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第59話 名前を添える夜

朝の詰め所は薄暗かった。


東の窓から斜めに差し込む光が石床に細い線を引いている。ハルトは手の中にある薄い紙の束を見下ろした。申立書の草稿だ。昨夜、三人で何度も確認して仕上げたものだった。


「来てもらえてよかったです」


グレタが扉の前に立っていた。ドワーフ族特有の厚みのある肩が、いつもより小さく見える。隣のヤネが母の半歩後ろに立ち、ハルトに視線を向けた。十五歳にしては落ち着いた目だと、ハルトはあらためて思った。


「昨日の続きをお伝えしたかったので」


リーシャが静かに話し始めた。


「クロウさんが認めました。財務局の審査調整係から、加入件数を絞るよう口頭で指示を受けたと」


グレタが小さく息を吸った。


「台帳については、ガレオス主任が書記室通過の全件を洗い出してくださって。クロウさんが書記室を兼任していた期間に、東の渡渉任務の参加者七名全員の加入記録に受領日のズレがあることを確認しました」


「……七名」


「全員です」


「ダグラスだけじゃなかった」


静かな声だった。感情を抑えているのではなく、受け止めるのに時間がかかっているのだとハルトには聞こえた。


ヤネが口を開いた。


「証明できるんですか。ちゃんと、書類で」


「台帳の写しが手元にあります」とハルトは答えた。「理事会の連絡事項記録に、クロウさんと財務局審査調整係の協議参加記録があります。クロウさんの発言は、俺とリーシャさんとガレオスさんの三人が証人になります」


ヤネが母の横顔を見た。グレタは石床に視線を落としたまま動かない。


「……お父さんは、まじめな人でした」


ヤネがつぶやくように言った。


「月初めには必ず書類を出していたと、ロック・ヘインさんが証言してくれました」


「それで十分ですか」


「十分だと思っています」


廊下の陰でガレオスが腕を組んでいた。話す気がないのかとハルトは思っていたが、ゆっくりと前に出てきた。


「ダグラスは俺の部下だった。東の渡渉任務の指揮は俺が取った。記録が残っていないのは、俺の管理の問題でもある」


グレタが顔を上げた。


「書き直せるなら、俺が書く。名前が消えたままにはしない。それだけだ」


ヤネが唇をきゅっと引き結んだ。それから息を細く吐くように「……ありがとうございます」と言った。


グレタが片手で目を覆った。そのまましばらく動かなかった。泣いているのではなく、何かを押さえ込んでいるような沈黙だった。


「五年、かかりました」


メモがハルトの肩でぴょこりと羽を広げた。


「あと一ピースですのです」


誰もツッコまなかった。


■■■


補償院の廊下は午前から人の出入りが多かった。


ハルトとリーシャが別件の確認のため窓口に立ち寄ると、フィアが分厚い台帳を小脇に抱えて出てきた。いつもより表情が固い。


「少しよろしいですか」


フィアが二人を廊下の端に引いた。


「昨日からです。財務局からの来院者が少し増えていて。内部の方のようなのですが、職員証を出さずに確認だけして帰っていくんです」


「何を確認しているか、わかりますか」


「わかりません。でも一昨日と昨日で三名です。通常、こういった非公式の来院はほとんどありません」


リーシャがハルトを見た。


「ポルヴォさんが探されているかもしれません」


フィアが小声で続けた。


「私には確認できないことですが、もし何か動かれるつもりなら、早い方がいいかもしれません」


「ありがとうございます。助かります」


フィアがわずかに頷いた。それから振り向かずに廊下を歩いていった。


メモがハルトの肩で翼を小さく畳んだ。


「時間がないですのです」


■■■


書証課からの回答は夕方に届いた。


薄い封筒の中に、折りたたまれた一枚の紙が入っていた。リーシャが広げて声に出して読んだ。


「財務局審査調整係の業務連絡メモに関する文書存在確認申請について、書証課は本件文書の保管機関に当たらないため、確認ができかねます。対象文書が財務局内部の慣行文書に該当する場合、評議会への申立または財務局長への開示申請による対応が必要です」


リーシャが紙を机に置いた。


「管轄外、か」


「でも、存在しないとは言っていない」


「そうですね」


ハルトは窓の外を見た。日が傾いている。業務連絡メモの存在は確認できなかった。添付できないまま、申立書を評議会に提出するかどうかを決めなければならない。


(今出すか、もう一手待つか)


「出さずに待てば、財務局が先手を打つ。出せば、メモという最後の証拠が揃わないまま評議会に立つことになる」


「でも」とリーシャが言った。「今ある三点は書面で残っています。台帳も、理事会記録も、クロウさんの発言を聞いた証人も。それは消えません」


「消えない」


「ポルヴォさんは書面では動けないと言いました。でも、ポルヴォさんが動けなくなったら、口頭指示を出した人物を証言できる人間がいなくなります。今出すべきです」


ハルトは答えなかった。


リーシャが続けた。


「私はそう思います」


メモが小さく首を傾けた。


「難しいですのです。でも……あと一ピースはなくても、今あるピースは本物ですのです」


ハルトはゆっくり頷いた。


■■■


夜、執務室に三人が集まった。


ガレオスは壁際に立ち、腕を組んだまま動かない。リーシャは申立書の草稿を机に広げ、ハルトが端に灯台を置いた。


「整理します」


ハルトは声に出した。自分の思考を固めるためだった。


「証拠は三点。台帳データ、七名分の受領日ズレとクロウ兼任期間の一致。理事会連絡事項記録、財務局審査調整係との協議参加記録。クロウの発言、証人三名。これだけで、ダグラスの加入記録欠落が意図的な処理遅延によるものだという根拠を評議会に示せます」


ガレオスは何も言わなかった。


「業務連絡メモは書証課では確認できませんでした。申立書を出した後、評議会への別途開示申立か、財務局長への直接申請で追う必要があります」


「つまり」とガレオスが言った。「今出す、ということか」


「財務局がポルヴォさんを探しているなら、あの人を証言者として頼めなくなる前に動く必要があります」


「メモなしで評議会に立てるか」


「立ちます」


ガレオスは短く息を吐いた。


「わかった」


リーシャが申立書の草稿を手に取った。しばらく読んでいた。それから静かに顔を上げた。


「名前を書かせてください」


ハルトは少し間を置いた。


「リーシャさん、連署すれば申立人になります。財務局に目をつけられる可能性がある。団内での立場にも、影響が出るかもしれません」


「わかっています」


「それでも、ですか」


リーシャが机の上の申立書を見た。


「お母さんは、様式が間違っていたから退けられました。書き直す機会も与えられないまま」


ゆっくりとした声だった。


「今回の申立書には、私の名前を入れます。書証課から様式が間違っていると言われたら、私が出し直します。財務局がこの申立を退けるなら、正面から理由を言わせます。逃げ道のない書面を出したいんです」


ハルトは何も言わなかった。


ガレオスが壁から離れた。


「俺も入れろ」


短く言った。


「主任」


「俺の名前がある申立書の方が、評議会が受けにくくなる。それだけだ」


リーシャが羽根ペンを取り上げた。申立書の連署欄に、自分の名前を書いた。続けてガレオスの名前を添えた。インクが乾くまで、三人とも動かなかった。


メモが翼をたたんだ。


「……やりましたのです」


小さな声だった。


■■■


夜が深くなってからも、三人は申立書の最終確認を続けた。


一枚ずつ声に出して読み、数字と名前を照合し、受付番号と日付を確かめた。証拠の写しを並べ、申立書の本文と矛盾がないか照らし合わせた。


明日の朝一番で評議会へ。


それだけが、今の全部だった。


ハルトは申立書を丁寧に折り畳み、封に入れた。


(これが届けば動く。この申立書が評議会に届けば、財務局の誰が口頭で指示を出したのかを正式に問える立場に、俺たちはなる)


ガレオスが席を立った。


「明日は俺も行く」


「ありがとうございます」


「礼はいらない。ダグラスの件で俺がいなければ信用が薄れる。それだけだ」


武骨な言い訳だった。ハルトは頷くだけにした。


リーシャが窓の外を見た。空の端が、少しだけ白み始めていた。


「もう、夜明け近いですね」


「長かったですね」


「……はい」


封を机に置いた。


廊下で、足音がした。


一つではない。急いでいる。ハルトはリーシャと目を合わせた。ガレオスが扉の方を向いた。


足音は執務室の扉の前で止まった。ノックが三回。


扉が、開いた。


---


あとがき:プチ解説コーナー


「書証課の管轄外」という回答は、現実でも起こりうる状況です。内部文書の存在確認を求めても「うちでは管理していない」と言われ、どこに申請すればいいのかがわからなくなる。日本の公益通報者保護法(2022年改正・第3条・第7条)は内部告発者への不利益取扱いを禁じていますが、口頭指示が常態化した組織では記録が存在しないこと自体が「制度的な逃げ道」になることがあります。ポルヴォのように書面では動けない証言者が存在する状況は、現実の内部告発者が置かれる立場と重なります。ハルトたちが「三点の証拠で立つ」と判断したのは、完全な証拠を待つことが逆に証拠を消す結果につながりかねないという実務的な判断でもありました。

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