第58話 七名分の台帳
第五十八話 七名分の台帳
朝の空気はまだ湿っていた。
ハルトが詰め所の扉を押すと、ガレオスがすでに椅子に座っていた。机の上には書類の束が積んである。昨日の倍はある。
「洗い出しが終わった」
それだけ言って、ガレオスはハルトを見た。リーシャが立ちかけるのを、手一本で制した。
「座ってろ。長くなる」
三人で机を囲んだ。
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「部隊再編後に書記室を通過した書類を全部洗った。クロウが受付を兼任していた期間は約半年だ。それより前と後の記録も含めて比べた」
ガレオスが一枚の紙を机の中央に置いた。数字と名前が並んでいる。
「受領日がズレているのは七名分だ。ダグラスを含めて、全員が東の渡渉任務の参加者だ」
ハルトは紙を引き寄せて数字を追った。
七名。受領日の欄が、いずれも提出日から十二日から十七日後になっている。クロウが兼任していなかった時期の台帳を見ると、同じ月初めの書類は翌日か翌々日には受領されている。
「偶然じゃないですね」
「偶然で出る数字じゃない」
ガレオスが腕を組んだ。
「七名全員が東の渡渉任務の参加者で、全員が同じ期間だけ処理が遅れている。その間、受付を兼任していたのはクロウ一人だ」
リーシャが紙を手に取り、名前を一つずつ確認するように視線を動かした。
「七名のうち、ダグラスさん以外の方には……現在も書記室に在籍記録が残っているのですか」
「残っている。受領日がズレているだけで、台帳には記録されている。問題になったのはダグラスだけだ」
ガレオスはそこで一拍置いた。
「ダグラスが殉職して、はじめて誰かが記録を照合した。生きていれば、このズレは誰も掘り返さなかった」
部屋がしばらく静かになった。
メモが肩の上で翼をわずかに動かした。
「他の六名の方は弾かれなかった理由は何ですのです」
「ダグラスが殉職したのは、クロウの兼任期間が終わってから三か月後だ。年金の申立が発生したのが、ダグラスだけだった。在籍中は、受領日のズレで問題は起きない」
ハルトは机の上の数字を見つめた。
クロウが書記室を兼任した半年間、東の渡渉任務参加者の記録を一律に遅延させていた。ダグラスが殉職したとき、その遅延が遺族年金の却下理由として使われた。
事故ではなく、仕組みだった。
「他の六名の名前と所属も書いた」
ガレオスがもう一枚紙を出した。
「申立に使えるなら使え」
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昼前、書状が一通届いた。
差出人の名前はなかった。封を開けると、短い文章が数行。
財務局審査調整係の内部に「業務連絡メモ」と呼ばれる慣行文書がある、と書かれていた。正式な議事録ではなく、各係が日々の業務で口頭確認した内容をその日のうちに手元に残す申し送り文書だ。会議の決定ではなく、担当者が手元に書き留めておく覚書に近い。
その下に、こう続いていた。
「私はその存在を知っています。しかし、直接取り出すことはできません。評議会の書証課を通じた文書存在確認申請という手段があります。財務局はその存在を否定できないはずです」
ハルトは文字を追いながら頭の中を整理した。
書証課を使った文書存在確認。補償院の開示申請とは別の経路だ。
メモが首を伸ばして書状を覗き込んだ。
「表には出られないけど、道だけは示してくれるわけですのです」
「そういうことだ」
ポルヴォは証言者にはなれない。けれど申請の向きを示すことはできる。
ハルトは書状を折って上着に入れた。今日の午後、書証課へ申請書を提出する。回答は七日以内のはずだ。
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夕方、廊下にガレオスが一人でいた。
壁に背を預けて、腕を組んで、ただそこに立っている。誰かを待っているわけでも、何かを考えているふうでもない。
「主任」
「ああ」
ハルトも立ち止まった。
「今日の洗い出し、ありがとうございます。主任の管轄を超えた範囲の書類も全部洗ってくれた」
「仕事だ」
廊下の先で誰かが通り過ぎる足音がした。消えてから、ガレオスが低い声で言った。
「俺が当時、書記室をもっと確認していれば」
ハルトは何も言わなかった。
「ダグラスの記録がちゃんと残っていれば、グレタは五年も待たずに済んだ。ヤネも十五まで、あんな暮らしをしなくて済んだ。俺の管轄で起きたことだ。俺が見ていなかったから、そうなった」
否定しなかった。事実だから。でも今それを言っても、何かが変わるわけじゃない。
「でも主任は今、全件洗い出しをやってくれた。記録には戻せます」
ガレオスは短く息を吐いた。
「だから全部終わらせる。残りはお前がやれ」
そのまま廊下の先へ歩いていった。
ハルトはその背中を見送りながら、その言葉を頭の中で繰り返した。
全部終わらせる。
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夜、三人で机を囲んだ。
「証拠の整理をします」
ハルトが声に出して確認する。
「一つ目は、ガレオス主任が洗い出した七名分の受領台帳データです。クロウが書記室を兼任していた半年間だけ、東の渡渉任務参加者の受領日が一様にズレている。七名全員が同一の任務参加者で、同じ期間に処理が集中している」
「二つ目は、理事会の連絡事項記録です。クロウが財務局審査調整係との連絡会議に出席していた記録。財務局との接点が書面で残っている」
「三つ目は、クロウ本人の発言。財務局審査調整係から口頭で加入件数を絞るよう指示を受けたと認めた。三名が直接聞いている」
「四つ目は、申請中です。財務局審査調整係の業務連絡メモの存在確認。回答は七日以内」
リーシャが草稿から顔を上げた。
「……私も、申立に名前を入れたいです」
ハルトが見た。
「連署です」
「リーシャ?」
「ダグラスさんは記録の上で五年間、名前がなかった。グレタさんとヤネさんは、その五年間をそのまま生活していた」
リーシャは静かに続けた。
「以前、記録がなかった者のために誰かが動いてくれれば、と思ったことがあります。母が様式不備で申立を退けられたとき。当時に誰かがいてくれれば、と。だから私も申立人として名前を入れたいです」
ガレオスは腕を組んだまま黙っていた。
ハルトは少し間を置いてから、うなずいた。
「わかりました。連署で出します」
メモが翼を小さく打った。
「記録に残る人数が、一人増えたですのです」
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申立書の下書きが揃ったのは夜も遅い時間だった。
ガレオスが先に立った。
「夜中に読んどく。朝に返す」
出て行く足音が遠くなる。
ハルトとリーシャだけが残った。
「明日の朝、グレタさんに会いに行きましょう」
リーシャが言った。
「七日後に動ける可能性があることを、伝えないといけません。待ってもらうにしても、理由がいります」
「そうですね」
ハルトは書類を重ねた。
グレタはこの数日、何も知らないまま待っている。ヤネも工場行きを保留にしたまま待っている。
七日。財務局が先に動くかもしれない。それでも、止まるわけにはいかない。
メモが耳元で静かに言った。
「業務連絡メモの存在が確認できたら……口頭指示でも、痕跡は必ずどこかに残るはずですのです」
「ああ」
ハルトは窓の外を見た。
夜の城壁が暗く続いている。
ダグラスの名前を、台帳に戻す。それだけだ。
七日後の回答で、申立書の最後のピースが揃う。
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あとがき
今回のテーマは「加入記録の保全義務」です。現実の日本では、事業主には被保険者の加入に関する届出義務が課されています。そして記録の管理が不正確だと何が起きるか、これは「消えた年金」問題として実際に社会問題になりました。二〇〇七年、五千万件を超える年金記録の名寄せができていないことが発覚し、受給できるはずの年金を受け取れていない人が多数いたことが判明したのです。記録さえ残っていれば守られる権利が、記録の不備一つで消えてしまう。制度は申請すれば守られるのではなく、記録がなければ権利そのものが証明できない、という現実を突きつけた事件でした。ダグラスの話はフィクションですが、同じ構造の問題は現実にも確かにあったのです。




