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第55話 議事録の空白

朝の詰め所に、薄い光が差していた。


石壁は冷えたままで、外の石畳はまだ水けを含んでいる。ハルトは椅子に腰を落として、窓の格子越しに空を見ていた。曇っているが、雨ではない。


「何刻ですのです」


メモが肩の上でもぞっと動いた。眠いのか、尾羽をぱたっと一度動かしてからまた目を閉じかけた。


「八刻半過ぎです。書証課が開くのが九刻からだから、届くとしたらそれ以降です」


「まだありますのです」


「うん」


三日待った。


財務局の面談から三日が経っていた。理事会議事録の回答期限がここで切れる。


(費用対効果目標の設定が理事会の承認を経ているかどうか。そこが全部の根っこになっている)


補償院理事会規程第五条。評価基準の設定と変更には理事会の承認が必要と明記されている。もしその承認記録が存在しなければ、機構長が理事会を経ずに費用対効果目標を設定したことになる。越権かどうか、制度的な根拠の有無が問われる。


グレタが今月分の家賃をなんとか乗り越えたとしても、次の月がある。ヤネが工場の見習いを断った、という話をガレオスから聞いていた。あの十五歳が待っている間に、動かなければならなかった。


問題は、その記録がどう出てくるか、だった。


■■■


扉が開いたのは九刻を少し過ぎた頃だった。


リーシャが書類の束を両腕で抱えて入ってきた。走ってきたのか、息がわずかに弾んでいる。耳が少し後ろに倒れていた。急いできた時の癖だ。


「届きました。評議会書証課から、補償院理事会の議事録です。設立から昨年末分、全期間分で届いています」


「全部。ありがとうございます」


受け取ると、紐で束ねられた羊皮紙が何枚もある。厚みは指二本分ほど。


メモが眠そうな目を薄く開けて覗き込んだ。「多いですのです」


「百年以上ある。費用対効果目標の設定時期だけ見ます」


チェックリスト改定の日付は四月十一日。その直前の三月に、財務局との協議と目標設定があったはずだった。ハルトは束の中ほどを引き出して、日付を追った。


前年二月の定例……次が四月の臨時……。


手が止まった。


二月と四月の間が、ない。


「リーシャさん」


「はい」


「前年三月の議事録がありません」


リーシャが横から覗き込んだ。二月の定例と四月の臨時が並んでいる。その間は、完全に空白だった。


「……欠落しています」


メモが羽を立てた。


「開かれてなかったんですのです? それとも記録が消えたんですのです?」


「そこがわからない」


ハルトは同梱の別の書類を探した。補償院年次業務計画書。理事会の定例開催スケジュールが書いてある。前年三月——定例理事会、第三週金曜。


「予定はある。ということは、理事会は開かれたはずです。でも議事録がない」


机に手を置いた。


費用対効果目標の設定に対応する理事会の記録が、存在しない。


承認があったかどうかを書面で示せない。


それは、機構長の決定が理事会規程の外で行われた可能性が高い、ということを意味していた。


(議事録の欠落だけでは「承認がなかった」とは言い切れない。でも、承認があったと主張するなら記録を出せ、と言える)


「三月の議事録の不存在を、正式に確認する手続きが必要です。開示された全期間分に欠落があることを評議会書証課に書面で確認して、その欠落部分を改めて請求します」


(欠落があると主張するだけでは弱い。欠落の事実を書面で返してもらうことで、初めて証拠になる)


声が、思ったより静かに出た。


メモが「でっかい話ですのです」と耳元で言った。


■■■


ガレオスは廊下の柱のそばに立っていた。届いたら知らせるよう、昨日頼んでいた。


ハルトが話し終わると、ガレオスは腕を組んだまま少し黙ってから口を開いた。


「それで、何が変わる」


「費用対効果目標の設定に理事会の承認記録がなければ、機構長が業務規則の外で決定を下していたことになります。補償院理事会規程第五条の問題です」


「機構長が勝手に決めた、ということか」


「財務局側の要請を受けた可能性が高いとは思っています。ただ、正式な手続きなしで実行していれば、機構内部の権限問題になります」


「証明できるか」


「三月の議事録の不存在を公式に確認してから、それを根拠に動く手順が要ります。今日中にはできません」


ガレオスは黙った。


廊下の先を誰かが横切って、遠くで足音が鳴った。それが消えてから、また静かになった。


「ヤネが昨日、また来た」


遮るように言った。


「工場の見習い先を、断ったそうだ。もう少し待つと言ったらしい」


「……主任が説得したんですか」


「俺は何も言ってない。あの子が自分で決めたとグレタから聞いた」


ガレオスは壁から離れて廊下の先を向いた。大きな背中が、光の薄い通路に立っていた。


「俺に何ができるかはわからん。ただ記録は出させる。それだけだ」


三日前と同じ言葉だった。でも今日は違う重さがあった。


一度言ったことをもう一度口にする時、人は諦めているか、それとも今もそこに立っているかのどちらかだ。ガレオスの声は後者だった。


「ヤネくんが待っている間に、動きます」


ガレオスは何も言わずに歩き出した。角を曲がる前に、一度だけ頷いた。


■■■


詰め所に戻ると、リーシャが議事録の残りを並べたまま別のページを確認していた。


「費用対効果目標とは別に、気になる記述がありました」


机に広げた紙の一点を指で示した。


議事録の末尾、連絡事項欄。「関係機関との協議記録」という項目がある。


前年の二月定例——財務局審査調整係との業務効率化連絡会議。参加者一覧。


聖騎士団側の参加者として、ヴィサル・クロウの名前が記されていた。


ハルトは声を出さずに、その行を二度確認した。


「前年二月。チェックリスト改定の二ヶ月前です」


「書記室への兼任が始まった直後の時期です。部隊再編より後で、費用対効果目標の設定より前」


リーシャが続けた。


「クロウは財務局と補償院の業務調整会議に、聖騎士団の代表として出席していました。その直後に書記室の担当者の顔が変わって、ダグラスさんの加入記録の受領日に十四日のズレが生じています」


メモが机の縁に降りて、首を傾けた。


「財務局との協議があって、書記室兼任になって、記録がズレた。この順番ですのです」


「そうです。誰かに頼まれたのか、クロウ自身が判断したのかはまだわかりません。でも書面で確認できる接点が、ここにあります」


ハルトは机に手を置いたまま、少し考えた。


財務局との協議記録。クロウの書記室兼任。ダグラスの加入記録の受領日のズレ。


三つが時系列でつながった。それぞれ単体では状況証拠でしかなかったものが、今、一本の線になっている。


(動ける。証明まではまだかかるが、この線がある限り、動ける)


その時、扉が開いた。


伝令の見習いが一人、封書を持って立っていた。


「財務局記録管理部より。ハルト様宛に、至急の書状です」


受け取って封を開く。紙は一枚だった。短い文字が書いてある。


「ヴィサル・クロウ氏の出向記録につきまして、開示できる情報がございます。本日夕刻、担当者以外の者が直接ご面談を希望しております。場所は財務局の外でお願いしたく」


リーシャが横から覗き込んだ。


「まだ三日あるのに。向こうから出てきました」


「財務局の公式回答より前に、内側から誰かが動いている」


メモが羽を一度大きく広げた。


「葛藤が高い人が、オラインさんだけじゃなかったんですのです」


ハルトは書状を折りたたんだ。


財務局は一枚岩ではない。三日前、オラインを前にした時に感じていた通りだった。指示に従っているだけで、腑に落ちていない。そういう人間が、一人ではなかった。


そして今日届いた議事録が示しているのは、財務局の側でも誰かが何かを知っていて、何かを選んでいる、ということだった。


ネゴシエイトのスキルは使っていない。使わなくても、今日の書状からは、そこに人がいることが伝わってくる。


「行きます」


リーシャが「私も同行します」と言った。


「はい、お願いします」


声に出してから、窓の外を見た。


朝の曇り空が、昼に向けてわずかに明るくなっていた。石畳の水気が飛んで、光が戻りつつある。


今日の夕刻、またひとつの扉が開く。それが何を示すことになるのか、まだわからなかった。でも今は、動ける。


---


【あとがき】


プチ解説コーナー


今話では「理事会議事録の欠落」が重要な手がかりになりました。現実の行政機関では、審議会や委員会の議事録は作成・保存が義務とされています。情報公開請求に対して「文書が存在しない」という決定を下す場合も、その旨を書面で申請者に通知しなければなりません(行政機関の保有する情報の公開に関する法律第九条第二項)。また「記録がない=承認されなかった」とは直ちに言い切れませんが、承認があったと主張する側がその記録を示せない場合、意思決定の正当性は大きく揺らぎます。企業や行政組織では稟議書・決裁文書の保存が管理義務の基本とされており、記録の欠落は手続きの不備を強く示唆します。「記録が存在しない」という事実の確認そのものが、制度の是正を求める根拠になりうる点は、現実の情報公開実務でも同様です。

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