第57話 封書の重さ
翌朝の連絡室は、ぬるい光の中にあった。
書き物机の角に肘をついたまま、リーシャが窓の外を見ていた。朝の空気はまだ冷たく、厩の方向から馬の鳴き声が一度だけ聞こえた。
「書証課の回答、七日以内でしたね」
「はい。期限まではまだ余裕があります」
「来るかもしれませんね」
「来ないかもしれません」
俺は机の上の湯飲みを持ちかけて、やめた。中身はとっくに冷めていた。来るかどうかより、何と書いてあるかだ。三月の理事会議事録が正式な記録として存在しないという事実は、ポルヴォの証言で確認している。それを公式書類の形にするための手続きが、書証課への確認だった。文面さえそろえば、次の手が打てる。
財務局からの正式回答は、まだ二日あるはずだった。クロウが財務局の審査調整係に出向していたという人事記録を、公式文書として受け取るまでの期限だ。
「メモ」
肩の上でちいさな羽が動いた。
「なんですのです」
「何か感じるか」
「何かとは何ですのです」
「何でもいい」
少し間があった。
「廊下の伝令が、いつもより早く来ましたのです。二通持ってましたのです」
俺は立ち上がった。
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廊下を出たところで、顔見知りの伝令とすれ違った。差し出された封書を受け取って、差出人を確かめた瞬間、少しだけ息が止まった。
一通目は、評議会書証課。二通目は、財務局記録管理部。
財務局まで、二日早い。
「……向こうが先手を打ってきたんですか」
リーシャがそっと言った。
「どちらにしても、回答が来ました」
俺は一通目を先に開けた。書証課の文面は短かった。
「本局において、補償院理事会 本年三月定例会議の議事録を、正式記録として確認することができなかった旨を報告します。評議会書証課 管理録 第三七八号」
一行だ。たったの一行で、クロウが費用対効果目標を持ち込んだ時期の理事会が、記録の上で存在しないことが正式に証明された。
二通目を開けた。財務局の文章は少し長かった。
「照会番号四三〇七号 ヴィサル・クロウ外周警備部門統括主任の財務局勤務記録について、当局が保有する人事異動記録に基づき、次の通り回答します。クロウ・ヴィサル、五年前の春から翌年初頭にかけて、財務局審査調整係において短期出向勤務の記録が存在します。財務局記録管理部 記録管理課長」
印が押してあった。
俺は二通を机の上に並べた。二日早く来た。コスが言っていた言葉を思い出した。「内部での整理が必要な状況でして」。あの男が今、回答書を出してきた。誰かに言われたのか、それとも自分の判断か。どちらにせよ、書面は本物だ。
「全部、そろいました」
リーシャが言った。
「そろいました」
「ガレオスさんに報告します」
「はいですのです。今すぐですのです」
メモが肩から飛び上がった。俺は二通の封書を手に、廊下へ出た。
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ガレオスは訓練場の端にいた。見習いたちの朝礼が終わったばかりで、石畳の上に影が長く伸びていた。
「主任」
声をかけると、ガレオスは振り向かなかった。が、返事はあった。
「来たか」
「書証課の回答と、財務局の出向記録、両方届きました。財務局からは二日早かったです」
今度は振り返った。書面を受け取って、黙って読んだ。読み終えてから、もう一度、書証課の一行に目を落とした。
「公式書類として使えるか」
「書証課の管理録番号が入っています。評議会でも通ります」
「財務局の方は」
「記録管理課長の印が入っています。人事異動の公式記録の写しです」
ガレオスは書面をたたんで、俺に返した。少し間があった。
「今日の午後、クロウを呼び出す。俺の管轄の統括主任として正式に呼ぶ。名目は書類の確認だが、それで十分だ」
「立ち会わせてください」
「来い」
それだけだった。
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午後、外周詰め所の小会議室に、ヴィサル・クロウが現れた。
五十代の、体格のいい男だった。外周警備部門の統括主任という肩書きの割に、物腰は柔らかい。入室した瞬間、目だけがリーシャと俺の方を素早く確かめた。
「呼ばれましたので」
ガレオスを見て、それだけ言った。
「座れ」
クロウは素直に腰かけた。膝の上で、両手が組まれた。
ガレオスが机の上に二通の書面を置いた。
「書証課と財務局の記録管理部から届いた。見るか」
クロウは書面に目を落とした。手が止まった。顔には何も出なかったが、膝の上の手が一度、動いた。
「……誰が照会しました」
「俺の管轄でやった。問題があるか」
「いいえ」
クロウは視線を上げなかった。
「クロウさん」
俺は口を開いた。
「ダグラスさんの加入記録の受領台帳に、十四日分の受領遅延が記録されています。当時、書記室の受付を兼任されていたのはあなたですね」
「記録の通りです」
「ダグラスさんは毎月二日か三日に書記室に提出していた、という同僚の証言があります。遅延はダグラスさん側の問題ではありません」
クロウは黙った。
「先週、書記室の担当者が変わりましたね」
「クロウさんのお名前がこちらの調査に出てきた、その直後です。財務局の記録管理部でも、同じ動きがありました」
部屋の中が静かになった。
「担当者を入れ替えた判断は、あなたご自身のものですか」
クロウの体が、わずかに固まった。
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ヴィサル・クロウ
ネゴシエイト:焦り(高)、恐怖(高)、諦め(上昇中)
状態:誰かを庇っているが、限界が近い
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……上から連絡があった」
低い声で言った。
「担当を替えるよう、指示が来た。自分の判断ではない」
「誰からです」
「言えません」
「言えないのか、言いたくないのか」
クロウは答えなかった。ガレオスが机に片肘をついた。
「クロウ。ダグラスは俺の部下だった。俺が指揮した任務で死んだ。記録が抜けているとしたら、俺の怠慢だと五年間思ってきた」
静かな声だった。感情がないのではなく、感情を押さえ込んでいる声だった。
「お前が意図的に遅らせたのか」
クロウは机を見ていた。長い間があった。
「……財務局から、部隊再編後の加入件数を絞るよう言われた。補償院の財政審査が強化される前だったが、方向性は決まっていると言われた。書面ではない。口頭で」
「誰から」
「答えられません」
「部署は」
「……審査調整係、と聞いた」
俺とリーシャは、互いに顔を見合わせた。ポルヴォが言っていた。費用対効果目標を財務局審査調整係に持ち込んだのはクロウだ、と。だがクロウを動かしたのは、その審査調整係の中の誰かだ。
「当時の担当者名は出せますか」
「出せません」
「記録は残っていますか」
クロウは静かに首を振った。
「口頭だったので、残っていません。俺一人では、どうにもならなかった」
ガレオスがゆっくりと立ち上がった。
「五年だ」
クロウを見下ろして言った。
「ダグラスの息子は今年十五になる。五年間、父親の名前が記録の上にない。それはお前が財務局の指示を聞いた結果だったということか」
クロウが顔を上げた。初めて、ガレオスの目を正面から見た。
「……はい」
一言だけ言った。
部屋の中が静かになった。外で風が動く音がした。
「書面で証言は出せるか」
「出せません」
「いつかは出せるか」
クロウはそれには答えなかった。だが視線は、逸らさなかった。
ガレオスは出口に向かった。
「引き続き調べる。連絡する」
それだけ言って、部屋を出た。
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詰め所を出ると、夕風がびゅっと吹いた。石畳が橙色に染まっていた。
「書記室の担当者変更は、上からの指示だったと確認できました」
リーシャが静かに言った。
「財務局の審査調整係の中の、誰かです」
「クロウを動かせる立場の誰か。費用対効果目標がそこから来たとすれば、ポルヴォさんの証言と一本につながります」
「係長が承認したと言っていましたね」
「係長だけじゃない可能性もある」
メモが肩の上で首を傾けた。
「財務局の係長が承認して、理事会を通らずに費用対効果目標になった、という話ですのです」
「そういうことです」
「難しいですのです」
「難しいですよ」
俺は足を止めた。空は橙から青に変わりかけていた。グレタが今夜も、鍛冶の手を動かしているはずだった。ヤネが今日も、工場に行かないまま夜を迎えているはずだった。
ガレオスが隣に立った。
「部隊再編後に書記室を通った全件を洗う。同時期に登録漏れが出ている可能性がある。それは俺がやる」
「お願いします。こちらは財務局の上の人間を特定します」
「手がかりはあるか」
「ポルヴォさんがいます。ただ、書面では動けないと言っていました」
「証言者を一人どこかで押さえるしかないな」
ガレオスはそれだけ言って、歩き始めた。
俺はもう少しその場に立っていた。財務局の中の、名前のまだわからない誰かが、五年前にクロウを動かした。理事会の議事録が消えたのも、同じ手が動いた可能性がある。これまで追ってきた制度の欠陥は、誰かが意図的に作ったものだった。次は、その誰かと向き合うことになる。
「行きますか」
リーシャが声をかけた。
「行きます」
夕日が、石畳の上を引いていった。
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プチ解説コーナー
今回の話に出てきた「加入記録の受領遅延」は、現実では厚生年金保険の適用漏れ問題に対応します。使用者が社会保険の加入届を意図的に遅らせた場合、労働者は本来受けられる給付を受け取れなくなるおそれがあります。こうした不正は、給与明細・出勤簿・同僚の証言などの書類をそろえることで記録訂正を求めることが可能です。日本年金機構の相談窓口や、労働基準監督署への申告も選択肢の一つです。ただし証拠の保存期間に制限がある場合もあるため、気づいたときの迅速な行動が重要です。




