第53話 借りのある男
翌朝、ハルトは執務室のデスクに財務局への照会手順を走り書きしたメモを広げていた。
「人事局に様式を出して、クロウ統括主任の財務局出向記録を開示させます。五〜六年前の出向期間と担当業務が特定できれば、費用対効果目標の設定時期と重なるかどうか確認できます」
「重なれば、クロウが目標設定に直接関わっていた根拠になる」
リーシャがペンを走らせながら繰り返した。ハルトの肩の上でメモがぽつりと「また書類ですのです?」と首を傾けた。
「たぶん」
「七日後ですのですか?」
「……おそらく」
メモが「ほーー」とだけ言って黙った。
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人事局の窓口担当者は、穏やかに笑いながら引き出しから書式を取り出した。
「外部からの人事記録照会は様式第三十五号の提出が必要になります。回答期限は一週間以内です」
(また七日か。)
「承りました。今日中に記入して提出します」
廊下に出たところで、メモが「七日後って言ったじゃないですかあ」とぼやいた。
「分かってて聞くのやめてください」
リーシャが静かに言った。「規則通りにやれば、必ず答えは出ます」
ハルトは頷いた。「そうですね」
そう言いながら、内心では別のことを考えていた。
(クロウは俺たちの動きを知っている。五日前に証言を拒否した。照会が出たと分かった瞬間、何かを動かす可能性がある。)
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昼を少し過ぎた頃、グレタとヤネが詰め所の扉を叩いた。
グレタは椅子に腰を落とし、少し間を置いてから口を開いた。「一つ、相談があります」
「どうぞ」
「ヤネに、機織り工場の見習いの口が来まして」
ヤネが俯いた。グレタが続けた。
「知り合いの親御さんが世話してくださいました。月給は三十グラル。二人分の生活には足りません。でも、今の内職に足せれば、何とかなります。問題は、今月末に家賃の支払いがあって、現状では二十グラルほど足りない」
グレタの声は、静かだった。感情を押しつぶした、静かさだった。
「理事会の回答まであと四日あります。それまでに、何とかしないと」
「母さん」
ヤネが顔を上げた。十五歳の目だった。「俺が工場に行く。母さんが内職を無理に増やすより、俺が働いた方が早い」
「あなたはまだ十五よ」
「でも、現実として——」
「工場へ入ったら、続きの勉強はどうする」
「そんなことを言っている場合じゃ、、、」
廊下から足音が近づいてきて、止まった。
扉が開いた。
ガレオスが入ってきた。会議室からの帰り道なのか、腰に剣帯はつけていない。扉の前で全員を見渡した。
「話が聞こえた」
グレタが立ちかけた。ガレオスは手を挙げて制した。
「座っていろ」
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テーブルのそばに立ったまま、ガレオスはグレタを見た。
「工場へは行かせるな」
「でも、現実として……」
「ダグラスは毎月ちゃんと出していた」
ガレオスの声が落ちた。大きくはなかった。でも、部屋の端まで届いた。
「あいつは律儀な男だった。俺が指揮した任務でそれは分かっていた。記録が消えたのは、俺の管理下の誰かがやったことだ」
リーシャが「ガレオス主任」と小さく言った。
ガレオスは椅子を引いて、グレタの向かいに座った。慎重な動作だった。普段の武骨さとは違う、何かを慎んでいるような座り方だった。
「今月末の家賃は俺が立て替える。理事会の回答が出るまで。記録は必ず出させる。俺が保証する」
グレタの唇が動いた。「そんなことを……主任が自腹で」
「ダグラスは俺の指揮で死んだ。それだけだ」
沈黙が続いた。
グレタの目が赤くなっていた。それでも泣かなかった。両手をテーブルの上に置いて、静かに「……ありがとうございます」と言った。
ヤネがガレオスを見た。ずっと下を向いていた目が、まっすぐ向けられた。
「父が主任の下にいたことを、恥だと思ったことはありません」
ガレオスが目を動かした。
「記録の上に父がいないことが、ずっと嫌でした。父が存在しなかったことにされているみたいで」
ガレオスは何も言わなかった。
ヤネが続けた。「……ありがとうございます」
ガレオスは顎を一度、小さく動かした。礼とも頷きとも取れない、短い動作だった。
ハルトはその場で、手元の資料をそっと伏せた。
(社労士の立場で言えば、これは団が対処すべき案件だ。ガレオスが個人で立て替えても、制度の根本は変わらない。)
(でも、今ここで最初に動いたのは、制度でも書類でもなかった。)
◆◆◆スキャン結果◆◆◆
対象:ガレオス(主任騎士)
状態:個人的責任の自発的引受(制度的対象外)
注記:団の管理責任は別途処理が必要
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
メモが肩の上で低く「情と責任が混ざってますのです。でも……これは、悪い混ざり方じゃないですのです」と囁いた。
ハルトは内心でだけ思った。
(この人のこと、俺、嫌いじゃなかったな。)
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午後、様式第三十五号を提出して書記室の前を通ったとき、リーシャが小声で言った。
「先週と担当者が違います」
窓口に座っているのは若い男だった。書類を整理しながら顔を上げた。ハルトと目が合った瞬間、すぐに視線を外した。
(クロウが書記室で加入記録を処理していた事実が明るみに出た。その直後に担当者が変わった。)
(偶然かもしれない。でも、タイミングが良すぎる。)
メモが「あの人、固まってましたのです。こっちを見た瞬間」と囁いた。
「記録は動かせません」ハルトは足を止めずに言った。「証言も残っています。今さら手を入れても遅い」
「そうです」とリーシャが答えた。
でも引っかかりは消えなかった。クロウが証言を拒否した。書記室の担当者が変わった。今日、財務局への照会を出した。向こうも動いている。
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執務室に戻ると、机の上に封書が置かれていた。
差出人:財務局記録管理部。
ハルトが封を切った。
「本書面は照会申請の受理確認ではございません。貴殿の申請に関連して確認事項があり、明日午前、財務局記録管理部担当官との面談をお願いしたく存じます」
リーシャが覗き込んで、眉を寄せた。「呼び出しです」
「そうですね」
メモが首を傾けた。「え、こっちから行くってことは、追い返されてるのと違うんですかあ?」
「違います。向こうから呼んできた。こちらの照会を受けた上で、確認したいことがあると言ってきた」
リーシャが静かに言った。「呼ぶ理由が、申請内容の確認とは限りません」
ハルトは封書を丁寧に折り直した。「でも、無視したら向こうのペースです。行きます」
窓の外に橙色の光が差している。
理事会議事録の回答まで、あと四日。
財務局の扉の向こうで、何かが待っている。
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**あとがき・プチ解説コーナー**
今回のテーマは「使用者の年金記録管理義務」です。現実の日本では、厚生年金の加入記録は事業主が従業員の資格取得・喪失を届け出る義務を負っており(厚生年金保険法第二十七条)、届け出を怠った場合の責任は原則として事業主にあります。二〇〇七〜二〇〇八年に社会問題になった「消えた年金記録」では、社会保険庁の処理ミスや照合漏れが原因で、受給者が自分の記録を自分で証明しなければならない逆転現象が起きました。ダグラスの件と同じ構造です。記録は守る人がいなければ、静かに消えていきます。




