第50話 外部理事
朝、廊下に人影があった。
北棟の突き当たり、ガレオスが扉の前に立っていた。
こちらの姿を見て、顎を少し動かした。
「コート・ジルバから返事が来た」
ハルトは足を止めた。
「どうでしたか」
「第七年次の副本は手元にある。書類棚を探したら出てきた」
(あった)
「ただ、加入記録の正本については」
ガレオスは少し間を置いた。
「部隊再編の後、団本部の書記室に一括提出したはずだと言っていた。自分の手元には戻っていない」
(書記室。五年前の書類がまだそこにある可能性がある)
「書記室に確認を取れますか」
「今日中に問い合わせる。ただし五年前の書類だ。保管期限の確認が必要になる」
「コート・ジルバさんに直接話を聞ける機会をいただけますか」
ガレオスは腕を組んだ。
「午後に時間が取れる。外周警備の詰め所に連絡を入れておく」
それだけ言って、ガレオスは廊下を折れた。
リーシャが帳面に書き込みながら隣に並んだ。
「書記室の文書保管規則を確認します。年次によって保管場所が変わる規定があったはずです」
「お願いします。ヴィサル・クロウという名前のことも、今日ガレオス主任に聞いてみます」
「承知しました」
■■■
午前中に補償院へ向かった。
費用対効果目標の開示申請(様式第三十号)を提出してから七日が経っていた。回答期限は明日だった。念のため事前に確認に来た。
受付窓口にフィナが一人でいた。フィアの姿はなかった。
「回答は届いていますか」
「昨日来ました」
フィナは机の下から封筒を取り出した。
「外側には開示結果回答書って書いてある。まあ、中身は見なくてもわかるんだけどね」
中を開けた。
補償院業務規則第十八条の三(審査基準の内部管理文書に関する規定)を根拠に、不開示とする。
(第十八条の三)
その条文番号は、ハルトがこれまで一度も読んでいない番号だった。業務規則を何度か通読したはずなのに、記憶にない。
「第十八条の三というのは、どういう条文ですか」
フィナは窓口の外を一度確認してから、声を少し落とした。
「フィアに朝聞いたら、本則の後ろのほうにある古い附則みたいな条文だって言ってた。三百年ぐらい前のものらしい。今日外部理事さんが来てるから大きな声では言えないんだけど」
(外部理事)
「今日、どなたがいらしているのですか」
「オルテガ翁。機構の外部理事で、評議会の長老格でもある人。用もなく時々ふらっとやってくるんだよね」
フィナは少し肩をすくめた。
「話を聞く気があるなら、いいこと知ってるかもしれないけど。古語が混じってて半分わかんないけどね、あの人の言い方」
「今はどこにいますか」
「奥の談話室」
■■■
談話室の扉は半開きになっていた。
中に老人がいた。背が高く、体格にゆとりがある。毛皮のふちどりのある長衣を着ており、灰色に近い白髪を後ろで束ねていた。亜人系の骨格の輪郭がある。種族はすぐには判別できなかった。
扉をノックすると、老人がこちらを見た。
「おじゃるか」
古語の混じった低い声だった。
「失礼します。名誉聖騎士のハルトと申します。費用対効果目標の開示申請の件でご意見をうかがえればと思いまして」
「知っておるよ。若いのに厄介な肩書きを持たされておるのう」
老人は茶碗を置いた。
「まあ、掛けるがよかろう」
ハルトは椅子に腰を下ろした。リーシャは扉の近くに立った。
「費用対効果目標の開示申請に対し、補償院業務規則第十八条の三を根拠として不開示の回答が届きました」
老人は懐から煙管のような道具を取り出した。火はつけなかった。手の中で静かに転がしていた。
「ほほ。第十八条の三か。わしがその条文の適用を見るのは十数年ぶりじゃな」
「どういう経緯で制定された条文ですか」
「三百年ほど前の機構長が、財政難を理由に審査基準の外部開示を止めた。手続き上は正当に制定されておる。否定はせぬよ」
老人は一息ついた。
「ただし、費用対効果目標そのものを設定する権限については、その条文には何も書いておらぬよ」
(設定権限の根拠が、その条文にはない)
「つまり、費用対効果目標を設定すること自体の業務規則上の根拠は、第十八条の三とは別のところにある、ということですか」
「あるかもしれぬし、ないかもしれぬ。機構長の内部裁量として運用されれば、明示的な条文がなくても動く場合がある。だがのう」
老人は茶碗を指先で一度なぞった。
「申立人の権利に影響を与える運用であるならば、それが裁量の範囲に収まるかどうかは問いになりうる。理事会の承認を経て設定された指標なのか、それとも機構長が独自に定めたものなのか。どちらであるかで、手続きの話が変わってくるじゃろうよ」
(理事会の承認)
「理事会の議事録を確認するとすれば、どこから調べればよいですか」
「外部理事というのはな、理事会の議事録を参照できる立場にある。ただし直接渡すことはせぬ。参照できる場所と手順は、補償院の理事会規程の中に書いてある。探してみるとよかろう」
老人は立ち上がった。背が高い。長衣の裾が床すれすれだった。
「ここまでじゃ。老いた理事を酷使しすぎてはいかんよ」
「一つだけ聞かせてください。費用対効果目標が理事会の承認なしに設定されていたとすれば、それは業務規則上何の問題になりますか」
老人は振り返った。目がわずかに細くなった。
「機構長の権限の範囲と、理事会が持つ監督機能の問題になるじゃろう。古語で言えば、『長の手が規則の外に出ておる』というやつじゃな」
静かに扉を開けて、老人は廊下へ出ていった。
リーシャが帳面をそっと閉じた。
「理事会規程の条文を今日中に確認します」
「お願いします」
■■■
午後、ガレオスとともに外周警備の詰め所へ向かった。
コート・ジルバは五十代の人間の男だった。恰幅がよく、日焼けがある。ガレオスが入ってきたのを見て、立ち上がった。
「来たか」
ガレオスに向けた言葉だった。ハルトには視線を向けた。
「第七年次の副本はここにある」
机の上に書類の束を置いた。
「この期間にダグラスが在籍していたことは示せる。ただし加入記録の正本は、当時書記室に一括で出したはずだ。俺が確認したわけじゃないが、そういう手順だった」
ハルトは一枚一枚めくった。ダグラスという名前があった。任務区域の欄に「東の渡渉路」と書いてある。
(第四年次から第七年次まで、在籍の記録が揃う)
「一つ確認させてください。当時、外周記録簿の様式に変更がありましたか」
コート・ジルバは少し顔をしかめた。
「あったな。帳面の記入欄が変わった。配置換えに参照番号をつける欄が増えた」
「その変更を指示したのは誰ですか」
「俺じゃない。ヴィサル・クロウが言い出したことだ。当時は係主任だった。今は統括主任に上がっているはずだが」
(ヴィサル・クロウ。今より一つ下の職位のころから、様式変更に関わっていた)
「変更の時期はいつごろですか」
「五年前の春から夏にかけてだ。東の渡渉任務の直後だった」
(ダグラスが殉職した後。部隊再編の直後)
リーシャが帳面に書き込む音がした。
ガレオスが横から言った。
「ヴィサル・クロウとお前は、当時どういう関係だった」
「外周警備の同じ部署だ。係が違ったから直属じゃないが、顔は知っていた」
コート・ジルバは腕を組んだ。
「変更の理由は聞いた覚えがある。管理の精度を上げるためだと言っていた。当時は何もおかしいと思わなかった」
言葉を切った。
「当時は、他に気にすることが多かったからな」
ガレオスが静かに言った。
「ダグラスのことだ」
コート・ジルバは一度目をそらした。それから正面を向いた。
「そうだ。あの任務の後、部隊の人員整理が続いていた。書類の形式が変わっても、その時は頭になかった」
短い沈黙があった。
ハルトは書類の束を手元に引き寄せた。
「副本をお借りします。書記室への確認も今日中に取ります」
「書記室の保管期限は、五年前なら通常保管のはずだ。三十年以内なら廃棄にはなっていないはずだが、場所の確認は念を入れたほうがいい」
コート・ジルバは一度ガレオスを見た。何か言いかけて、やめた。そのまま机に戻った。
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夜、机に向かって今日わかったことを整理した。
コート・ジルバの副本で第四年次から第七年次まで、ダグラスの在籍が任務報告書の形で揃った。加入記録の正本は書記室に残っている可能性がある。残っていれば直接的な証明になる。
費用対効果目標の開示申請は不開示となったが、設定権限の業務規則上の根拠が明確でないことが示唆された。理事会の承認を経ているかどうかが次の確認点になる。
ヴィサル・クロウ。ダグラスの殉職と同じ時期に外周記録簿の様式変更を指示し、その後昇格している。変更の理由は「管理の精度向上」とされていた。
(偶然かどうかはまだわからない。でも名前が出るたびに、線が太くなっていく)
メモが肩の上でぽつりと言った。
「ほーー。外部理事さんって、食えないですのです。情報をくれるんだけど、なぜかはよくわからないですのです」
「そうだな」
「ヴィサル・クロウという人は、記録が変わる立場にいたですのです。必要だったのか、都合がよかっただけなのかは、まだわからないですのです」
「これから確認する」
ハルトはペンを置いた。
翌朝、ヤネから伝言が届いた。
父の古い任務仲間への接触がうまくいった。明後日の夕方に会えるとのことだった。
(明後日。また何かが動く)
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▼プチ解説コーナー
現実の年金記録欠落の救済手続き(厚生年金保険法第二条の五に基づく年金記録訂正申立)では、直接的な加入記録がなくても、業務命令書や同僚の証言など複数の間接書類の組み合わせで申立が認められるケースがあります。また、行政機関が審査基準を不開示とした場合、行政不服申立や情報公開審査会への諮問申立(行政機関情報公開法第十八条)で不開示の妥当性を争う手段があります。申立人の権利に影響する基準が非公開のまま運用されることは、手続き的公正さの問題として問われることがある点は、現実の行政でも共通しています。




