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第47話 圧力の出所

あの数字が頭から離れない。


K審査員の却下率が他の担当者平均の三倍以上。開示回答書が届いたのは三日前で、それ以来何度も書類を広げては閉じた。数字は変わらない。ゲイルとハインズ、二人の案件が揃って同じ審査員の下にある。


翌朝、廊下でゲイルを見つけた。


「今日、補償院に追加の開示申請を出してきます」


「また申請ですか」ゲイルが立ち止まった。少し疲れが顔に出ているが、目の奥に火がある。


「K審査員への個人攻撃じゃないです。担当者の割り当て基準を機構全体の問題として問う内容にします。ゲイルさんの名前は申立人として出ますが、K審査員を責める書き方にはしない」


廊下の先からハインズが来るのが見えた。


「何か話してましたか」


「今日の予定の話です。補償院に開示申請を出してきます」


ハインズが頷いた。「俺たちにできることはありますか」


「今日は待っていてください。回答は七日以内のはずです。何か動きがあれば報告します」


ゲイルが一言言った。「よろしくお願いします」


その声がちょっと、普段より重かった。


■■■


補償院の窓口にはフィアがいた。


様式第三十号を差し出すと、フィアは書類を一枚ずつ確認してから受け取った。


「審査担当者の割り当て基準および選定手続きに関する情報提供要請。受理いたします」


「ありがとうございます。回答は七日以内で、前回と同じ形式ですか」


「はい。規則通りに」


フィアの声が、わずかに詰まった。


目が机の端に落ちて、すぐに戻ってくる。普段より少し、間がある。


「何か言いにくいことがあれば言わなくていいです。巻き込みたくないので」


フィアが真っ直ぐ顔を上げた。一秒、目が合った。


「……ありがとうございます」


それだけで窓口は終わった。廊下に出てから、リーシャが低く言った。


「フィナが今日いませんね」


「気づいてた。研修って言ってたけど」


「フィアの顔が固かったです」


「ああ」


フィナがいない日に、フィアだけが何かを抱えている。何があったのかは分からない。今は踏み込めない。


■■■


ロビーの公開掲示板の前に立った。


審査部の担当者一覧がガラスの中に並んでいる。名前ではなく識別番号だ。個人が特定されにくい設計になっている。


(K審査員が誰かは公式には分からない。でも、K審査員は自分が何を担当しているか知っている。俺たちが誰かも知っているはずだ)


「結城様でいらっしゃいますか」


振り返ると、三十代前後の職員が立っていた。審査部ではない識別章をつけている。


廊下の端、窓のない壁の角で男は声を落とした。


「K審査員が、あなた方と個人的にお話ししたいと言っています。今日の昼、補償院の外で。誤解を解きたい、と」


俺はリーシャの顔を確認した。リーシャが目で問う。


「場所を教えてください」


男が時間と場所を告げて去った。


「罠かもしれません」リーシャが小声で言った。


「分かってる。でも行く。K審査員が自分から動いてきたということは、向こうにも何かある」


■■■


昼過ぎ、補償院から東に五分ほどの広場。石の長椅子に人影があった。


四十代半ばほどの女性が座っている。審査部の識別章を外して膝の上に置いていた。目の下に薄い影がある。眠れていないのかもしれない。


「わざわざ来ていただいてありがとうございます」


「こちらこそ」


俺たちが向かい側に立つと、女性は椅子の端を両手で押さえた。


「私は、担当する案件を選んでいません」


俺は黙って待った。


「割り当ては、審査部の管轄部署から毎週届きます。ゲイルさんの案件も、ハインズさんの案件も、届いたから審査しました。担当者側に選ぶ権限はない」


「チェックリスト改定後に却下件数が急増していることについては」


「月次の評価基準が変わりました」女性の声がわずかに落ちた。「担当者ごとに『費用対効果目標』が設定されていて、却下率の下限が定められています。一定以上の承認率になると、担当者の月次評価が下がる仕組みです」


俺はそのとき、ネゴシエイトを試してみることにした。以前は自然起動したとき使うつもりがなかったが、今は意識的に向ける。


◆◆◆スキャン結果◆◆◆


対象:K審査員(識別番号)


状態:真実を述べている(確信度:高)


不安:職を失うことへの恐れ(継続中)


罪悪感:申立案件への関与(蓄積)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


(これは本当のことを話している)


「その費用対効果目標は、誰が設定しているんですか」


「財務局です。補償院の審査部長を経由せず、財務局の決裁ラインから目標値が降りてきます。私の直属の上席ですら、細かい根拠は把握していないと思います」


(財務局)


頭の中で何かが動いた。これまでドルカが動揺しなかった理由がここにある。機構長の決裁じゃないから、問い詰めても手の届かないところにある。でもドルカは知っていたはずだ。それでもあのとき「根拠で応じる」と言った。どういうことだ。


「この話を、正式な場で証言できますか」


女性がゆっくりと首を横に振った。


「できません。こうしてお話しするだけでも、懲罰の対象になりえます」短い沈黙。「私は……ただ、誤解を解きたかった。二人の申立を意図的に潰したかったわけじゃない」


「分かりました」


立ち上がりながら俺は言った。


「一つだけ聞かせてください。ゲイルとハインズの申立、根拠があると思いますか」


長い沈黙が落ちた。


「……チェックリスト改定前の基準なら、二件とも通っていたと思います」


「ありがとうございます。話してくれてよかった」


女性が識別章を胸に付け直して立ち上がった。


「良い結果を……祈っています」


■■■


その足で補償院の最上階に向かった。


機構長室の扉をノックすると、ドルカは書類に向かっていた。俺たちが入るのを確認してから手を止める。


「また来たか」


「一つ確認させてください。チェックリストの内容と、それをどう運用するかの数値目標は、別の決裁ラインですか」


ドルカが黙った。一秒、二秒、三秒。


「そうだ」


「財務局が却下率の目標を設定している。機構長の決裁ではない」


「俺は審査の内容を定める権限を持つ。数値目標の設定は、俺の決裁ラインの外だ」


俺は続けた。


「以前あなたは言いました。『あなたが根拠で動くというなら、私は根拠で応じます』と。今日の返答も、根拠に基づいていますか」


ドルカが俺を見た。真正面から。表情は動かない。


「組織の構造を説明している。俺に責任がないと言いたいわけじゃない」


短い言葉だったが、俺にはそれで十分だった。


「分かりました。ありがとうございます」


頭を下げようとしたとき。


「待て」


ドルカが立ち上がり、窓に向かって一歩歩いて止まった。


「財務局の決裁は、健康保険の領域だけに及んでいない」


俺は息を止めた。


「年金局も、同じ決裁ラインの下にある」


ゲイルとハインズの案件はまだ健康保険の領域にある。でも財務局の目標値が年金局にも及んでいるとしたら、問題の規模がまるで違う。


「……なぜ、それを教えるんですか」


ドルカが窓の外を向いたまま答えた。


「お前が感情で動くか、根拠で動くか、見ていた。今日のお前は、根拠だった」


一秒の間。


「続きは、お前の仕事だ」


■■■


補償院を出て、石畳の坂道を下った。


夕方の光が長く伸びて、二人の影が前を歩いている。


「財務局という名前が出ました」


「健康保険の申立の根っこだった。ゲイルとハインズの案件でK審査員の却下率が突出していたのは、担当者個人のせいじゃなく、財務局が設定した月次の目標値のせいだ」


「K審査員は、ノルマをこなしただけということですか」


「そう。制度を悪用した個人じゃなく、構造の問題だ。財務局が目標を下ろして、現場の審査員がそれに従う。機構長の決裁も及ばない」


リーシャが少し考えてから言った。


「でも年金局にも同じ構造が及んでいるとしたら、年金局側の問題も同じ根を持つことになりますね」


「ドルカはそれを知っていて、俺に気づかせた。自分の管轄外だから直接は動けないが、目を向けさせることはできる」


坂の途中で足が止まった。


坂の下に人影があった。女性が一人、子供らしき少年の手を引いている。ドワーフの体格、五十代前後。俺たちに気づいて、一歩躊躇してから近づいてきた。


「あの……聖騎士団の方ですか」


声が震えていた。手に折れかけた書類を持っている。


「はい」


「少し、聞いていただけますか。夫のことで、補償院に申立をしていたのですが。今日、結果が届いて」


隣の少年が、母親の袖を無言で握ったまま立っていた。


俺はリーシャと顔を見合わせた。


「話してください」


夕日を背に受けて、女性が一歩踏み出してきた。


---


【あとがき】


プチ解説コーナー:今回の「費用対効果目標」と「却下率の下限設定」は、行政機関の裁量行使と財務制約が衝突するときに生まれる問題です。現実でも審査機関によって認定率に差があることは指摘されており、原因が担当者個人ではなく組織の数値目標にある場合があります。現実の行政手続法第5条は審査基準の公表義務を定めていますが、内部の目標値まではカバーしにくい。K審査員の場面で使ったネゴシエイトスキルは、相手の本音と不満を可視化する。労務相談の現場で「この人は何を本当に求めているか」を感じ取る力に近いものです。

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