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第60話 受理番号の重さ

夜明けまで、あと一時間ほど。


申立書の封入を終えて封蝋を押した直後、扉に影が差した。


「ハルトさん」


リーシャの低い声。


廊下の灯火が来訪者の輪郭を切り取った。中年の男。補償院職員が着るような紺地の外套、ただし今夜は胸の徽章を外していた。


「ポルヴォさん」


ハルトは立ち上がった。


「財務局が私を探し始めたと聞きました。今夜が最後の機会かもしれない」


セドリク・ポルヴォは扉をゆっくりと押し閉め、机の前まで進んだ。靴音がなかった。廊下も、執務室に入ってからも、一切音を立てなかった。足の裏全体で床を確かめるような歩き方だった。長い間、音を立てることを恐れて生きてきた人間の癖だと、ハルトは思った。


「書面は出せない。それは変わりません。ただ、今夜あなた方が申立書を手にしているなら、伝えておくべきことがあります」


壁際でガレオスが腕を組んだ。動かなかった。


「聞く」


---


ポルヴォが語ったのは、三年前のことだった。


費用対効果目標が補償院の審査に持ち込まれたとき、それを発案し財務局内部で承認を通したのは、財務局審査調整係の係長、ルハン・ドアーレという人物だった。


「ドアーレ係長は、それを業務内の裁量として処理しました。評価基準の変更にあたるかどうかの判断を回避し、理事会への報告を行わなかった」


「補償院理事会規程第五条は、評価基準の変更について理事会の承認を要件にしています。私が内部監査として当時の決裁書を確認した際、理事会承認の参照番号が欄に入っていなかった。承認を経た記録が存在しない」


「越権の証拠になりますか」


ハルトが聞いた。


「そうです。ただし、その決裁書は財務局の内部文書です。私が取り出すことはできない」


「では」


「評議会に申立書が受理され、正式な審問が開かれれば、話は別です」


ポルヴォは静かに続けた。感情の揺れを抑えた声だった。


「評議会には証人招致の権限があります。招致状が届けば、私は出頭できます。口頭で証言することはできる。内部監査の立場で見た事実を……」


ハルトの肩の上でメモが小さく動いた。


「書面では動けないが、召喚されれば来られる、ですのです」


「そういうことです」


リーシャが机の上の封筒を見つめた。


「なぜ今夜、ここへ来てくださったんですか」


ポルヴォは少し間を置いた。


「三年前、私はドアーレ係長の決裁書を見て、おかしいと思いました。でも申告しませんでした。職を失うのが怖かった」


静かな声だった。後悔とも諦めともつかない、重さのある声だった。


「あなた方の申立書が受理されれば、私は証人として名前を出せる立場になります。そうすれば、三年間黙っていた分の……少しは」


言葉が止まった。


ガレオスが低く言った。


「ルハン・ドアーレ。財務局審査調整係長。覚えた」


ポルヴォはうなずいた。


「申立書が受理される前に財務局に見つかれば、私は証人として使えなくなる。今日中に、財務局の外に出なければなりません」


「わかりました」


ハルトは封筒を手に取った。


「評議会が開いたら、すぐに出します」


ポルヴォは一度だけ頭を下げて、部屋を出た。靴音は最後まで鳴らなかった。


廊下に出た気配が消えてから、三人はしばらく黙っていた。壁際の灯りが小さく揺れた。


リーシャが口を開いた。


「信じていいのか」


「信じるかどうかより、使えるかどうかを考えるほうがいいです」


ハルトは申立書の封筒を机の端に揃えた。


「あの人は三年間、証拠を抱えて黙っていた。招致状が来れば出頭すると言った。それだけで十分です」


ガレオスが短く言った。


「あとは俺たちが受理させればいい。さっさと行くぞ」


---


夜明けと同時に三人は団を出た。


ガレオスが先を歩き、リーシャが申立書の封筒を胸に抱えた。メモがハルトの肩の上で辺りを見回した。


「評議会の開局は早朝四刻ですのです」


「知ってる」


「財務局の朝礼は五刻ですのです。一時間の差があるですのです」


「わかってる」


石畳の上で影が三人分伸びた。朝の光が低かった。


街はまだ眠っていた。パン屋の煙突から白い煙が上がり始めていたが、表通りに人はいなかった。早朝のこの時間に動いているのは、何かを急いでいる人間だけだ。


三つの事案を一枚の申立書に束ねた。ダグラスの加入記録欠落と、七名分の受領日のズレ。費用対効果目標の越権設定と、理事会連絡事項欄に残ったクロウの財務局出席記録。クロウ本人の「口頭で指示を受けた」という言葉と、ハルト・リーシャ・ガレオス三名による目撃署名。


全部が一枚の封筒に入っていた。


(業務連絡メモは添付できなかった。でも、ポルヴォさんが来てくれた)


「逃げ道のない書面を出したい」とリーシャが言った。「俺の名前があれば、評議会が受けにくくなる。それだけだ」とガレオスが言った。


どちらも正しかった。


ガレオスが足を止めたのは、評議会の正門が見えてきた角だった。石造りの門柱、その左脇に小さな受付窓口の灯が見えた。


「おい」


短く呼んだ。


「俺が窓口に出る。封筒はリーシャが持て」


「わかった」


灯が夜明けの中でゆっくりと明るくなっていった。


---


「こちら、申立書の記載内容に財務局の内部資料が言及されておりますが」


封筒を受け取った瞬間、窓口の官吏が眉をわずかに動かした。


「はい」


「財務局側の……承認印が」


「評議会への申立書に、財務局の承認印を求める規定は、評議会規則のどこにありますか」


官吏の手が止まった。


ガレオスが一歩前に出た。声は低かったが、廊下に通った。


「財務局は、この申立の対象機関だ。対象機関の承認を取るという手続きが存在するなら、評議会規則の条文で示せ」


短い沈黙。


官吏は一度窓口の奥を振り返り、棚から薄い冊子を取り出した。評議会規則の条文一覧だった。何ページかめくって、しばらく目を走らせた。


ガレオスは動かなかった。リーシャも動かなかった。ハルトも動かなかった。


官吏が顔を上げたとき、表情が変わっていた。条文が見つからなかった顔だった。


官吏の視線がハルトに移り、リーシャに移り、ガレオスの胸の主任騎士章に止まった。それから封筒に戻った。


「……受理いたします」


スタンプが押される乾いた音が廊下に響いた。


「受付番号、六〇〇一番。正式受理です」


「申立内容の通達について確認させてください」


ハルトが言った。


「七日以内の通達とは、具体的にどこへ」


「評議会規則第四十一条に基づき、申立内容を調査対象機関の長に正式送達します。アイゼングリム補償院機構長、ならびに財務局審査調整係……」


「係長名で届きますか」


「……はい。担当係長への送達が規則の定めになっております」


ハルトは息を止めた。


ドルカ・アイゼングリム機構長へ。ルハン・ドアーレ財務局審査調整係長へ。


両方に、七日以内に届く。


七日後には、相手は申立の存在を知ることになる。証拠を片付けるにしても、証人を手配するにしても、それまでの時間しかない。そしてポルヴォは今日中に財務局の外に出る。七日間は、全員にとって同じ長さで流れる。


メモが耳のそばで小さく言った。


「七日で二人がどう動くか、ですのです」


---


外に出ると、石畳に三人分の影が伸びた。


ガレオスが一言だけ言った。


「ダグラスの名前が、ようやく動く」


それだけだった。


リーシャが受付票を手で覆うように持った。複写三枚。申立人欄にハルトの名前、リーシャの名前、ガレオスの名前が並んでいた。


受付票の紙は薄かった。でも、その三枚が今、公式記録になっていた。六〇〇一番という番号が打ち込まれ、評議会の受理印が押された。取り消せない。財務局が何を言おうと、受理番号は消えない。


リーシャが一度だけ目を閉じた。ハルトには、その理由がわかった。


「ポルヴォさんが、審問まで身を隠せるかどうか」


「待てると思います」


ハルトは言った。根拠があったわけではない。ただ、昨夜の靴音のない歩き方を思い出した。廊下でも執務室でも、一切音を立てなかった。足の裏全体で床を確かめるような、ああいう歩き方は、長い間じっと待つことに慣れた人間のものだ。


(三年間、あの人は黙って待っていたんだ。今回は招致状が届く。)


ダグラス・ブランネンの名前が申立書に書かれていた。加入日の記録が失われ、七名分の受領日がずらされた。そのために被った不利益は、時間では返ってこない。でも、記録は訂正できる。評議会の受付番号がある限り、審問は開かれる。それで十分かどうかは分からないが、何もしないよりは違う。


「次は証人招致状ですのです」


メモが首を傾けた。


「ドアーレ係長の顔、見てみたいですのです」


ハルトは朝の空を見上げた。


建物の向こうから光が差し込んでいた。七日間の幕が上がった。


---


あとがき


【プチ解説コーナー】


今回の評議会申立は、現実の行政不服申立法に対応しています。行政機関の決定や制度の運用に納得できない場合、上位の機関や審査機関に見直しを求めることができる制度です。


受理後に「対象機関の長への通知義務」が生じるのは、同法に近い考え方です(行政不服申立法第17条などに相当)。通知が届くことで、相手方にも審問への対応準備義務が生まれます。


実務上の注意点:行政不服申立には厳格な期限があります(処分を知った日の翌日から原則3ヶ月以内)。制度の存在を知らないまま期限を過ぎるケースも多いため、処分を受けた際は早めに専門家への相談をおすすめします。

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