第56話 壁の内から声
財務局の裏手に回ると、石畳の路地が続いていた。昼間は荷の搬出入に使われるだけの場所で、夕刻になれば人の影はなくなる。荷受け台の脇に積み上げられた木箱の匂いと、向かいの棟から流れてくる蝋燭の灯りがあるばかりだ。
指定された場所は「東の裏門、荷受け台の横」だった。ハルトとリーシャはそこで、書状に記された刻を待った。
「……本当に来るでしょうか」
リーシャが静かに言った。緊張を押し殺している声だった。
「来ると思います。書状の文面に義務感みたいなものがあって」
「義務感、ですか」
「誰かに頼まれて書いた感じじゃなかった。自分で判断して書いてきた、という手ごたえがあった」
肩の上でメモが翼を開いた。
「書いてきた人、ずっと葛藤してたですのです。オラインさんとは違う葛藤。あっちは上の指示に縛られてる。こっちは……自分の良心と戦ってたですのです」
木箱の裏側で、石畳を踏む音がした。
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現れたのは、五十代半ばと見える男だった。
官服の衿元は几帳面に整えられている。髪はほとんど白く、目の下の疲労の跡が深い。ただ立っているだけで、何年分かの重さをそのまま体に染み込ませた人間の立ち方をしていた。
「結城ハルト殿、ですな」
抑えた声だった。周囲を素早く確認してから、男は荷受け台の影に入った。
「そうです。書状を送ってくださったのは」
「私です。財務局内部監査係のセドリク・ポルヴォと申します」
男はそれだけ名乗ると、しばらく黙った。どう話し始めるか、まだ決まっていないらしかった。
「ヴィサル・クロウのことを調べているそうですね」
「はい。加入記録の受領日と、費用対効果目標の設定経緯を確認しています」
「費用対効果目標」
ポルヴォは小さく目を細めた。
「……そこに辿り着きましたか。私が黙っていられなくなったのも、そこです」
懐から紙を一枚取り出し、手の中で開いた。手書きの覚え書きだった。インクの跡が所々にじんでいる。
「五年と少し前のことです。クロウ殿が財務局の審査調整係に短期出向してきた。名目は業務効率化の連携協議。珍しくはない話です。ただ、クロウ殿が持ち込んできた資料が、おかしかった」
「おかしかった、というのは」
「財務局が作った数字じゃなかった。補償院の給付が聖騎士団の財政に与える影響を試算した資料でしたが、書式が違う。出典の記載の仕方が財務局内部の形式と一致しない。後から気づきました。あれは財務局の分析ではなく、聖騎士団の側が作ってきたものです。それをクロウ殿は、財務局の独自分析として係長に提示した」
石畳の上に、音が消えた。
「つまり」
ハルトは口を開いた。
「費用対効果目標は財務局からの要請ではなく、クロウさんが財務局に持ちかけた話だった、と」
「そうです。補償院の審査基準を締め付けるよう、財務局を通じてクロウ殿が働きかけた。設定したのは財務局の係長です。でも発端はクロウ殿の側にあった」
リーシャが静かに息を呑む気配があった。メモは翼を畳んだまま、動かなかった。
「係長は当初から乗り気でした。財政健全化の話は歓迎される。私は気になって、試算の出典を正式な連携文書に残すべきではないかと意見を出しました。聞き入れられなかった。そのまま補償院への費用対効果目標の実施が決まった」
「補償院理事会の承認は通りましたか」
「三月の定例理事会で審議する予定でした。ところが当日、評価基準変更に当たるという異議が出た。正式手続きが必要だという意見が出て、議論になった。そして……三月の議事録が、なくなりました」
「なくなった」
「議事録起草を担当した者が翌月に異動になった。後任者は引き継ぎを受けておらず、三月の記録を確認しようとしたら作成中のまま正式登録がされていなかった。私が内部で確認しようとしたら、上から手を引くよう言われた」
ハルトは頭の中で話の筋を辿った。
費用対効果目標の設定は、クロウが財務局に持ち込んだ発案だった。財務局の係長が承認し、補償院に実施させた。しかし理事会の正式な承認審議で異議が出た。その議事録が消えた。
「ポルヴォさん。これを書面で証言していただくことはできますか」
男は首を振った。一度だけ、硬く。
「できません。家族がいます。財務局の中でこれを正式に出せる立場に、私はない」
◆◆◆ネゴシエイト◆◆◆
対象:セドリク・ポルヴォ
状態:恐怖(持続)、決意(限界均衡)、後悔(積年)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
恐怖と後悔が、同じ重さで張り合っている。どちらも本物だ。押せば崩れる。ここで押すべき局面ではない、とハルトは判断した。
「わかりました。今日話してくださったことだけで十分です。ありがとうございます」
ポルヴォは少し意外そうな顔をした。
「……もっと食い下がるかと思っていた」
「書面で出せないものを出させることはできません。そういうやり方はしたくない」
短い沈黙があった。ポルヴォは目を伏せた。
「……三月の議事録の不在を書証課が正式に確認したなら、費用対効果目標の設定に正規の承認が存在しないことになります。その場合、目標値を実施させる法的根拠が失われる可能性がある。それだけは言えます」
「ありがとうございます」
男は路地の奥へ消えた。足音が石畳から消えても、しばらく誰も動かなかった。
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帰り道、ハルトとリーシャは並んで歩いた。空の端が薄く橙色に染まって、もうじき夜になる。
「クロウさんが財務局に話を持ちかけた側だとすれば、財務局はある意味、使われた立場ですね」
リーシャが言った。
「そうです。係長に承認した責任はある。でも発端はクロウさんの側にあった。財務局が一枚岩でないのも、こういう経緯があるからかもしれない」
「では……三月の議事録が存在しないことを書証課が確認すれば」
「費用対効果目標の設定が理事会の正式な承認を経ていなかったことが証明できます。補償院理事会規程第五条は評価基準の変更に理事会承認を要求している。それがなければ目標値は無効で、その目標値を根拠に却下されてきた審査の判断も、根拠を失う」
メモが翼を広げた。
「ダグラスさんの加入記録の問題と、今日の費用対効果目標の話、どっちもクロウさんが絡んでるですのです」
「うん。記録操作と審査基準の操作、二つが同じ人間に繋がっている。費用対効果目標で審査を締め付けつつ、ダグラスさんの加入記録の受領日をずらして記録に不備を作った。どちらも、遺族年金を出させないための仕掛けだった可能性がある」
リーシャが足を止めた。
「つまり、グレタさんの件は最初から意図的に仕組まれていた、ということですか」
ハルトは即答しなかった。まだ証明できていない。でも線は見えている。
「書証課からの回答が来るまであと数日。財務局の正式回答はあと二日。その前に向こうが動く可能性はある。急いで証拠を揃えないといけない」
「ガレオスさんに今日の話を共有すべきですか」
「はい。今夜のうちに」
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詰め所の扉を叩くと、ガレオスはすぐに出てきた。鎧ではなく軽装だった。帰り支度のところだったらしい。
ハルトが今夜の話を伝える間、ガレオスは腕を組んだまま一言も挟まなかった。
「……クロウが財務局に話を持っていったとすれば」
ガレオスがようやく口を開いた。
「あいつが単独で動いていたにしては、規模が大きすぎる。上に誰かがいる可能性は考えたか」
「あります。ただ、今はまだそこまでの証拠がない」
「書証課の回答を待て。証拠が揃った段階で、俺から正式にクロウに呼び出しをかける。それまで動くな。向こうに逃げる時間を与えるだけだ」
「わかりました」
「一つだけ聞く」
ガレオスの目が、まっすぐハルトを見た。
「費用対効果目標が無効になれば、グレタの遺族年金は出るか」
ハルトは少し間を置いた。
「出ます。ダグラスさんの在籍は任務報告書と証言で証明できます。加入記録の受領日のずれがクロウさんによる意図的な操作だと証明できれば、記録の不備は補償院側の問題になる。再審査の義務が生じます」
「そうか」
ガレオスは扉の方を向いた。背中を向けたまま、一呼吸おいて言った。
「ダグラスが死んで五年だ。遅すぎた。でも、間に合わせる」
ハルトは何も言わなかった。
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その夜、机に向かって今日の経緯を記録していた。メモが傍らで羽を休め、リーシャは隣の椅子で目を閉じている。蝋燭の火が揺れるたびに、壁の影が伸び縮みした。
書証課への申請は出した。財務局の正式回答はあと二日。クロウへの呼び出しはガレオスが動く。費用対効果目標の無効を証明できれば、ゲイルとハインズの件も、グレタの件も同じ根拠で動ける。
ただ一つ、まだわからないことがあった。
クロウが動いたとして、その上に誰かがいるのか。
聖騎士団の財政を理由に補償院を締め付ける。遺族年金を出させない。それで誰が得をするのか。ドルカではない気がした。数字と規則で動くあの男に、こういう裏工作の発想はない。
メモが首を傾けた。
「考えすぎですのです」
「……そうですね」
「でも」
メモが続けた。
「クロウさんの書類が財務局に残っているとしたら、財務局の正式回答の中に出てくるかもしれないですのです。あと二日ですのです」
ハルトはペンを置いた。
あと二日。向こうが動くなら、こちらも止まれない。今夜できることはやった。残りは待つことだ。
書証課の封書が届いたとき、そこに何が書かれているかで、次の一手が決まる。
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【あとがき】
プチ解説コーナー
今回の56話では「評価基準の変更と承認手続き」が焦点になりました。現実の行政手続きでは、国や地方自治体・公的機関が審査基準を変更する際には、法律や規則に定められた手続きを経る必要があります(行政手続法第5条・第12条などが定める公表・審査基準の設定義務がその代表例です)。機関内部の規程によっては、理事会や委員会の議決を必要とする場合も多く、これを経ずに行われた審査基準の変更は「手続き上の瑕疵」として法的に争われることがあります。「承認を経ていないなら無効」という論点は、実際の不服申立や行政訴訟でも使われるものです。ただし現実には「手続き上の瑕疵があっても実体の判断に問題がなければ有効」とされるケースもあり、手続き論だけで勝ちきれる保証はありません。ハルトたちがそこをどう乗り越えるかは、また次の話で。




