは思った。今は使われていなくても、誰かが記録を残しておけば、いつか誰かが使う。だからラースは整理する。三十年分を、一枚ずつ。次の誰かのために。
■■■
「ハルトさま」
リーシャが少し声のトーンを変えた。
「昨日、何か言おうとされてましたよね」
「……はい」
「今日は、言えますか」
ハルトは廊下の先を見た。石壁の継ぎ目が規則正しく並んでいた。窓の外から、朝とは違う明るい光が差していた。
「リーシャ、俺はこの世界に来て、勇者として、社労士として仕事をしてきた。本当に大変な時間が続いた。騎士団の労務管理、評議会、補償院。いろんなことをやってきた。」
「君はずっとそばにいてくれた。どんなに疲弊しても、難しい課題に直面しても、離れなかった」
「いつしか、俺にはそれが当たり前になっていました。何かあったらリーシャといるから大丈夫。リーシャと一緒に立ち向かえば道が切り開ける。そこに疑いがなかった」
「だから、俺にとっての君は誰よりも、他の何よりも大切な存在なんです。その、だから何というか、、、」
リーシャはずっと、少し微笑みながら聞いていた。
「まぁつまり、何というか、これからもずっと、一緒に仕事がしたい、ということです」
リーシャが少し間を置いた。
「……勇者として、もしくは社労士として、ということですか」
「それも含めて、というか。うまく言えないんですが、、、ずっとそばにいて欲しいです」
リーシャは微笑んでいる。
(俺は勇者として異世界に来た。書類を書いて、法典を調べて、交渉して、足を運んだ。でも今ここにあるのは、書類だけじゃない)
「光栄なことです」
リーシャが静かに言った。
また間があった。今度は沈黙が重くなかった。廊下の先で誰かが歩く足音がして、また静かになった。石壁から、ひんやりとした空気が伝わってきた。
「ずっと、心からこう言いたいと思っていました」
それだけ言って、リーシャはまた前を向いた。耳の先がほんの少し赤かった。ハルトも前を向いた。
(……そういうことか)
胸の中で何かがすっと整理された気がした。特別なことは何もない。ただ、仕事を続ける。それだけのことだ。
「午後のガレオス主任への相談、準備を整えます」
「はい。書状の写しも持っていきます」
二人は歩き始めた。
■■■
夕方、中庭を抜けると、ハルトの肩の上でメモが羽をばたつかせた。
「今日もちゃんと仕事しましたのです」
「しましたよ」
「ご飯は食べるですのです」
「食べますよ」
「リーシャさんも食べるですのです」
「……食べます」
三人で連れ立って、昨日と同じ市場の方向へ歩いた。石畳は昼間の日差しをまだ少し残していた。夕方の風が、ほんの少し涼しかった。市場から焼いた野菜の匂いが流れてきた。
歩きながら、ハルトはここ数か月のことを思った。
評議会の裁定が出た。
機構への是正命令が動き始めた。
ダグラスの名前が記録に残る。
エイラの呪痕は消えた。
ゲイルが久しぶりに家族と飯を食った。
ハインズが「三年前よりはまし」と言えるようになった。
ラースが師匠の記録帳を届ける場所を見つけた。
テルトが「届いたからもういい」と言えた。
全部が片付いたわけじゃない。様式審査委員会の再建申請は始まったばかりだ。ガレオス主任も「一晩考える」と言っていた。次の誰かが同じ壁にぶつかる前に、仕組みを直しておく必要がある。制度は直したそばから新しい問題が出てくる。世の中はそういうものだ。
でも今日は、夕飯の買い物に行く。
「あっちですのです」
メモが羽で方角を示した。昨日と同じ干した野菜の露店だった。
「昨日も来たでしょう」
「来ましたのです。でも今日も来るですのです」
(毎日来るつもりか)
ハルトは苦笑しながら、リーシャと顔を見合わせた。リーシャが小さく笑った。
石畳の先を、三人で歩いた。
ハルトはふと、最初にこの異世界に来た夜のことを思った。深夜残業中に栄養ドリンクを飲んで目を閉じたら、気づいたら召喚陣の中心に立っていた。怖いよりも先に「やっと来た」と思ったのは、我ながら変だったかもしれない。
でも、来てよかったと今は思う。
新人社労士の一日が、また終わる。明日も、仕事がある。
---
あとがき
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。全七十話、お付き合いいただけたこと、心より感謝申し上げます。
【プチ解説コーナー】
最終話で登場した「様式審査委員会の再建申請」は、現実の行政における審議会・委員会の設置・廃止手続きに対応しています。日本では国の審議会等は国家行政組織法第八条に基づき設置されており、廃止や再設置には政令改正など相応の手続きが伴います。地方レベルでも条例や規則の改正が必要です。死文化した組織を「再建」するには、根拠規定の確認・必要人員の確保・業務範囲の再定義と、地味で長い作業が続きます。一つの申立が決着しても、制度改革は終わらない。それが社労士という仕事の本質でもあります。




