第48話 もう一つの申立
夕暮れの坂道は、石畳が夕日の色を吸ってじわりとオレンジに染まっていた。
声をかけてきたのはグレタというドワーフ族の女性だった。
見た目は四十代前後。背は低いが、肩の力が抜けていない。ずっとそれで生きてきた、という種類の強さがそこにあった。封筒を両手でしっかり持ち、唇を一度だけ動かしてから言った。
「遺族年金申請書の結果です。届いたのが、三日前です」
隣には少年が一人。十五歳前後、母親より頭ひとつ分高い。唇をまっすぐ結び、視線だけをハルトに向けていた。
「拝見してもよいですか」
グレタは封筒から書類を取り出した。紙の端がわずかに震えていた。
ハルトはその場で読んだ。
補償院発行の「審査結果通知(不承認)」。理由欄はこう書いてあった。
「申請に係る被加入者の加入記録において、在籍期間第四年次から第七年次の登録が確認できない。記録の不備が解消されるまで、本申立は受理できない」
(四年分、記録が……ない)
単純な申請ミスではない。年金局が管理している記録そのものに、穴がある。これはグレタが自分でどうにかできる問題ではなかった。
「ご主人が在籍していた時期の記録が、四年分、欠けているということですか」
「はい」
グレタの声は、平らだった。泣くのをこらえているわけではなく、とっくに泣いた後の声だった。
「ダグラスは、その間もずっと勤めていました。給金も受け取っていたし、装備の貸出台帳にも名前が載っていた。近所の人も、毎朝出勤していたのを知っています」
少し間があった。
「あの人の名前が、記録の上でどこにもいないなんて。そんなことが、あっていいんですか」
それだけ言って、口をつぐんだ。
息子のヤネは、母が黙ったあとも何も言わなかった。かわりに、書類を持つグレタの手の近くに自分の手を寄せた。触れるでも握るでもなく、ただそこにある、という置き方だった。
メモが、ハルトの肩でぱちりと目を開けた。
「ほーー。在籍台帳は存在するのに、加入記録だけ四年分なかったですか。記録の穴というよりも、存在ごとすっぽり消された感じがするですのです」
「メモ」
「静かにするですのです、はい」
少年が、小さなフクロウをじっと見た。ハルトと目が合うと、かすかに眉を上げた。
「ヤネ、と言います。母から話を聞いてもらえないかと」
「ヤネさん、ありがとうございます」
ハルトは書類をグレタに返した。
「今日はここで話すよりも、落ち着いて聞かせていただける場を改めて準備させてください。明日の午前中、時間を取っていただけますか」
グレタは頷いた。
■■■
翌朝、机の上には書類が二種類並んでいた。
ゲイルとハインズの案件。それからグレタの件。
(どちらも問題点は同じか?)
想定はしていた。ただ、どちらも手を抜けない。一方が崩れれば、連鎖する。
「ハルトさん」
リーシャが入ってきた。薄い冊子を手に持っている。
「ダグラスという正騎士の記録を、旧台帳で調べました。五年前に東の渡渉任務で殉職した記録があります。当時はガレオス主任騎士の指揮下でした。その後に部隊再編があって、再編処理のどこかで加入記録の更新が漏れた可能性が高いです。グレタさん自身に非はないと思います」
「ありがとうございます。引き続き確認をお願いできますか」
リーシャが冊子をテーブルに置いたとき、廊下から声がした。
扉を開けて入ってきたのは、ゲイルだった。後ろにハインズも続く。
ゲイルは少しだけ口を動かしてから、止まった。折りたたんだ書類を差し出した。
ハルトは受け取り、開いた。
補償院審査結果通知。ゲイル分(受付番号四三〇一番)、ハインズ分(四三二七番)。どちらにも「承認」と記されていた。
「認定されました」
ゲイルは黙っていた。
顎が少し動いて、また止まった。目が赤い。
「……ありがとうございます。これで安心して休めます」
低い声だった。ハインズが横でゆっくり息を吐いた。三年間、引き出しの中に書類を入れたまま待っていた男が、やっと吐ける息だった。
(よかった)
そう思った。同時に、引っかかりが残った。
(速すぎる)
財務局の費用対効果目標という情報は得た。K審査員の証言もある。ただ、それは非公式だ。公式の根拠で機構に申入れをしたわけではない。それなのに、翌日には承認通知が届いた。
ドルカが何かを判断した。何を根拠に、どのタイミングで。
「リーシャさん、補償院に連絡を取れますか。様式第三十号の追加申請について、回答の見通しを確認したいです」
「わかりました」
ゲイルがハルトを見た。
「まだ続けるんですか」
「はい。ゲイルさんとハインズさんの件は認定されました。ただ、費用対効果目標という仕組みが業務規則の上でどう定義されているのかは確認したいんです。同じ構造の中にいる人が、他にもいるはずなので」
ゲイルは少し考えてから、頷いた。
「それでいいと思います」
■■■
昼過ぎ、リーシャが補償院から戻ってきた。
「機構側から口頭で連絡がありました。今回の認定判断において、費用対効果目標の適用を本件から機構長が個別に除外した、とのことです。文書での正式回答は後日送付予定。K審査員への割り当て方法は今月末で見直すとも言っていましたが、費用対効果目標の仕組み自体には触れていませんでした」
メモが首をかしげた。
「つまりドルカは今回だけ例外扱いにして、仕組みそのものは残したですか。根っこはそのままですのです」
「そうです」
ハルトは書類を手元でたたんだ。
「今回は認定を取れた。それは事実です。ただ、費用対効果目標が業務規則のどこに根拠があるのか、それとも規則外の運用なのかを明らかにするための開示申請は続けます」
リーシャが静かに頷いた。
■■■
夕方、グレタとヤネを詰め所の小部屋に案内した。
テーブルの上に、不承認通知と旧台帳の写しを並べた。
「ダグラスさんが最初に団に入ったのはいつ頃ですか」
グレタが答え、ヤネが補足した。二人で話す様子は、長い時間をかけて同じ傷を抱えてきた人たちの、静かな連携だった。
聞きながら、記録を照らし合わせていった。
欠けている第四年次から第七年次は、東の渡渉任務の前後と完全に重なっていた。部隊再編があった時期だ。
「これはグレタさんのせいでも、ダグラスさんのせいでもありません。当時の団の事務処理の漏れです」
「でも、その記録は……取り戻せるんですか」
グレタの声に、わずかな揺らぎがあった。
「在籍を証明できる別の資料があれば、記録の不備を補完できます。台帳の写し、給金の受取記録、装備の貸出記録、任務の報告書。何でも使えます」
ヤネが、少し前のめりになった。
「父の持ち物の中に、古い任務記録が残っているかもしれません。あと、父がよく名前を出していた人がいます。ガレオス主任騎士という方です。生前、何度も話していました」
ハルトとリーシャが、視線を交わした。
◆◆◆ネゴシエイト◆◆◆
対象:ヤネ
感情:不安(父の話を委ねることへの緊張)、信頼(慎重な決断)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
スキルのウィンドウが視界の隅に浮かんだ。
(……ありがとうな)
声には出さなかった。
「確認してみます」
ハルトはそう答えた。
グレタは一度だけ書類に目を落として、それからハルトを見た。言葉はなかった。ただ頷いただけだったが、そこには何か重いものを手渡した人間の顔があった。
■■■
グレタたちを見送り、廊下を歩き始めたとき、リーシャが言った。
「外周記録簿の様式変更、まだ確認できていません。ゲイルさんが先月から記録欄の種類が増えたと言っていた件です。時期がちょうど、部隊再編後の配置換えと近くて」
「五年前のダグラスさんの件とは直接関係ないかもしれないけど」
「でも、記録の管理に誰かが意図的に手を入れているなら、話は変わってくると思います」
(そうだな)
ハルトは頷いた。
廊下の角に、人影があった。
腕を組んで壁にもたれていた。ガレオスだった。
こちらに気づいて、少しだけ身を起こした。それだけで動かなかった。
「グレタが来たと聞いた」
声は低く、平らだった。感情を押し込んだような低さだった。
「はい。ダグラスさんの遺族年金の件です」
ガレオスはゆっくり頷いた。
「ダグラスは俺の部隊にいた。東の渡渉任務で死んだ。あのとき、俺が指揮していた」
一拍置いた。
「記録が抜けているとしたら……それは俺の怠慢だ」
ハルトは何も言わなかった。言葉を探してではなく、言う必要がないと判断したからだった。
ガレオスが口を開いた。
「明日、来い。持っているものを出す」
それだけ言って、廊下を歩いていった。
リーシャが、静かに息を吐いた。
「思ったより……早かったですね」
「そうですね」
ハルトは廊下の先を見つめた。
(健康保険も年金も、制度はあるのに使えない状態だった。それを普通のことと思ってきた人たちが、使えるようにするために動き出した。それは今までの俺たちの動きを見て感化されたのかもしない。絶対にグレタさんを助ける。)
胸の中で、そう決心した。
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あとがき
今回は遺族年金の「加入記録の不備」による不承認という場面が登場しました。
▼プチ解説コーナー
現実の厚生年金保険では、加入記録に漏れや誤りがある場合、年金事務所に「年金記録訂正申立」を行うことができます(厚生年金保険法第二条の五ほか)。証拠となる書類(給与明細、源泉徴収票、雇用契約書、当時の上司や同僚の陳述書など)があれば、記録の欠落を補完できる場合があります。
2007年以降の「消えた年金」問題では、旧社会保険庁の事務処理ミスや記録管理の不備によって約五千万件の記録が宙に浮きました。本人の申告漏れだけでなく、事業者側の届出漏れや行政側の入力ミスも原因になりえます。「自分には関係ない」と思わず、ねんきんネットで一度確認しておくと安心です。加入記録を放置しても、法的に失効するわけではありません。あきらめずに申立てを。




