第54話 照会の向こう側
財務局の回廊は、朝の空気をそのまま溜め込んでいた。
石柱が両側に並んでいて、補償院と比べると人の気配が薄い。硬い足音だけが廊下に響く。ハルトは肩の上のメモをそっと起こしながら、扉の先を確認した。フクロウ型の精霊は眠そうに羽を一度動かして、また目を閉じかけた。
「財務局記録管理部というのは、補償院とは別の管轄ですよね」
リーシャが手帳を開きながら言った。
「評議会の会計部門の傘下です。ただ補償院の費用対効果目標を月次で設定しているのは財務局だと、K審査員から聞きました」
「そこが今回、クロウの人事照会の件で俺たちを直接呼び出してきた。おかしくないですか」
「おかしい、というのは」
「照会を出した側が回答を待つのが普通です。財務局がこちらに連絡してきた、ということは、こちらの動きを事前につかみたいか、あるいは」
メモが耳元でぱたっと翼を鳴らした。
「記録をどう処理するか、まだ迷ってるんじゃないですかのです。事前に整理が追いついてない感じがするんですのです」
「それなら、今日中に何かわかります」
石段を上って扉を押すと、蜜蝋の匂いが漂ってきた。
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受付に出てきたのは、五十代ほどの小柄な男だった。白髪が混じり始めていて、官服の袖口がわずかに皺になっていた。名前を告げると、相手はすぐに「奥の応接室へどうぞ」と案内した。
部屋はテーブルひとつに椅子が四つだけだった。窓が一枚、外の光が細く入ってくる。
男はオライン・コスと名乗った。
「様式第三十五号によるご照会の件で、いくつか確認事項がございまして」
「はい」
「ヴィサル・クロウという人物の、財務局への出向記録についてですが」
オラインは書類の一枚を手に取り、一度だけ視線を落とした。それからハルトを見た。
「当該期間の人事異動台帳を確認いたしましたところ、現時点では……内部での整理が必要な状況でして」
ハルトは待った。
「内部での整理」と、静かに繰り返した。「記録が存在しない、ということでしょうか。それとも、存在はしているが今は開示できない、ということでしょうか」
オラインの肩が、ほんのわずかに固まった。
ネゴシエイトの感触が来た。狙ってスキルを使ったわけではなかったが、相手の輪郭がすっと読めた。迷っているのではない。言ってはいけないと判断している。自分ではなく誰かの指示に従っている人間が持つ、特有の固さだった。
◆◆◆ネゴシエイト◆◆◆
対象:オライン・コス
状態:服従(確定)、不安(継続中)、葛藤(高)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……現在確認中です」
「確認中ということは、記録は存在している、という理解でよろしいですか」
「その点については……内部で」
「記録が存在しているかどうかは、存在するかしないかのどちらかです。確認中という回答は、どちらの可能性も現時点では排除していない、ということになりますよね」
オラインは答えなかった。
メモがハルトの耳元で囁いた。
「この人、言いたいことはあるけど言えない状態ですのです。苦しいのが滲み出てるんですのです」
ハルトは視線を書類の束に向けたまま、続けた。
「ご担当の方が独自に判断されているわけではないことは、わかります。ただ、人事局を経由した正式な照会への回答は、照会主体に書面で戻るのが通常の手順です。財務局記録管理部がご連絡くださったということは、何か確認したい事情があったはずですよね」
「……はい」
「その事情を、教えていただけますか」
長い沈黙があった。
窓の外で、鳥が一声鳴いた。
「……五日、お時間をいただけますでしょうか。書面にてご回答いたします」
「五日以内、ということですね」
「はい」
「わかりました。なお、五日以内に書面による回答がない場合は、評議会規則第三十五条に基づき追加の照会手続きをとることになります。よろしくお願いします」
オラインは小さく頭を下げた。その時、初めて肩がわずかに落ちた。苦しいのが、その一動作に出ていた。
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外に出ると、石畳の広場に午前の光が斜めに伸びていた。
「記録は存在すると確認できました」リーシャが歩きながら言った。「否定しませんでした」
「そう。あの方が言えなかったのは、言うなと言われているからだと思います」
「書記室の担当変更の件と、同じ流れですね。クロウの名前が表に出た直後から、記録に触れる場所の人間が動かされ始めている」
「何かを整理しようとしている。あるいは隠そうとしている人間が、財務局の中にいる」
ハルトは少し間を置いた。
「ただ、あの担当者は自分がやっていることに腑に落ちていなかった。指示に従っているだけで、自分の意志ではない。ネゴシエイトでそれが出ていました」
「それは……つまり」
「財務局の内部でも、対応が一枚岩ではないかもしれません」
メモが肩の上でくるっと一回転した。
「理事会議事録の回答があと三日で来るんですのです。財務局の五日より先ですのです」
「うん。理事会議事録に費用対効果目標の議決記録があれば、そこから財務局が誰を通して何を動かしたかを追えます。クロウの出向記録を待つより早く動けます」
「楽しみですのです」
「楽しみかどうかはともかく」
ハルトは石段を下りながら、小さく笑った。
通路の角を曲がったところで、見知った人影が壁際に立っていた。
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「財務局か」
ガレオスはそう言って、壁から背を離した。
「はい。記録は存在すると確認できました。五日待ってほしいと言われましたが、理事会議事録の回答が三日後に来ます。そちらが先になります」
ガレオスは短く「そうか」と言った。
廊下に三人が立ったまま、少し間が空いた。
ハルトは迷ってから、口を開いた。
「昨日、グレタさんに立て替えを申し出ていましたよね」
ガレオスの目が動いた。
「余計な話をするな」
「はい。ただ、ヤネさんが……」
「それも聞いた」
声は低かった。廊下の石を見ながら、続けた。
「あの子が礼を言いに来た。ダグラスが俺の下にいたことを、恥だと思ったことはないと言った。記録の上に父がいないことが、ずっと嫌だったとも」
リーシャが「主任」と呼んだ。
ガレオスは顔を向けなかった。
「それが、よけいきつかった」
廊下に音がなくなった。
ハルトは何か言おうとして、やめた。言葉が出てこなかった。責任を抱えて五年過ごしてきた男が、息子に「恥じたことはない」と言われた。その重さを、言葉で軽くする気にはなれなかった。
「どうしていいか、わからなくなる」
「主任は、ずっとそれを抱えていらっしゃったんですね」
リーシャが静かに言った。
ガレオスは「余計なことを言うな」と繰り返した。でも今度は声が違った。さっきより低くて、静かだった。怒っているわけじゃない。それだけ言うのが精いっぱい、という感じの声だった。
「記録は出させる」とガレオスは言った。「それだけだ」
そのまま廊下を歩いていった。大きな背中が、角を曲がって見えなくなった。
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夕方、ハルトとリーシャは詰め所の机に向き合って座っていた。
「理事会議事録の回答が三日後に届きます。費用対効果目標の議決記録があれば、その設定に誰が関与したかを追えます」
「財務局がどう関わったかがわかります。クロウの出向記録と照合できれば、加入記録欠落との繋がりが証明できる可能性があります」
「財務局の回答は五日。こちらが先に動けます」
「だから財務局は、先手を打とうとした。照会が来たとわかった瞬間に、こちらの動きを確認しに来た。あの担当者を呼び出しに使ったのも、おそらく上の判断だ」
リーシャが手帳を閉じた。
少しの間があって、「ガレオス主任は……今日は少し違いましたね」と言った。
「ヤネに言われたことが効いたんだと思います。責任を背負い続けていても、息子にああ言われるとは思っていなかったんでしょうね」
「……そうですね」
リーシャは少し下を向いた。
「私も、母のことを思い出しました。母は、申請書を何度出しても通らないたびに、隣の見習いが泣かないように笑顔を作っていたと聞きました。ガレオス主任は当時何もできなかったと言っていましたが、きっとずっと思い出していたんだと思います」
「うん」
「でも主任は今、動いています。それだけで……」
リーシャは続けなかった。ハルトも何も言わなかった。
窓の外が橙色に変わってきた。どこかで夕の鐘が遠く鳴り、石畳の向こうから人の声が流れてきた。メモが肩の上で羽を畳み、「そろそろ夕飯のことを考えた方がいいと思うんですのです」と言った。
ハルトは橙色を見たまま、「そうだな」と答えた。
三日。理事会議事録が届くまで、あと三日だった。
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【あとがき】
プチ解説コーナー
今話は「照会への回答を引き延ばす」という行政側の対応が焦点です。現実の情報公開法では、行政機関は請求受理から原則三〇日以内に開示・不開示の判断を示す義務があります(行政機関の保有する情報の公開に関する法律第十条)。「内部確認中」という状態を無期限に続けることは認められておらず、延長する場合も書面での通知が必要です。また「記録が存在しない」と言い切ることと「確認中」という回答では法的な意味が大きく変わります。「存在しない」は事実の否定ですが、「確認中」は存在の可能性を排除していません。今回の財務局担当者の応答が実質的な存在確認として機能したのは、そういう理由からです。なお異世界の制度は現実とは異なる設定ですが、この「回答の仕方が持つ意味の違い」は現代の情報公開実務でも同様に重要なポイントです。




